第三十二話
それは、かつて学術と記録の聖地と呼ばれた地――
グリム。
大陸南東部、今や無人となった広大な砂漠地帯の中央に、その都市は存在していた。
石と文書の国。砂と記録の都。
かつて王家の使者が書を献じ、魔導学院が記録を納めた場所。
しかし、五百年前の地殻変動と干ばつにより都市は砂に沈み、記憶もまた忘却の彼方へと消えた。
今回の依頼は、王立記録局の上層部からの直接依頼。
グリムの記憶殿と呼ばれる中央建築物の一部が、最近になって風化した砂丘の崩落により露出。
かつてこの地に納められていた記録断片、ならびに古代言語の一部が確認されたことで、調査が急務となった。
◆依頼概要
任務名:グリム記憶殿の調査と記録断片の回収
依頼主:王立記録局(特別歴史遺構部門)
目的1:砂に埋もれた古代言語の断片回収
目的2:中央殿堂の封印扉の確認と開封許可の判断
目的3:知識を守るために失われた記憶に関する調査
備考:過去の記録封印に関与した記憶守秘官の存在が示唆されている。精神干渉の可能性に注意。
「……前回の黄昏の書架の件、まだ後処理が残ってるってのに、せっかちね」
セシリアが嘆息するように呟く。手には古びた地図と砂漠地帯の調査写真。
「記録が風にさらされれば、それはもう二度と拾えないって、記録局の御大が言ってた」
エヴァンは淡々と鞘に収めた魔剣を腰に下げ、軽装の旅支度を終える。
「グリムか……。本当にあの伝承が残っていたのね」
「伝承じゃなくて、今度は回収可能な現物だ。古代の記憶言語、記録守秘官、封印された知識……どれも危ういが、俺たちの仕事だ」
ふたりは資料と装備を確認し、局の小さな輸送艇で王都を出発する。
半日後、彼らは風に吹かれる砂丘を越え、かつての都市グリムの外縁に到達する。
陽光に焼かれた石板が砂の中から斜めに突き出している。
かつては門だっただろう巨大な構造物は、今は傾き、半ば砂に呑まれている。
――そして、その奥に口を開くのが、記憶殿の地下階層入口。
「やっぱり、誰かが手を入れてる……」
セシリアが扉の痕跡を調べながら言った。人為的な封印魔術が、数日前に何者かによって中和された跡がある。
「先客がいる、か……あるいは、中から出たやつがいたのかもしれん」
エヴァンが魔剣の柄に手を置きながら呟く。
砂を払うと現れたアーチ状の石造門。その先は黒く口を開け、古代の静寂を湛えていた。
エヴァンが一歩踏み出すと、魔剣の刃が微かに震える。
「……感じるな。これは……残留記憶の層だ」
「ええ。精神干渉型の魔術が、この空間そのものに染み込んでる」
二人は慎重に地下通路へと降りていく。壁面には風化した浮彫と、崩れかけた記録棚の名残。
が、そこにはひとつ――比較的保存状態のよい記録冊子が落ちていた。
セシリアがそっと拾い、保護魔術をかけながら開く。
「……文字体系が混在してるわね。音韻記録式と、思想写意式が一緒に……これ、意図的に読まれにくくされてる」
「封じられた知識……か。これは記録局にとって宝の山だな」
古代の書には記録権を持たぬ者への封印という言葉が繰り返されており、
かつてここが単なる保管庫ではなく、記録に立ち会う者の資格を試す場所であったことが示されていた。
セシリアが冊子の一部にふと目を留める。
「記録を忘れることで、真実を守った者たちがいた……そんな記述があるわ。
名前も、出来事も、意図的に消したのよ」
「記録を残す者が、自らの記憶を差し出した……?」
ふたりは視線を交わす。
この遺跡がただの書庫ではなく、記憶を封じた記録人格たちによって守られていた可能性が浮かび上がる。
と、不意に――
周囲の空気が、ざらついた記憶の波に触れたかのように歪む。
壁に刻まれた浮彫のひとつが、まるで幻影のように揺らぎ始める。
そして、そこから影のようなものが現れ、声なき声で語りかけてきた。
『記録権限、未確認。閲覧制限、起動』
警告と共に、古代の魔術防衛が作動し、地下通路が閉ざされる。
ふたりはその中心に引き込まれるようにして、別の空間――深層記録の記憶層へと導かれていった。
転移の衝撃は一瞬で終わった。
エヴァンとセシリアが気づけば、そこは漆黒の石床と幾何学模様に囲まれた広間だった。周囲には書架ではなく、記憶を映す石板が円環状に並び、中央には巨大な封印扉が鎮座していた。
それはまるで、記録されることなく永遠に閉ざされた語られざる物語の象徴だった。
封印扉は一切の装飾を持たず、ただただ静謐。
だが、エヴァンが近づこうと一歩踏み出した瞬間――
〈出現――記憶守秘官〉
「止まりなさい。記録閲覧者」
そこに現れたのは、仮面を付けた中性的な人物。
その身なりはどの時代の服装にも当てはまらず、周囲の空間と一体化しているかのような存在感を放っていた。
「私は《記憶守秘官》。ここに記されし失われた記録は、ただ求めるだけの者には開かれない」
仮面の人物は静かに手をかざし、エヴァンたちの背後に幻影を浮かべる。
そこにはこれまで彼らが見てきた古代言語の断片、歪んだ記録、そして意図的に失われた記憶の数々が次々と映し出された。
「問おう。あなた方は、知識を守るために記憶を失った者たちの痛みを理解し、その上で記録を解放する覚悟があるか?」
セシリアが一歩前に出る。
「私たちは知識を奪うために来たのではありません。理解し、記録として後の世に継ぐために来たのです」
守秘官は静かに首を傾けた。
「ならば――あなた方自身の記憶の断片を一つ、供物として差し出しなさい。記録とは、ただ得るものではなく、失うことで開かれるものなのですから」
エヴァンは黙っていた。だが、手を剣から外す。
「――セシリア。お前はどうする?」
「私は……」
ほんの一瞬、迷いが胸をよぎる。だが、彼女はゆっくりと答えた。
「たとえ何かを失っても、それでも進む価値のある記録なら……」
「なら、俺も同じだ」
二人が頷いた瞬間、守秘官の周囲に淡い記憶の光が舞い――
扉が音もなく、開いた。
重く、厳かに。
奥に広がっていたのは、石造の回廊ではなかった。
それは、記録が流れ込む深層空間――
未記述の書架《語られぬ棚》
封印扉の先に広がっていたのは、もはや空間とは呼べぬ領域だった。
石造の床も壁もなく、代わりに空間そのものが頁でできているかのように見える。
重力は失われ、上下左右に延びる記録の残滓が浮かび上がっていた。
それらは書かれることを拒まれ、
記憶にすら残されず、
語られなかった物語たち――。
「ここが……《語られぬ棚》か」
エヴァンが静かに息を呑む。
セシリアもまた、広がる記憶の海に目を奪われていた。
幾千の断片、幾万の未完。
その一つひとつが、過去の人々が記すことを許されなかった真実。
それを手に取り、読むたびに、思考と記憶が侵食されそうになる。
ふと、一冊の記録がエヴァンの前に浮かび上がる。
それは、かつてこの地で知識を護り、最後には言葉ごと封じられた人物――
〈記録管理官ルフェリア〉の手記だった。
「語ることで、命が奪われる。
記すことで、世界が壊れる。
それでも、私は書いた。
あの日、王たちが選んだ禁忌の選択を。
もし、未来に記録を開く者がいるなら――
この記録を通じて、もう一度選択を問いたい。
我々は正しかったのか。
それとも、恐れから逃げただけだったのか」
手記の最後の頁に触れた瞬間、
語られぬ棚が微かに震え、一筋の道が開かれる。
道の先には、最後の記録区画――
かつて封じられた語られぬ者たちの最深層領域が、静かに待っていた。
二人がたどり着いたのは、音も、時間の流れすらも失われたような空間だった。
石も、壁も、記録の欠片もない。
ただ、そこに在るのは、存在すら拒まれた何か。
エヴァンとセシリアの前に、
淡く揺らめく影が生まれ――やがて人の形をとる。
それは、声なき声で語りかけてきた。
「……ようこそ、語られぬ者たちの眠りし空間へ……我は、記されなかった物語。選ばれなかった記録。世界にとって不要とされた存在……」
それは記憶であり、物語の断章であり、
記録から外され、誰にも読まれることのなかった語られぬ者の集合意識だった。
「……なぜ、貴様らはここまで来た。語られぬ者の声に、何を求める……?」
影は、セシリアを見つめ、次にエヴァンへと視線を移す。
セシリアは一歩前に出て答える。
「私たちは知りたい。失われた語りが、どうして失われたのか。あなたたちが、何を残そうとしたのかを。それが間違いだったとしても――それでも知りたいの」
影の声が震える。
それは怒りにも、悲しみにも似ていた。
「我らを消したのは、記すことへの恐れ。真実は、時に世界を壊す。だから、我らは記録されなかった。――それを今、再び世界へ紡がせるというのか?」
エヴァンが静かに剣の柄に手をかけたが、抜こうとはしなかった。
「紡ぐのは、俺たちじゃない。だが……忘れられたままでいいとも思えない。語られないままでは、選ぶこともできないだろう?」
問われているのは、記録の正しさではなかった。
今、語ることに意味があるのか。
その一点だけだ。
やがて影は静かに手を伸ばす。
その掌の上に、薄い一冊の未記された記録冊子が現れた。
「この記録を、未来に繋げるか否か――その選択を、貴様らに預けよう。だが選んだならば、記憶の責任を背負え」
セシリアがその冊子を受け取る。
その瞬間、全ての空間が脈動し、語られぬ者の気配が静かに溶けていった。
未記録領域《語られぬ棚》は、静かに閉じられていく。
だが、記録は残った。選択はなされた。
そして今、かつて封じられた物語は、ふたりの手の中にある。
【王立記録局提出用報告書】
■ 任務名
グリム記憶殿調査記録:語られぬ記録領域の探索
提出者:冒険者ギルド登録番号#E-1150
代表者:エヴァン・クロスフィールド(剣士)
同行者:セシリア・ヴァレンタイン(魔導士)
■ 任務目的と達成状況
1: 砂に埋もれた古代言語の断片回収。達成。地下書庫にて断片群を多数確保。解析に必要な原語構造も一部確認。
2: 中央殿堂の封印扉の確認と開封許可の判断。達成。解析後、安全基準を満たし開封実施。深層領域へ到達。
3:知識を守るために失われた記憶に関する調査。達成。《語られぬ者》との対話を通じ、封印の経緯と記録抹消の意図を一部解明。
■ 特筆すべき事項(報告形式:自由記述)
本任務において、我々は「記憶を守るために封印された物語」の最深層、通称《虚無綴りの間》に到達。
その場にて、記録から意図的に削除された情報群――すなわち「語られぬ記録」の残滓と対話の機会を得た。
この記憶群は人格的構造を保持しており、過去に抹消された知識が持つ災厄の可能性ゆえに意図的に排除された存在であると判断される。
最終的に、記録群より一冊の未記録冊子を託され、我々はこれを保管・帰還した。
当冊子は「封印されし語りの記憶」であり、後世の研究と倫理的判断の下に、公開または再封印の判断が求められる。
■ 回収品・提出資料
古代言語の断片冊子×7(破損あり)
封印式記録石板×3(解析中)
未記録冊子《語られぬ物語》×1(重要封印処理済)
■ 備考
本任務においては魔力的干渉、記録存在による精神的影響、空間歪曲等が確認されており、今後の探索者には適切な精神防御措置および記憶耐性評価が推奨される。
記録守秘官との邂逅は、記録体系そのものに対する対話可能性を示唆しており、今後の記録局の倫理指針および学術探査方針に一定の再考を促す案件と考える。
以上、現場からの帰還報告とし、記録局の今後の判断を仰ぐものである。
夜の帳が下りる頃、王都近郊の宿に灯る灯火はわずかで、静けさが辺りを満たしていた。
エヴァン・クロスフィールドは、薄く窓を開けて外の空気を吸い込む。わずかに冷たい風がカーテンを揺らした。
砂の記録殿――グリム――から持ち帰った未記録の冊子は、重く、しかしどこかやわらかな静寂を彼の心に残していた。
「……おかしいと思わない?」
背後から、静かな声がした。
振り返れば、湯上がりの髪をまだ乾かしきれないまま、セシリア・ヴァレンタインが淡く笑っていた。
白い寝衣姿はいつもより幼くも見えたが、その瞳の奥は、深い湖のように冷静で、あたたかかった。
「語られなかった記録が、あんなふうに語りたがっていたなんて。皮肉ね」
エヴァンは頷いた。「……ああ。忘れられたくなかったんだろうな。あれも、誰かの物語だった」
「ねえ、エヴァン」
セシリアがそっと近づいて、彼の隣に腰を下ろす。二人の間に沈黙が落ちた。
虫の音さえ止み、まるで世界にふたりだけが取り残されたような、静かな時間。
「私たちのことも……いつか、誰かが語るのかしら」
小さな声でセシリアが言った。「ここに、ふたりの記録があったって」
エヴァンは少しだけ目を細めた。そして、答えを選ぶように言う。
「記録に残らなくても、俺たちは記憶してる。俺たち自身が、証人だ」
「……うん、そうね」
セシリアは微笑んだ。
「じゃあ、あなたのこともちゃんと私の記録にしておく。ちゃんとね。……忘れないように」
その言葉に、エヴァンはふと目をそらした。
彼は記録よりも不器用で、語られる言葉よりも真っ直ぐだった。
「それより……」と、彼は少し咳払いをして視線を戻す。「お前、髪、まだ濡れてるぞ。風邪ひく」
セシリアは、ふふっと笑った。「そうやって話題をそらすのも、あなたの癖よね」
夜は静かに更けていく。
王都は遠く、旅路の終わりも始まりも、まだ霞の向こうにあった。
だがこの夜だけは――
確かに、誰にも語られぬふたりの記録として、世界の片隅に刻まれていた。




