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第三十五話

【王立記録局・探索依頼文書】

依頼番号:第2786号/機密等級A-2

発信者:王立記録局・特別探索課

宛先:探索担当者 エヴァン・クロスフィールド殿、セシリア・ヴァレンタイン殿


【任務名】

《探索任務:沈降都市〈ラグナ=ヴェイル〉に眠る断章の大書庫》


【任務目的】

沈降都市の現状調査

 大陸西岸沖合に沈む旧都市ラグナ=ヴェイルの地形・構造および、魔力潮汐による変動の記録を収集すること。

 ※都市は海面下に半ば沈降しており、干潮時にのみ一部の施設が露出。


《断章の大書庫》の探索・収蔵品回収

 ラグナ=ヴェイルの中央塔地下に存在するとされる古代の大書庫から、破損・流出を免れた文献・記録媒体を回収。

 ※一部資料は水没または魔力腐蝕の危険あり。


潮声の碑文の解読と危険度評価

 沿岸民から報告された「潮の満ち引きに呼応して音を発する碑文」の正体を確認し、その影響範囲および発生源を特定。


【背景情報】

 ラグナ=ヴェイルは神聖歴710年に海中へ沈降した沿岸都市で、かつては交易と学術の中心として栄えた。

 その没落の原因は七潮の災禍と呼ばれる現象であり、記録の大部分は失われている。

 近年、干潮時の都市遺構に立ち入った漁民から、耳に直接響く低い囁き声の報告が相次ぎ、局は危険事象と判断。

 予備調査員はすでに2名行方不明となっている。


【危険度評価】

魔物危険度:★★★☆☆(海棲魔物・幻声発生)


環境危険度:★★★★☆(潮汐・浸水・魔力腐蝕)


特殊危険度:不明(幻声および碑文の呪的影響)


【備考】

潮位表と魔力潮汐予測を同封。行動時間は干潮開始後6時間以内を厳守すること。


探索補助として《水中呼吸の魔導符》を支給。


収集対象は極力無損傷で搬出せよ。破損の危険がある場合は現地で複写・記録すること。


署名:

王立記録局 特別探索課 課長

アウレリウス・ヴェルディン(印)



 王立記録局の封蝋を解き、依頼文書を読み終えたエヴァンとセシリアは、重く沈んだ視線を交わした。

「……今度は海の底か」

 エヴァンが低く呟くと、窓の外では夏の陽が淡く傾き、王都の尖塔の影を長く伸ばしていた。

 セシリアは巻物を丁寧に筒に戻しながら、わずかに口角を上げる。

「沈降都市ラグナ=ヴェイル――名前だけは、学院時代に何度も聞いたわ。けれど実際に行ける人間はほとんどいない。理由は……帰ってこられないから」

「その帰ってこられないの原因を、俺たちが調べるわけだな」

 短く言葉を交わし、二人はすぐに準備に取り掛かった。


 翌朝、王都を馬車で発った彼らは、南西へと延びる海沿いの街道を進む。

 やがて大地の匂いは塩気を帯び、遠くに薄青く光る水平線が見え始める。


 三日後、沿岸の町カロネアに到着した。ここがラグナ=ヴェイル探索の前線基地となる。港は小規模ながら、干潮を見計らって漁船が次々と出入りしていた。

 港の外れに建つ木造の詰所で、二人は現地案内役の老人――潮路師しおじバレンと顔を合わせた。

「お前さんらが記録局の探り屋か……今日は運がいい。夜半に大きく潮が引く。沈んだ街の一部が、月明かりの下で顔を出すだろう」

 そう言って老人は、皺だらけの手で古びた潮位表を差し出す。その表の端には、赤い墨で印が付けられていた。


 日が沈む頃、港から西を望めば、海の向こうに黒い影が浮かび上がっていた。

 それは波間に沈み、また浮かび上がる――塔や壁のような輪郭。

「……あれが、ラグナ=ヴェイル」

 セシリアの声が、潮風にさらわれるように小さく消えた。

 海は静かだが、耳の奥に微かな響きがある。潮の満ち引きとは異なる、低く脈打つような音。


 干潮まで、あと二刻。

 二人は装備の最終点検を済ませ、月光の照らす海路へと踏み出そうとしていた――。



 月が高く昇った頃、港は静まり返り、波打ち際だけが銀色の光を帯びて揺れていた。

 潮路師バレンの小舟が、闇を切り裂くように岸を離れる。船底を叩く波音が、静かな夜に不気味なリズムを刻んだ。


 エヴァンは甲板の縁に片膝を立て、遠くに見える黒い影を睨む。

「……近づくほどに異様だな。海の匂いじゃない。腐った……石の匂いだ」

「石が腐るなんて、普通はありえないけれど」

 セシリアが小声で返す。彼女の視線は水面に映る月を追い、その奥で揺れる影を探っていた。


 やがて船は浅瀬に差しかかり、船底がごつごつとした感触を伝えた。

「ここから先は歩きだ。足元に気をつけな」

 バレンが言い、船を止める。

 エヴァンは海水を蹴って上陸し、濡れた石畳に足を乗せた瞬間、足首まで冷たい感触が這い上がった。

 ……温度ではない。これは、何かの気配だ。


 眼前に広がるのは、波に洗われながらも崩れず残った大通り。両脇には半壊した建物が並び、その壁面には海藻と珊瑚が絡みついている。

 遠くの塔の先端では、海鳥が一声鳴いて飛び去った。


 セシリアが立ち止まり、壁面に手を当てる。

「……感じる? この振動。石そのものが何かを話している」

「俺には低い唸りにしか聞こえないが……」

「違うわ。これは……言葉よ。古代潮声語アクワ・ルーン。海と共に生きた旧ラグナの人々の言語」


 彼女が呟くと、足元の石畳に淡く光る線が浮かび上がった。

 やがてその光は、通りの奥――半ば水に沈む広場へと導く道筋を描く。


「行こう。これは案内よ」

 セシリアの声に頷き、エヴァンは魔剣の柄に手をかけた。

 広場の中央には、半球形の石造物――潮声の碑文が鎮座していた。

 波間で揺れる光が碑面を照らし、無数の刻印が脈動している。


 次の瞬間、周囲の水面が不自然に盛り上がり、冷たい海風とは異質な圧が二人を包み込んだ。

「……出るぞ」

 エヴァンの言葉と同時に、水面から影が立ち上がり、滴るような音と共に形を成していく――。



 水面から立ち上がった影は、やがて二対の腕を持つ異形の輪郭へと変わった。

 鱗のように海藻がまとわりつき、胸から腹にかけては貝殻の甲冑で覆われている。頭部は人に似るが、目は空洞――そこから絶え間なく海水が滴り落ちていた。


 口のない顔が、深海のような低い響きを放つ。

「――侵入者」

 セシリアが眉をひそめる。

「碑文そのものが呼び出した守護者……古代の都市防衛術式ね」


 エヴァンは魔剣を抜き放つと、刃に海の光を受けた青白い輝きが走った。

「来るぞ」


 異形の腕が一閃。水飛沫が刃のように空気を裂き、石畳を斜めに抉る。

 エヴァンは後方へ跳び退き、反撃の踏み込みを取った。

「――斬ッ!」

 横薙ぎの一閃が、異形の右腕を海藻ごと切り裂く。だが切断面は瞬く間に再生し、海水と共に泡立った触手が覗く。


「再生型か。面倒だな」

「試練に耐えられない者は、ここから先へ進めない……そういう仕組みよ」

 セシリアが詠唱を始めると、杖先から青い魔法陣が広がる。

「――《フロスト・スパイア》!」


 地面から氷柱が幾重にも突き上がり、異形の足を絡め取った。

 その瞬間、エヴァンが海風を切り裂く勢いで踏み込み、魔剣を頭上から振り下ろす。


 刃が額の貝殻を砕き、異形の体を深く裂く――しかし内部から吹き出したのは血ではなく、圧縮された海の奔流だった。

 水流は暴風のように二人を押し飛ばし、背後の石壁に叩きつける。


「くっ……!」

 海水の塩辛さが口に広がる中、エヴァンはすぐに起き上がり、魔剣を構え直す。

 異形は半身を失いながらも、残った片腕で碑文に触れ、刻印を脈動させた。


 セシリアの目が見開かれる。

「……この攻撃、第二段階に入る!」


 碑文の輝きが強まり、広場全体の水位が急激に上昇を始めた。

 足元まで迫った水が、まるで意志を持つ蛇のように二人へ絡みつこうとしていた――。



 冷たい海水が脛まで満ち、足取りを鈍らせる。

 上から差し込む淡い光が、揺らぐ水面越しにゆらゆらと二人を包む。

 異形の空洞の眼窩が青白く光り、碑文から発せられる脈動は一層速まっていた。


「このままじゃ、ここ全体が水没するわ!」

「なら、奴を倒して止めるしかない!」


 エヴァンは膝を深く曲げ、水を切り裂く踏み込みで距離を詰める。

 異形が両腕を広げると、周囲の水が一瞬で刃と化し、弧を描いて襲いかかってきた。

 エヴァンは魔剣で防ぎきりながら反撃の一閃――しかし海水の刃は霧のように散っては再び形を成す。


「再生も防御も、水そのものを操ってる……!」

 セシリアの指先に雷光が集まる。

「なら、蒸発させればいい――《サンダーストーム》!」


 上空に雷雲が巻き起こり、稲光が水面を焼き走る。

 一瞬で白い蒸気が立ち込め、異形の動きが鈍った。


「今だ!」

 エヴァンは魔剣を両手で握り、刃先に魔力を注ぎ込む。

 青白い光が濃くなり、波の音を覆い隠すほどの唸りをあげた。


「――砕けろッ!」

 跳躍と同時に振り下ろされた魔剣が、異形の額から胸へ一直線に裂け目を走らせる。

 光が迸り、碑文の輝きが急激に弱まる。


 異形は最後に水の咆哮を上げ、体を支えていた海水が崩れ落ちるように形を失った。

 水位は引き、広場の中央には砕けた貝殻の残骸と、淡く光る石片が残った。


「……終わった、か?」

 セシリアが杖を下ろすと、碑文の脈動は完全に止まっていた。

「ええ。これで先へ進めるはずよ」


 エヴァンは海水に濡れた魔剣を軽く振り、刃を払った。

 視線の先、碑文の奥に新たな通路が現れている。

 その先こそ、終末の列音群の核心へと続く道だった。



 異形が崩れ去った広場には、静かな波音と、まだ温もりを残す蒸気が漂っていた。

 エヴァンは腰のポーチから記録板を取り出し、周囲を見回す。


「……まず、ここまでの地形データを記録しておく」

 彼は壁面に刻まれた浸水痕や岩肌の亀裂を、淡い青光を放つ測定魔具でなぞる。水位の変動、岩盤の沈下傾向――それらはすべて沈降都市の現状把握に欠かせない情報だ。


 セシリアは反対側の通路を調べ、濡れた石床に残る渦模様の魔力痕を見つけた。

「ここ、潮の流れじゃなくて……魔力潮汐による侵食ね。周期は干満と同期しているわ」

「つまり、潮声の碑文はこの都市全体の呼吸の一部ってことか」

 二人は短くうなずき合い、次の目的地へと視線を移す。


 広場奥の新たな通路は、中央塔の基部へと続いていた。そこにあるのが、《断章の大書庫》。

 入り口には半ば崩れた扉枠と、青緑の海藻に覆われた封印紋が残っている。


「封印は解けかけているけど……内部の水位は安定していそうね」

「なら急ぐぞ。干潮が終わる前に回収だ」


 二人は通路を進む。壁の彫刻には、かつてこの都市が海を支配していた時代の記録が刻まれている――海神への奉納、深海の交易、そして沈降の予兆。


 やがて、視界に広がったのは半球状の大空間。

 そこには、崩れかけた書架が環状に並び、中央には石製の巨大な書見台が鎮座していた。

 水面下の棚には、金属製の防水筒や魔封の木箱が沈み、かろうじて原形を保っている。


「生き残ってる記録媒体は……あそこだな」

 エヴァンは魔力感知で腐蝕の進行度を確認し、安全と判断した文書を次々と回収する。

 セシリアは同時に碑文断片を照合し、先ほど戦った潮声の碑文との関連性を探っていく。


「エヴァン、これを見て」

 差し出されたのは、塩と錆にまみれながらも読解可能な一枚の金属板。そこにはこう刻まれていた――


 潮は満ち、声は眠り、

 潮は引き、声は目覚める。

 声、終焉を告ぐるとき、

 都は再び海の底へ。


「……危険度は高だな。放置すれば都市全体が完全沈没する」

「少なくとも碑文は予兆装置、あるいは制御の一部。危険範囲は沿岸部まで届くわ」


 任務の三目的――すべてが、この沈降都市の心臓部に繋がっていた。

 残るは、この碑文の発生源を突き止めること。


 そしてその道は、大書庫の奥、海水が滲み込む暗い螺旋階段へと続いていた。



 螺旋階段は、塔の基盤を貫くように下へ下へと続いていた。

 壁面には海藻が垂れ下がり、時折、天井の亀裂から雫が落ちる音が響く。


 エヴァンが先頭で進み、片手の魔灯が水面に揺らめく光を投げた。

「……水位、ここから先は膝までだな」

「潮の流れも早くなってる。奥で何かが……呼吸してる」

 セシリアの声は低いが、確かな緊張を帯びていた。


 数十段下ると、急に空間が開けた。そこは地下ドーム状の広間。

 中央には、高さ十メートルはあろうかという黒い石柱が立ち、その全面を覆うように無数の古代刻印が刻まれている。

 刻印は波打つように淡く発光し、まるで海中で揺れる光帯のようにリズムを刻んでいた。


「……これが潮声の碑文の本体か」

 エヴァンが呟いた瞬間、低く脈打つ音が全身を貫いた。

 耳ではなく骨に響く――まるで自分の血流が他者の鼓動と同調させられる感覚。


 セシリアは額に手を当て、必死に言語構造を解析する。

「これは……言葉じゃない。音そのものが魔術構造を持ってる。干潮と満潮で刻まれるパターンが違う……」

「つまり、満ち潮でこの都市を沈め、引き潮で目覚める仕掛けってことか」

「ええ。でもこの鼓動……今は引き潮なのに加速してる。誰かが起動を早めてる」


 石柱の根元――水面下に、何かが蠢いた。

 暗い水の奥から現れたのは、碑文そのものを肉体化したような巨影。

 全身が刻印と貝殻で覆われ、背には珊瑚の角を生やしている。

 目はなく、代わりに全身の刻印が開閉し、潮の音を吐き出していた。


「……来るぞ、セシリア!」

 エヴァンが魔剣を構え、セシリアが防御陣を展開する。

 石柱から放たれた鼓動が一際強く鳴り、広間の水位が一気に上昇を始めた――。



 水位は膝まで迫り、波紋が広間全体で不規則にぶつかり合っていた。

 その中心で、碑文の化身がゆらりと立ち上がる。

 背中から伸びた珊瑚角が、光を帯びて水面に血のような赤を散らす。


 刻印が一斉に開き、低く長い音が響いた。

 ――その音は、言葉ではなかった。

 だが、頭蓋の内側で直接意味を結び、エヴァンとセシリアに流れ込んでくる。


「去レ、記サレザル者ヨ」

「潮ハ全テヲ覆ウ」


 エヴァンは即座に魔剣を構えたが、膝までの水が足を鈍らせる。

 化身の腕が振り抜かれると同時に、水柱が刃となって襲いかかる。

 金属が悲鳴を上げるような音――エヴァンは斜めに刃を振り、迫る水を切り裂いた。


「セシリア、あの刻印だ! 全部が動いてるわけじゃない、特定の列が……!」

「分かった、パターンを固定する!」

 セシリアの魔導陣が水面に展開し、化身の左半身の刻印の動きが一瞬鈍る。


 そこへエヴァンが飛び込む。

「――斬ッ!」

 魔剣の刃が左肩から胸部を裂くが、溢れ出したのは血ではなく泡と光。

 泡は弾け、周囲の水が逆流するように彼を押し返す。


「試練ヲ超エヨ」

「潮ノ記憶ニ刻メ」


 化身が再び音を放つと、広間全体の水が逆巻き、巨大な渦となって二人を呑み込もうとする。

 水中で視界が歪み、上下の感覚が消える――エヴァンは息を止め、渦の中心で光る石柱を睨んだ。


「……あれが核だ!」

 心の声を読んだように、セシリアの魔力が水中で閃く。

《雷鳴詠唱――ストームランス》!

 水を伝って雷撃が走り、化身の動きが硬直する。


 その隙に、エヴァンは渦を逆らって突進。

 魔剣に全魔力を込め、斬撃を放った。


 ――刃が核を貫き、石柱全体の刻印が一斉に光を失う。


 化身は崩れ、水と共にただの残骸へと変わった。

 広間の水位は急速に引き、静寂だけが残る。


「……終わったな」

「ええ。碑文の発生源は完全に沈黙したわ」


 残されたのは、核の破片と、刻印の奥から現れた一片の金属板。

 そこには、ラグナ=ヴェイル最後の日を記したと思しき古代文字が刻まれていた――。



【王立記録局提出文書】

報告番号:R-EX-2786-LV

提出者:エヴァン・クロスフィールド/セシリア・ヴァレンタイン


■ 任務名

《探索任務:沈降都市〈ラグナ=ヴェイル〉に眠る断章の大書庫》


1:沈降都市の現状調査

 現地到着時点で、都市構造の約65%が海面下に没しており、干潮時に露出するのは中央塔基部および西岸街区の一部に限られる。

 石材は長期の海水浸食と魔力潮汐による構造疲労を受け、複数箇所で沈下の進行を確認。

 魔力測定の結果、都市全域において微弱な潮汐性魔力波が観測され、周期は干満の潮と完全に同期している。


2:《断章の大書庫》の探索・収蔵品回収

 中央塔地下に存在した大書庫より、以下を回収:


防水筒に封入された羊皮紙文書(計14本/読解可能8本)


魔封木箱内の金属板文書(計5枚/腐蝕軽度3枚)


古代潮声語による碑文断片(計4片/潮声の碑文関連)


 水没区域の資料は一部腐蝕・劣化が進行していたため、現地で複写記録を実施し、原本は現状保存。


3: 潮声の碑文の解読と危険度評価

 碑文本体は中央塔基部地下ドームに存在し、都市全域の魔力潮汐を制御する機能を有していた。

 発生源は碑文の化身と呼称すべき守護構造体であり、干満のサイクルに応じて都市を沈降・浮上させる役割を持つ。

 発生範囲は広大で、沿岸部まで影響を及ぼす危険性を確認。


 本任務において化身は破壊され、碑文の脈動は停止。魔力潮汐は基準値に低下。

 今後の再活性化は低確率と判断されるが、碑文の残骸と核片は王立解析局に送致済み。


■ 付記

 碑文に刻まれた最終記録は、ラグナ=ヴェイル沈降直前の市民避難指示であった。

 内容は以下の通り(抄録):


 潮は満ち、都は眠る。

 潮は引き、都は目覚める。

 声、終焉を告ぐるとき、

 我らは海を還す。


 これが意図的な沈降であった可能性を示唆。さらなる調査を要す。


提出者署名:

エヴァン・クロスフィールド

セシリア・ヴァレンタイン



 報告書を提出し終えた午後、二人は局舎を出て、秋の陽が差す大通りを歩いていた。

「……潮の音がしないだけで、こんなに静かなんだな」

「静けさって、記録できないものね」

 セシリアが小さく笑う。


 今回救い出した文書や断片は、再び語られる機会を得た。

 それが未来をどう変えるのかは、まだ分からない。

 だが、二人は知っている――語られないまま沈むことの重さを。


「次はどんな場所が待ってると思う?」

「さあな。ただ――」

 エヴァンは視線を前に向けた。

「俺たちは記す者だ。どこへ行っても、それだけは変わらない」


 その言葉に、セシリアは深くうなずいた。

 秋の風が二人の間を抜け、遠くの尖塔を黄金色に染めていた。



 ラグナ=ヴェイルから戻って十日。

 王都の空は高く澄み、通りの街樹は青々と茂っていた。


 セシリアは局舎近くの小さな喫茶店の窓際で、湯気の立つカップを手にしていた。

 テーブルには、解析局から返された金属板文書の複写と、潮声語の語彙集が広がっている。


 扉の鈴が鳴り、エヴァンが入ってきた。

「……また研究漬けか」

「ええ。あの碑文の詩形、全部は解読できてないの。でもね、一部は、ただの予言じゃなかった」

 彼女は金属板の複写を指でなぞる。


 潮の眠りは、記す者の夢により破られる。


「記す者の夢……まるで私たちのことを見ていたみたいでしょ」

「偶然じゃないかもな」

 エヴァンは腰を下ろし、持ってきた包みを机に置く。中には港町カロネアの干物と、潮の香りが残る小瓶。


「土産?」

「ああ。……あの港の漁師たちが、碑文が静かになってから潮の流れが穏やかになったってさ」

 セシリアは瓶を手に取り、ふたを開けた。ほのかに海藻の香りが広がる。

「懐かしい匂い……でも、あの渦の中じゃ、こんなに穏やかじゃなかった」


 二人の間にしばし沈黙が落ちる。

 あの水中の闇、刻印が放つ鼓動――記すことが命を賭ける行為になる瞬間。

 それはもう過ぎたはずなのに、確かに体のどこかに残っていた。


「……セシリア、次の任務が来たら、また行くか?」

 彼女はゆっくりとカップを置き、真っ直ぐ彼を見た。

「もちろん。だって――沈む前に記さなきゃならない物語が、まだたくさんあるもの」


 窓の外、陽光が石畳を照らし、遠くの尖塔の先端を黄金色に染めていた。

 二人はその景色をしばらく眺め、やがてまた資料へと視線を戻した。

 潮の記憶は遠くなっても、記すべき声はまだ消えてはいなかった。

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