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第二十九話

 それは王立記録局の深層記録室、限られた権限の者しか入ることを許されぬ静謐の塔にて。

 石造りの螺旋階段を降りた先、封印指定の保管庫で、セシリアはある報告書に目を通していた。


 報告書の端には、古代文字に似た謎の印が付されていた。それは解析不能な否定の言語と呼ばれている。

 解読を拒み、記録を焼く言語。過去に幾度か局員の精神を侵し、破棄指定を受けた危険文書。


 だが――今回は違った。


「アトランディール海溝、第三海底回廊にて、記録なき神の聖像を確認……? 何それ」


 セシリアは眉をひそめながらも、指でその印をなぞる。すぐそばで、エヴァンも同じ報告に目を通していた。


「……例の、幻の海底遺跡の話だな。正確な位置は不明。だが、記録局の調査艦が実際に座礁している」


「目撃された神像は、かつて記録そのものを司る神の名を冠していた……けれど、その神の記述はすべて、なぜかどの記録からも消えている。存在を記されるたびに、記録そのものが壊れるって……」


「神が記されることを拒む――か」


 エヴァンは静かに呟いた。

 それは、今までの探索とは逆の構図だった。記されることを望み、残されようとした存在たち。

 だが今度は、記されることを呪い、否定する何か。


「……依頼内容は、探索班の護衛と現地遺構の実地調査。といっても、依頼を出した調査官自身、すでに行方不明になってるみたい」


「ほう……ますます怪しいな。しかもこの海底遺跡、元々は記録不能領域に指定されたはずだ」


「だけど今、記録局はこの場所を観測できるようになった。だからこそ、わたしたちに白羽の矢が立った……ということだと思う」


 セシリアが巻物を巻き戻すと、その奥から、潮に濡れた古文書の断片がこぼれ落ちた。

 そこにはただ、一行だけの言葉が書かれていた。


 我は記録されざる神なり。汝の記憶に我が姿を刻むなかれ。


 ふたりは、互いの視線を交わす。


「……また、面倒そうな相手だな」


「でも……面白そうでもある」


 魔剣の柄が音を立て、背に収まる。

 魔導書の表紙が閉じられ、再び開かれる時を待っている。



 王都フェル=グレイを発つ前夜。

 記録局本庁の地下区画――観測試験室にて。


「こちらが、今回貸与される潜行用の魔導装備です。エルメス=第七式――深圧対応型の儀式装備。短時間ですが、記録障害領域での干渉防護機能もあります」


 そう語るのは、局付き技術士官のグレイナ。

 白衣を翻し、台座に置かれた黒銀のクロークと、青い結晶のペンダントを指し示す。


「結晶には記録符式が封じてあります。あなた方が視たもの、感じたものを逐一転写し、局へ送信できるように。干渉されない限りは、ですけれど」


 セシリアは頷き、装備の表面に指先を滑らせた。

 生地は海竜の皮を基に魔法加工されており、圧力に対して高い防護性能を持つ。


「これで、例の海底まで降りられるの?」


「はい。降下には、記録局が手配した幽水船を使います。……ですが、潜行後はおそらく、送受信共に不安定になるでしょう。神像が見られるほどに接近すれば、ですが」


 エヴァンが腕を組み、問いを挟む。


「すでに派遣された観測班の記録は?」


「……最終ログは『神像に近づいた瞬間、記録が光と共に消失した』と。それ以降の全ログが、白紙に塗り潰されました」


「つまり、真実に近づくほど、記録が拒絶される」


 セシリアが静かに言う。

 それは、記されぬ神という存在の性質そのものを裏付けていた。



 翌朝、まだ陽の昇らぬ時間。

 ふたりは記録局から極秘ルートを用いて、王都の南にある隠し港へと向かう。


 馬車の中。夜気は冷たく、窓の外には霧が立ちこめていた。


「ねぇ、エヴァン。……もし本当に、記されることを拒む神がいたら、どう思う?」


「……奇妙だな。語られることで存在は残る。それを拒むのは、自らを消すのと同義だ」


「それでも、語られたくない存在って、いるのかもしれない。記録された瞬間から歪むもの、誤解されるもの……本当の意味での沈黙を望んだもの」


「なら、それを探しに行くのは、記録局として禁じられた行為なのかもしれないな」


 エヴァンは皮肉気に笑う。

 セシリアも笑って、ふと窓の外を見た。


 海だ。

 夜明けの気配とともに、広がる水平線が淡く銀色に染まっている。


 その先に、記録されざる神が待っている。



 隠し港には、霧の帳の奥に、小型の船影が浮かんでいた。

 魔導動力で稼働する局専用の海中探査艇――幽水船シリウス

 乗員はふたりと、最低限の自動航行制御装置のみ。


「いよいよね」


「……ああ」


 甲板で互いに頷き、クロークの留め具を締める。

 海面に差す月光が、二人の姿を静かに包む。


 やがて――幽水船シリウスが、海中へと沈み始めた。


 向かうは、

 アトランディール海溝・第三回廊

 ――記されざる神が、記録を喰らう深海の領域。



 ──海は静寂に包まれていた。

 遥かな深度へと沈む幽水船シリウスは、外界の音すら遠ざかる領域へと降下を続けていた。


「現在深度──五千三百ルーン。第三回廊接近中」


 機関部からの無機質な報告音。

 エヴァンとセシリアは操舵席の奥、観測窓の前で、息を殺して外を見つめていた。


 やがて、霧のように海底の沈泥が晴れ、それが姿を現す。


 巨大な回廊。

 均整の取れた柱列が、まるでかつて神々の行進でもあったかのように並び、

 朽ちた階段がゆっくりと、海底のさらに奥へと続いていた。


 そしてその中心には、ひときわ巨大な門。


 生物的な曲線と、文字に見えない彫刻が融合した異形の構造物。

 しかも、回廊全体が微かに発光していた。


「……この光。海藻や発光生物のものじゃないわ」


「生体反応でも、魔力でもない。だが記録符式が反応していない」


 エヴァンは結晶を取り出し、観測装置にかざす。

 だが、記録は白紙を保ったままだ。光の情報が、転写されない。


「つまり、見ることはできるが、記録されない。……これが記録なき神の領域か」


「エヴァン、この門、見て」


 セシリアが指差す先。

 巨大な門には記号とも象形ともつかぬ刻印が彫られていた。

 だが、それを見た瞬間、彼の頭に違和感が走る。


「……なにか、思い出せない」


「私も……見てるはずなのに、見た記憶が留まらない……」


 それは、まさに記録喪失の現象だった。

 記録とは、他者に伝える情報である。

 それが一切残らず、触れた瞬間に消えていく。


「これは、認識そのものを浸食する効果かもしれない……」


 セシリアの声が震える。

 視て、理解して、記録する。

 その当たり前の行為が、この領域では無力になる。


「……エヴァン、下に降りましょう」


「……ああ。記録が消えるなら、俺たちの身体が、目が、心が記録そのものになるしかない」


 ふたりは門を越え、

 静かに、深く、語られなかった神の回廊へと足を踏み入れた。



 最奥の回廊に、ただひとつ佇む影。


 それは人の形をしていた。だが人ではない。

 まるで、語られなかった神の抜け殻のように、海底の中央に沈んでいた。


 全身は金属と有機の融合物のように見え、

 その額には、読み解けぬ文様が淡く刻まれていた。


「動かない……」


「いや……記録されていないだけかもしれない」


 するとその像が、わずかに目を向けたような気がした。

 だが、それすら記録に残らない。視認した事実が、瞬時に頭から抜け落ちる。


 セシリアは震える指で結晶を構え、魔術式を起動させる。


「……これ以上は、干渉限界よ。ここから先は、私たち自身の意思で踏み込むしかない」


「そのために来た」


 エヴァンが、魔剣を抜く。

 その黒鋼の刃が、海中で静かに拒絶の力を放つ。


「存在しないなら、俺が記録する。忘れられたなら、俺たちが語る」


 次の瞬間──海底が震えた。


 記されざる神の残響が、回廊を満たし始める。


 目に映らない、だが確かに存在する波。

 それは、認識そのものを塗りつぶす、記録消去の奔流。


 ――記録されざる神の、本能。



 深海。沈黙。

 認識を裏返すように、世界は変質した。


 それは始まりの合図だった。


 水圧ではない。重力でもない。

 この場を満たす存在しないものの圧──それが襲い来る。


 エヴァンは即座に魔剣を構える。

 周囲に展開する魔力の網が一瞬で霧散したことに、彼は気づく。


「……セシリア。魔力が吸われていく……!」


「記録そのものが……展開する前に、消去されてるのよ……っ!」


 セシリアの周囲に組み上げたはずの魔法式が、文字ごと消えていく。

 呪文は脳から抜け落ち、構築図は視界から滑り落ちる。

 魔術師にとっての思考そのものが削がれていく戦場。


 ──記録されない魔法。

 発動すら忘却させる敵。


 だが、ふたりは怯まない。


「なら……記録されるより先に斬る!」


 エヴァンが海中を跳ぶ。

 重力を無視するように、一閃の黒い光が記録なき存在へと走る。


 魔剣《ヴァル=ラミナ》は、いかなる存在にも記す力を宿す。

 打ち込まれる一撃は、たとえ神であろうと、この世界に刻印として残す。


「喰らえ……!《記章斬・一閃》ッ!」


 黒い刃が海を裂き、像の胸部に直撃。

 ──だが、その瞬間、像の姿が消えた。


 否、存在が削除されたのだ。


 衝撃の記憶が抜け落ちる。

 エヴァンの剣は、空を斬ったとしか思えない。


「……また忘れさせられた……っ!」


 セシリアが詠唱を断ち切り、直接魔力を絞り出すように放つ。


「この空間そのものに、記憶喰いの術式が組まれてる……! 構築を保てないなら、本能で放つしかない……!」


 彼女の右手が魔法陣に変わる。思考ではなく、感覚で紡がれた術式。


「──《光律・原音砕ルクス・クラスト》ッ!!」


 空間を断ち割るように、光の帯が炸裂する。

 波動は像の残滓を抉り、微細に崩壊させていく。


「……効いてる! 見えてなくても、確実に存在はある!」


 その瞬間、回廊全体が震えた。

 像が消えていた場所に、無数の視線のようなものが集まりだす。


 それは、像の残響──

 記録を拒絶する力そのものが、ひとつの意志を持って動き出す。


 形を持たない。

 声も音もない。

 ただ、存在することを拒否する力として。


 だが、エヴァンとセシリアは、それに怯まず言う。


「記されざる存在だろうが……」


「私たちは見た。名を刻むわ。存在したと──証明してあげる!」


 エヴァンが魔剣を握りしめ、セシリアが両手を掲げる。

 次なる決着へ──



 記録とは、すなわち存在の証明。

 記録されないとは、つまり存在しなかったことにされるということ。


 回廊全体が不可記録域アノタグラフィアと化す。

 魔力が拡散すれば、それは空気のように消え去り、

 言葉を紡げば、その意味が舌の上で溶けていく。


 だがその中心に、確かにいた。

 像──否、それは今や《記憶喰らい》と化し、空間そのものに同化している。


 敵の正体は、「記録そのものを捕食する記録」だった。


「エヴァン、敵は……この空間そのものよ!」

「つまり、今の現実が敵ってわけか……上等だ!」


 エヴァンは魔剣《ヴァル=ラミナ》を正面に構え、

 セシリアは口元に冷たい微笑を浮かべた。


 ふたりは互いに頷き合うと、同時に駆け出す。

 足場が記録されない。視界が歪む。言葉の意味が奪われていく。

 ──だが、それでもなお、ふたりの意志だけは奪われなかった。



 エヴァンの斬撃は、対象がどれだけ曖昧でも、

 この世界に斬ったという記録を刻む力を持つ。


「《断章連撃:虚録斬・三式──裂影!》」


 何もない空間を斬るたび、そこに斬られた痕が出現する。

 それは敵の存在の曖昧さを固定し、刃で記述する行為だった。


 裂けた空間から黒い瘴気が吹き出す。

 そこに記録があり、それを喰う存在があったことの証。



 セシリアは構文魔術を捨てた。

 かわりに選んだのは、音そのものに意味を乗せる古代の魔法語詠唱。


「コ・アト・ルミナ──シェル・ヴァン・ル=ソール!!」


 その言葉を発するたびに、世界にひびが走る。

 音が意味を取り戻し、空間のゆらぎが魔術を通じて制御されていく。


 その魔力は直線ではなく、螺旋構造で《記録》を補完する設計。

 例えるなら、忘れられたものを、別の道から取り戻す魔術体系だった。


 光の旋風が虚無に突き刺さり、そこに現れたのは──


 ──顔。


 かつて像だった何かの断片。

 無数の顔が重なり合い、一つの仮面のような表情となっていた。


 それが、言葉を返す。


「……我ハ、記録ノ墓場ニシテ、オ前タチガ記述シタ語リヲ、許サナイ」


 それは語るというより、刻まれた呪いのような音声だった。



 回廊が崩れる。

 記録拒絶は限界に達し、《記憶喰らい》の本体が浮上する。


 虚無の中心に、全ての記録を白紙化する核──真の《終端因子》が顕現する。


「これが……記されぬ終焉の正体……!」


 エヴァンは魔剣を握り直し、

 セシリアは静かに魔力を一点に集束させる。


「いくよ、セシリア。最後の一撃だ」


「ええ、共に記して……終わらせる!」



 それは、もはや言葉の形をしていなかった。

 かつて存在していた像の残滓も、

 語られた者たちの記録も、

 すべてが巻き取られ、白紙と化したとばりの中に沈んでいる。


 《記憶喰らい》の本体。

 それはあらゆる「記録」を捕食し、

 自身の中に封じて、閉じた世界を作る終焉因子。


 その中心に、書架の断片、失われた語り、

 かつて存在したはずの冒険者たちの名が、誰にも読まれぬ形で折り重なっていた。



 空中に浮かぶそれは、巨大な本の形状をしていた。

 だがそのページは、すべて無地。

 記述は拒まれ、筆は滑る。インクは染まらない。


《語られぬ真実》──それが、敵の正体だった。


「ならば、俺たちは……」

 エヴァンはゆっくりと剣を構えた。


「語られることで世界を紡ぐ者であると、ここで証明する!」


「記されぬならば、記せばいい……!」

 セシリアの声に応じて、空中に魔法陣が展開される。


 それは魔術というよりも、筆記だった。

 空間に紡がれた光の言葉が、魔力の言語となって大気を震わせる。



 魔剣《ヴァル=ラミナ》が蒼く光を帯びる。

 それは剣でありながら、同時に語りの媒体。


「《魔剣技・終章断筆――ノートリアス・エンド》!!」


 空間に突き立てられたその斬撃は、

 記録拒絶の殻を真っ向から断ち割り、白紙に強制的に終わりを記すものだった。



「語られるべきものは、決して忘れられない」


「記録されし語り部たちよ、いま一度ここに痕跡を──!」


 セシリアの魔術は、失われた記録を再構築する。

 敵が飲み込んだ存在たちを、言葉の断片として外へ解き放つ。


 白紙の頁に、ひとつ、またひとつと文字が浮かび上がる。


 《記憶喰らい》は悲鳴を上げた。

 それは音ではなく、空間の歪みそのものだった。


 語られなかった者たちが語られ、

 名を持たぬ断片が、記述されることで、

 その拒絶の力そのものが、構造的に崩壊していった。



 最後の一撃。

 ふたりの力が重なり、魔剣は頁の中心を貫いた。


 空間が爆ぜる。

 沈黙が押し寄せ、すべてが吸い込まれるように静まる。


 そして──白紙の頁が、音もなく舞った。


 それは、風に散る落葉のように軽やかで、

 かすかに、誰かの記録された声の余韻を残していた。



 ――終わった。


 崩壊していく記録の回廊。

 もうこの空間に、記録も拒絶もない。

 ただ、終わりが記されたという証拠だけが、静かにそこにあった。


 エヴァンは魔剣をゆっくりと鞘に収める。

 セシリアは彼の隣に立ち、互いに小さな笑みを交わした。


「記したわね、ちゃんと」


「ああ。これでもう、語られなかったなんて言わせねえ」


 そして、ふたりは振り返る。

 残された語るべき者たちの痕跡を抱いて。


 ――次なる探索へと、歩き出す。



◆【探索報告書】

提出先:王立記録局・記録探索管理課

報告者:エヴァン・クロスフィールド/セシリア・ヴァレンタイン

任務番号:第十三号探索指令・第774便

探索記録名:《記されぬ終焉》に関する事象調査

記録分類:極秘指定D等級案件(記録喰い関連)


■【任務目的】

帝国旧領域地下に出現した記録歪曲領域の調査および無力化


特異存在《記憶喰らい》と推定される敵性記録体の正体確認


回収不能・記録不能状態に陥った対象文献の復旧・再記述作業


記録局指定危険存在《語られぬ者》《記録拒絶構造》の実態把握


■【経緯と推移】

帝国中部地層の崩落跡より発見された記録拒絶空間に接触。

該当領域内部では通常の魔術・交信が通じず、文書記述も無効化される。


内部にて、《語られぬ者》を名乗る高等知性存在と接触。

彼(またはそれに類する存在)は、過去に「記録されることを拒んだ」「語られることを拒絶された」記録の集合体と見られる。


領域は外部からの干渉を完全に遮断しており、記録そのものを糧とする形で構築されていた。


後に顕現した特異存在《記憶喰らい》は、失われた記録・未記述の断章・語られなかった物語を自身の力とする記録捕食因子。


これに対し、記述を上書きする魔剣《ヴァル=ラミナ》および、再記録・再詠唱術式による構造干渉を行い、

対象空間の崩壊を誘導、ならびに《記憶喰らい》の構造破壊に成功。


最終的に当該空間は完全に消失。

記されぬ終焉は、文字通り記された終焉として静かに幕を閉じた。


■【成果および副次効果】

一部記録不能に陥っていた人物・事件・断章の回復に成功


語られぬ者に分類されていた対象の一部を再記述可能とする構造的転換を達成


魔剣《ヴァル=ラミナ》における記録改竄耐性の強化が確認された


セシリア・ヴァレンタインの術式による言語再生干渉の実験的適用に成功


■【備考】

※当該事象は、今後同様の記録捕食系存在発生の前兆となる可能性があるため、

王立記録局は引き続き、未記録領域・失語領域における観測強化を推奨する。


また、語られなかった歴史や記録を意図的に封じた存在の関与も疑われるため、

記録局歴史保全課との連携を要請する。


以上をもって、報告書の提出といたします。


記録保全署名:E.クロスフィールド/S.ヴァレンタイン

王立記録局:探索担当管理官 アーギュレイ・デンロー確認済印付



 火は焚かれていた。

 だが、燃えていたのは薪ではない。回収された廃文書――記されず、語られず、そしていまや危険性を含む断章たち。それらを記録局の命で処理する必要があった。あくまで静かに、慎重に。過去の記憶に潜む歪みが再び芽吹くことのないように。


 夕暮れの帳が降りる中、ふたりはその焚火を見つめていた。


「……言葉ってのは、残酷なものだな」

 エヴァンが呟く。火の向こうで揺れるその横顔は、どこか疲れていた。


「残すことは、縛ることでもある。けれど、残さなければ、存在しなかったことになる」

 セシリアが応じた声は、落ち着いていて、それでいて少し寂しげだった。


「たとえば俺たちが今日ここにいたことも――誰かが書き記すまでは、なかったことと同じだ。だからって、記すことすべてが正しいとも限らない」


「それでも、書かなければ何も始まらない」

 彼女の言葉に、エヴァンはふっと笑った。


「お前はやっぱり、記録局向きだな」

「……そんなこと言って、あなたももう充分、記録の人よ」


 目が合う。

 そして言葉が途切れる。だが、不思議と沈黙は心地よかった。


 風が一陣、火のまわりを撫でる。

 灰になった文書が、ひらひらと舞い上がり、空へと還っていく。


「セシリア」

 彼はぽつりと名前を呼んだ。


「ん?」

「次の依頼が終わったら、どこかに寄り道しないか。戦いじゃない場所に」


 セシリアは少し目を見開き、それから、ふわりと笑った。


「いいわ。記録に残らない旅も、たまには悪くないかもね」

「そうだな。……俺たちの記録は、誰かのためだけじゃなく、まずは――俺たちのものだから」


 ふたりの言葉は、炎の揺らめきに包まれて、しばらく空へと昇っていった。

 この時間が、記されることはないかもしれない。

 けれど確かに、この瞬間も、ふたりの中に生きていた。

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