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第二十八話

《第十三の探索記録:無垢なる忘却と砂の殿堂》

◆【探索任務概要:王立記録局より】

依頼名:アゼリウム記憶殿の再調査と封印扉の解放任務


派遣対象:王立記録局特任探索員エヴァン・クロスフィールド《セシリア・ヴァレンタイン》


目的:

 1. 中央殿堂の未踏区画への踏破・調査

 2. 記憶を失わせる封印の実態解明と記録断片の保護

 3. 古代魔導の選別装置に関する遺構調査および必要に応じた封印解除


 王都フェル=グレイ。

 記録局の封書が、静かにふたりのもとへ届いたのは、前回の任務から一週間後だった。


 陽光の淡い朝。

 セシリアは局の読書室にいて、エヴァンは鍛錬場で剣を振っていた。


 封筒の封蝋には、王立記録局の金色の印章――だが、それとは別に、赤い糸が巻き付けられていた。

 これは特別指定任務の印。重要性が高く、時に政治的な介入が絡む場合にも用いられる。


「中央殿堂の最奥――知識を守るために忘れられたものへ至る扉が、僅かに開いた」


 それが第一報だった。



 局本館、作戦会議室。

 ふたりの前に並ぶのは、古地図と複数の文献、解析中の記録断片。


「これが……扉の封印機構の断面図ね」

 セシリアが指先で図面をなぞる。封印は多層構造で、外部の魔力干渉を断絶するよう設計されている。


「ここに描かれている記憶の捧げ場って、つまり……何かを差し出すことで道が開く、ってことか」

 エヴァンが唸るように言う。


「その何かが、記憶そのものなのよ。個人の過去、存在証明、あるいは――」

「名前、か」


 ふたりは視線を交わす。

 過去の探索で何度も接してきた、名前という概念の重み。それは記録であり、同時に人の証明そのものでもあった。



 砂嵐の止んだ隙を突いて、ふたりは再びアゼリウムの地に向かう。

 馬車を使わず、記録局の特急魔導艇にて輸送される任務となる。これは封印扉の活性時間が限られているため。


「……今回は、少し違う感じがするね」

 エヴァンが窓外を見ながら言う。街がゆっくりと遠ざかっていく。


「ええ。私たちはただ記録を探しに行くだけじゃない。忘れられたことに、対価を支払う覚悟が必要かもしれないわ」

 セシリアの声は穏やかだったが、その瞳は深く静かだった。



 砂嵐が過ぎたばかりの、乾いた風が吹き抜ける。

 かつての栄華の痕跡を辛うじて留めた都市遺構――アゼリウムの中心にそびえる中央殿堂が、夕陽に照らされてその全貌を現していた。


 剥がれ落ちた外壁。崩れた列柱。

 それでも、その建築様式の荘厳さは見る者の目を奪う。あたかも、記録そのものが石に宿っているかのようだった。


「……変わっていないようで、確実に空気が違う」

 エヴァンは魔剣を背に、足元の砂を踏みしめながら低くつぶやいた。


 セシリアも、肩に下げた魔導記録鞄を軽く直しながら応じた。

「そう。私たちが前に調査したときには、気づけなかった何かがある。この場所は――まだ目覚めていなかったのよ」


 ふたりは、中央殿堂へと続く階段を登る。


 そこには、《前哨区画》と呼ばれる入口があった。

 石碑のような構造物が並ぶこの通路は、かつて文官たちが献上する文書を浄化・選別する儀式の場でもあったと記録に残る。


 その一角。

 砂に埋もれていた封印の台座が、わずかに隆起し、緑色の微光を放っていた。


「開いている……」

 セシリアが、思わず声を漏らす。


 それは、前回は岩石に封じられていた階層扉。

 すでに何者か、あるいは何らかの条件によって、封が緩んでいた。


 エヴァンは静かに、剣の柄に触れた。


「行こう、セシリア。ここから先は――俺たちにしか踏み込めない場所だ」


 頷く彼女の瞳に、淡い魔力の光が宿った。


 ふたりは、開かれた扉をくぐり、地下へと続く記憶の階へと足を踏み入れた。



 階段を降りると、空気ががらりと変わった。


 地下へと続くその空間は、奇妙な静寂に包まれている。耳を澄ませば、自分たちの呼吸さえも吸い取られていくような感覚。

 足元は、石ではない。無数の記録断片――羊皮紙に刻まれた象形、粘土板に刻まれた楔文字、細密な魔法文字列――それらが敷き詰められ、足を踏み入れるたびに《音》のない崩落音が鳴った。


「……ここに残された記憶の数。まるで世界の底を歩いているようね」

 セシリアの声も、どこか遠く響く。


「けど、俺たちの記憶は――ここじゃ消えない」

 エヴァンは前を見据える。その足取りに迷いはない。


 通路の壁には、語られなかった出来事が抽象画のように描かれていた。誰が、何のために記したのか――それは読み解けないが、視界に触れるだけで奇妙な疲労が脳にのしかかってくる。


「……っ、エヴァン、気をつけて」


 突如として現れた影――黒い霧のような人影が、ふたりを取り囲むように立ちはだかった。


 それは、記憶を喰らい、存在を塗り替える《無名の徘徊者》。


「名ヲ、棄テヨ――」


 音にならない音が、脳髄に刺さる。


「来るか……!」


 エヴァンは即座に魔剣を抜き放つ。刃には黒い文字列が浮かび、彼の記憶と共鳴して光を帯びた。


 セシリアは背後から詠唱を重ねる。


「――『記録されし真理よ、その姿を持って虚無を拒め』」


 瞬間、魔法陣が展開。空間が激しく振動し、霧のような徘徊者たちが呻き声を上げるように揺らいだ。


 だが――そのうちのひとつが、エヴァンの背後へと忍び寄る。


「エヴァン、右!」


 即応。彼の魔剣が背後を薙ぎ払う。

 刃が霧を切り裂き、断ち切った記憶の残滓が白煙となって弾け飛ぶ。


 しかし次の瞬間――


 視界が暗転する。


 ふたりの意識が、何かに接続されるように揺さぶられた。


「……エヴァン?」


「……セシリア……?」


 見知らぬ街並み。違う名前。違う人生。


 ――記憶侵食が始まった。


 彼らが誰かでなくなる前に、自らの核を思い出さねばならない。

 それがこの回廊における《第一の試練》。



 視界はまだ霞んでいる。

 音も、匂いも、すべてがどこか馴染み深く、けれど異様に歪んでいる。


 エヴァンは舗装された道を歩いていた。鋲打ちの黒い制服。肩章に刻まれた見覚えのない紋章。

 彼の名は、ヴァーセル・リュグレイド――帝国の魔導剣士隊第六連隊長。

 帝都防衛戦の英雄であり、多くの記録に名を残した男。


 セシリアは白衣のような長衣を身にまとい、金属製の魔導端末を操作していた。

 彼女の名は、シルヴィア・レーン博士。

 帝国記録局の主席研究員であり、《記憶制御術》の開発者だった。


「ヴァーセル、また過去の幻覚を?」

「……いいや。夢を見ていたような気がした。剣に触れれば……誰かの声が聞こえる」


 彼の背中には、黒銀の魔剣が収まっていた。

 それは――今、彼のものであるはずのない《エリュシオン》。


「この剣の名……なぜ知っている?」


 シルヴィアの瞳が微かに揺れる。だが、彼女もまた、指先に《名を知らぬ魔導書》の感触を思い出していた。


「あなたも、なのね。私たち、きっと……どこかで……」


 瞬間、空が裂けた。


 記録世界が崩れ始める。まるで外側から引き剥がされるように、偽の街並みが粉塵と化してゆく。


《記憶の侵食は限界を超えた》


《回帰可能な中枢へ接続します》


 ふたりの耳に響いたのは、機械のような無機質な語り。

 それは、この空間そのものを管理する《記録制御核》の声だった。


「この世界は、おまえたちの忘却から生まれた。だが、忘れることで守られたものもある」


「それを斬り、奪い返すというのか。記憶の泥濘を踏み越えて――己の真名に戻ろうというのか」


 霧のような影が現れる。無数の過去、喪われた選択肢、記録されなかった人生。

 それらが形を持って襲い掛かってくる。


 ――だが、その刃に迷いはなかった。


「……俺はエヴァン・クロスフィールド。記されざる剣を携え、未来へ進む者だ」

「私はセシリア・ヴァレンタイン。記録を継ぐ者、そして……あなたの傍に在ると誓った者」


 その言葉とともに、世界が反転する。


 黒霧の徘徊者たちが咆哮を上げて迫る。


《記憶戦:最終層「偽歴を断ち、真名を示す」開始》


 エヴァンが魔剣を構える。セシリアの詠唱が連鎖する。

 忘れかけた自分たちを、記憶を、ふたりは自らの手で取り戻す。


 かつて歩んだはずのなかった偽の人生。

 だが、それすらも斬り伏せ、記録し直すことがふたりの使命であるのなら――


「俺たちは、記されるべき存在だ」


「そして、語り継がれるべき物語を紡ぐ者」


 剣が閃く。

 魔法が世界を貫く。

 偽りの記録は裂かれ、真なる名が再び刻まれる。



 空気が変わった。

 あれほど重く、濁っていた記憶の気配が、嘘のように静まり返っている。


 いつの間にか、ふたりは灰白色の広間に立っていた。

 壁も床も天井も、何の装飾もない――だが、どこか温かな静寂に包まれている。


 セシリアは魔導端末を閉じ、小さく息をついた。


「……終わったのね」


 エヴァンは魔剣を納め、しばらく何も言わなかった。

 ただ、その眼差しには深い疲労と、どこかに安堵のようなものが揺れていた。


「夢を見ていたようだった。あの記録の中の俺……ヴァーセルとか言ったか」

「ふふ、あなたにしては随分と格式ばった名前だったわね」

「……正直、あいつにはなりたくないな。剣は振れても、言葉は偽っていた」


 セシリアは微笑を浮かべながら、壁に寄りかかる。

 ふたりの間に、ふと沈黙が落ちた。


 そして、静かに呟くように言った。


「でも……もし、あの世界が本当の私たちだったとしても――」

「私は、やっぱりあなたの隣にいたのね」


 エヴァンが、ゆっくりと彼女の方を見た。

 その目には、かすかに驚きと、どこか照れくさそうな色。


「……そんなこと、あの記録が教えてくれたのか?」

「いいえ。私がそう在りたかっただけよ。記録にない、私自身の意思で」


 エヴァンは鼻で笑った。


「……だったら、信じてもいいかもしれないな」

「なにを?」

「記されない想いにも、意味があるってことだ」


 ふたりはしばし、言葉もなく並んで立った。

 偽りの歴史を越えた先で、ほんの一瞬だけ、自分たちの「現在」を確かめるように。


 やがて、扉が開いた。

 第二階層へ続く、黒い回廊が姿を現す。


 ふたりは短く頷き合うと、再び歩き出した。


 ――けれど、たった今交わした会話だけは、誰の記録にも残されていない。


 それは、ふたりだけの「確かな記憶」だった。



 足を踏み入れた先は、前階層とは一変していた。

 そこはまるで、認識そのものの迷宮だった。


 壁は刻々と形を変え、空間は重なり合い、記憶と知識と虚偽が渦を巻く。

 床に描かれた幾何学文様は、意味を持つようでいて、見る者ごとに異なる模様へと変貌する。

 ――ここは、「理解しようとするほどに、記録を壊す」という逆説的領域、《境界知域》。


 エヴァンが立ち止まった。


「……足元が、いつの間にか逆さになってる」

「重力の概念そのものが錯綜してるわね。気をつけて。ここでは見たものより、信じたもののほうが実体になる」


 セシリアの声もまた、微かに遅れて聞こえる。

 言葉と意味が噛み合わない。

 否――言葉がこちらの解釈を読んで、姿を変えているのだ。


 ふたりは魔力と精神を集中し、ひとつずつ本物の記録を選び取りながら進んでいく。

 虚偽の文書、破綻した定義、認識すら失われた文字列が、空中に浮かび、壁を流れ、足元に刻まれていく。


 そんな中で――


 異常が現れる。

 空間の一角、まるで穴が開いたかのように、「記録されていない」真っ黒な断層が、ぽっかりと空いた。


 その中から、ひとつの声が這い出してくる。


『キミたちが知ろうとするほど、物語は姿を変える。真実など求めていないのに――なぜ、そんなに語られることに執着する?』


 それは声ではない。記憶の底に直接注がれるような、語りのない理解そのもの。


 セシリアが魔導具を構え、エヴァンは魔剣を抜く。


「……また、語られぬ者か?」

「いいえ。これは違う。知ろうとすること自体を敵と見なす……そんな存在」


 宙に揺れる黒い欠片から、記憶そのものを拒絶する異形が形を持ち始める。


 その名はまだ、誰の記録にも残されていない。


 けれど、確かにそこに在った。



 視界が揺らぐ。

 歪みは音もなく拡がり、宙を漂っていた記録の断片――それらの意味が、一瞬で塗り潰されていく。


「……消えていく? いや、違う。記録が否定された?」


 セシリアが小声で呟く。彼女の周囲を護る魔術式も、部分的に消失し始めていた。

 文字そのものが、存在を拒まれる。

 詠唱が、記録される前に否定される。


 その中心にある存在――黒い影のような、形容すら拒む存在が、微かに蠢く。


『意味に形を与えるな。語られるな。記されるな。私は、未だ語られぬもの。記録が為される前の、沈黙そのもの――』


 その語りが響くたびに、空間に記された魔術式や知識が塗り潰される。


 セシリアの詠唱の声が、途中で掻き消えた。


「……詠唱式が……喰われる?」


「セシリア!」

 エヴァンは即座に前に出る。魔剣を逆手に構え、黒き存在の目前まで跳躍。

「お前が記されることを拒もうとも――斬れば、ここに刻まれる!」


 魔剣が軌道を描く。

 だが、刃が届いた瞬間、手応えが変質した。


 斬ったはずの影が、斬られること自体を否定したのだ。

 まるで時間が巻き戻ったように、剣の軌道が歪んで戻る。


「……っ、くそ……っ!」


『行為の記録もまた、否定される』


 空間に響く語られぬ語りが、エヴァンの体を揺るがす。

 意識が微かに沈む。

 この空間では、行動の意味すら奪われる――


「……なら、意味に頼らなければいい!」


 セシリアの魔力が再起動する。

 詠唱を――やめた。


 代わりに、彼女は魔力の旋律だけを放ち、純粋な魔力の波形として魔法陣を描く。

 詠唱されない魔法――意味を与えない魔法が発動した。


「エヴァン、今よ!」


 エヴァンは応じて剣を振る。

 魔剣が、語られぬ闇に物語の刃を刻む。


 バシィンッ……!


 影が後退する。

 斬撃の余波に乗って、欠片のような記録が飛び散った。

 その一片に、こう刻まれていた――


《名称不明:記録拒否対象、初の交戦例》

《観測対象名:「記録否定者(仮)」》


「……少しは、記されたな」


「語られることを拒むなら……私たちが、無理にでも語ってあげるわ」


 記録と否定の力がぶつかり合う、認識の戦場。

 激戦の幕は、今切って落とされたばかりだ。



 影は形を持たない。

 しかし、否定された記録が積もるごとに、それは在るという輪郭を強くし始めていた。


 一閃――

 エヴァンの魔剣が闇を裂く。しかし、斬撃の軌道そのものが記録から削除されるように、空間が瞬時に何も起きなかったという状態へと戻る。


『――お前たちは、記す者。私は、記されることを拒む者。対話は成り立たぬ』


「……それでも、向き合ってもらうわよ!」


 セシリアが手を掲げ、無言のまま術式を重ねる。

 声に出す言葉がすべて拒絶されるこの空間で、彼女はただ想起だけで魔法陣を展開していく。


 ――それは、《思念による編纂術式》。

 彼女が修めていた高等記憶魔術の応用、記されぬ言葉で記述する術。


 放たれた魔法は火でも雷でもない。

 空間に意味を刻む輝き――《存在承認のシグナ・ルクス


「そこにあったと、私たちが記すわ!」


 術式の光が影に突き刺さる。


 バシッ――!


 影が、軋むように揺れた。


『……存在の、承認。それが……最も、忌まわしき……記録だ』


 瞬間、空間全体が裏返るような感覚に襲われる。

 目の前の影が膨れあがり、周囲の構造そのものが変化を始めた。


 天と地が反転し、視界が夢のように曖昧になる。

 言葉にならぬ夢語りのような囁きが脳髄を揺さぶる。


『語る者は裁かれよ。語る者は――失われよ』


 エヴァンの足元が崩れる。

 記録されたはずの床が、削られていく。


 セシリアが咄嗟に彼へ手を伸ばす。


「まだ終わってないわ。私たちは記すことを止めない!」


 エヴァンが微笑する。


「言葉にするのが苦手な俺だって、あいつにくらい言えるぜ。――お前はもう、ここにいるってな!」


 彼の魔剣が再び燃え上がる。

 黒銀の刃が、記されぬ存在の中心へと――記録という暴力を叩きつける。


『記されるな……記され……たく、ない……』


 影が一瞬、怯えを見せた。


 その隙を突き、ふたりは最後の一手を――



 異形は刃によって消える寸前、

 空間の境界のような場所に、エヴァンとセシリアを引き込んだ。


 そこは色も音もない、灰色の虚無――だが、唯一、記録だけが散らばっている。


 文字が浮かぶ断片、本の残骸、名前のない墓標、そして誰のものとも知れぬ語られた物語。


 ふたりの前に、影がかたちを持って人のように座していた。


 それは老いても若くもなく、男でも女でもなく、ただ声だけが――静かに、確かに語った。


『おまえたちは、なぜ記す。なぜ、その刃で言葉を刻む』


 セシリアは一瞬、答えかけた言葉を飲み込む。

 彼女の視線の先で、虚無の床に一冊の書が開いていた。そこには――失われた誰かの人生が、最後の一節で途切れていた。


「……忘れられたままで、終わらせたくないからよ」


 エヴァンもまた、小さくうなずく。


「人はいつか死ぬ。記憶も消える。でも……何かが残る。誰かのために記されたものは、きっと、次の誰かに繋がるんだ」


 影は、かすかに笑ったように見えた。


『私もまた、記された者だった。遠い時代、ある賢者が私を記した。……そのとき、私は生まれた。……そして、私は理解したのだ。記録されるということが、いかに恐ろしく、いかに呪わしいことかを』


『――私は、彼の記録によって縛られ、永遠にそうであるものとして存在することを強いられた。真の死も、真の自由もない。私はただ、記された私を演じ続けねばならなかったのだ』


 セシリアの瞳が揺れる。


「……それでも、それは……あなたを、見つけた誰かの、願いだったのではなくて?」


 影は長く沈黙したのち、ぽつりと呟いた。


『……ああ、願いだった。だが、その願いが私を生かし、私を殺した』


 虚無に風が吹いた。紙片がふたりの周囲に舞い上がる。


 それはすべて、影がかつて誰かであったという証。

 忘れられた者ではなく、記され、そして拒絶された者。


『もういい。記されることに疲れた。誰かの語りの中で、私を定義されることに』


 影は揺らめく。


『だから、おまえたちに問おう――私の名を記すか? それとも、私を忘却のままに還すか?』


 ふたりは静かに顔を見合わせた。


 そして――



 虚無の帳が裂けた。


 そこに現れたのは、形を持たない存在――

 《記憶の影》が顕現した、真の姿。


 それは《語られぬ記録》の集合体だった。

 忘れられた名前、紡がれず終わった物語、

 捨てられた記憶、拒絶された過去……

 あらゆる語られなかった者たちが渦巻く、知性なき存在。


 だがその中心に、《かつて人であった何か》の声が残っていた。


『……記されることなく死に、記されることなく生き続ける。……その痛みを、お前たちは知るまい』


「なら……俺たちが、その痛みを終わらせてやる!」


 エヴァンが魔剣を抜いた瞬間、

 周囲の虚無空間が歪む。

 記憶の断片が空中を漂い、彼の視界を狂わせようとする。


 だが――


「……迷わないで、エヴァン!」


 セシリアが詠唱の手を伸ばす。

 その魔力は記録そのものに干渉する力を持つ。

 記されるべき物語に、新たな一節を刻む魔法――


《ルーン・オブ・エディタ:改竄拒否コード・シール》!


 暴走する記憶が封じられ、空間が安定する。


 そして、エヴァンが跳んだ。


「……この剣に刻むのは、決して忘れられぬ終わりだ!」


 魔剣が放つのは、《断章》の刃。

 彼自身が記してきた無数の戦い、決意、祈りの物語。

 それが《記されぬ存在》の中心を貫く。


 断末魔のような、だがどこか安らぎの混じった声が響く。


『……ならば……どうか、私を、記してくれ。……せめて、名もなき終わりに、一つの句読点を――』


 セシリアはそっと魔導書を開き、最後の一文を書き記した。


 ――名もなき影は、記されぬ者として、ここに眠る。


 一閃ののち、空間が崩れはじめる。

 だがふたりは、すでに次なる頁へと歩き出していた。


 そして残ったのは、静かな余韻――

 記された終わりと、そこから始まる物語の種。



【王立記録局提出用探索報告書】

記録番号:RR-0174-GZ

提出者:特別探索従事者 エヴァン・クロスフィールド、セシリア・ヴァレンタイン

任務名:記録存在排除任務《記されぬ終焉》

記録分類:極秘階層対応案件/記録喪失領域管理部門照合済

探索地点:アゼリウム周辺領域・《記憶断層領域》深層


【任務目的】

記録に存在しない異常存在《記憶喰らい》の実態解明および対処


過去の語られぬ記録群が集合した思念体の排除


関連する記録空間の封鎖および記憶災害の終息


【経過報告】

当局の予測を超え、《記憶喰らい》は単体存在ではなく、

無数の記されなかった者たちの記憶を核とする、集合的存在であることが判明。

領域自体が語られなかった記録によって構成され、外部の因果律に強い抵抗を示した。


戦闘は三段階に分かれ、以下のように推移:


第一幕:周囲の空間ごと侵蝕する幻影戦闘。記憶改変に類する干渉を確認。


第二幕:敵存在が自己同一性を獲得し、知的思考による対話を試みる。


最終幕:対象の中核を突き止め、エヴァンによる直接的な刃によって終焉へと導く。


戦闘後、空間そのものが崩壊を始め、最終的に《記憶断層領域》は完全に消滅。


【成果と危険因子】

主対象である《記憶喰らい》は消滅。再発の可能性は限りなく低い。


未記録領域に存在する語られぬ者たちの残滓が、稀に他の空間に混入するリスクあり。今後の観測と対応を要する。


対象との最後の接触にて、明確な言葉で記されることへの願いを確認。

 → この存在が完全な敵性ではなく、救済対象たり得た可能性を記録。


【備考】

対象は最後に「記してほしい」と語り、その意志はセシリア・ヴァレンタインにより魔導書に明確に記載された。

記録の一節として永久保存の上、《語りの隔壁》分類にて封印申請済。


【結語】

記録とは、ただの過去ではなく、命そのものの居場所である。

たとえ語られぬままに終わった存在であっても、我々の刃と記述はそれを拾い上げることができる。

今回の任務は、その証明となった。


──以上、報告を完了とする。



 後日。

 辺りはもう夕暮れだった。


 王立記録局の外縁、石造りの庭園の奥にある静かな小広間。

 アーチ型の窓から差し込む光が、かすかに揺れている。魔導式の灯火がともされたランプの下、二人は並んでいた。


 セシリアは手元の魔導書を閉じ、しばらく目を閉じた。

 長い戦いの果てに記された言葉の重みが、まだ胸の奥で静かに鳴っていた。


「……あの声、最後にありがとうって言ってた。聞こえてた?」


「……ああ。たしかに、聞いた気がする」


 エヴァンは椅子にもたれながら、手にした革袋の水を一口すする。

 魔剣はすでに背に戻されていたが、柄の部分を指先でなぞる癖は抜けないままだ。


「記録されることに、あんなにも渇望していた存在がいたなんてな……俺たちは普段、それを当然のように扱ってる」


「忘れられるってことは、世界から消えてしまうこと。存在していなかったのと同じ……そんなふうに思ってしまうから」


 セシリアはぽつりと呟き、ページの端をなぞった。そこには、最後の記録として残した一節がある。

 名なきものは、名を持たぬまま記された。だが、たしかにそこに在った。


「……ねえ、エヴァン。もしも私たちが、記録されることのない旅を続けていたら。誰にも知られず、何も残せないままに終わっていたら……それでも、あなたは満足してた?」


 エヴァンは少しだけ考えるような間を置いてから、ふっと笑った。


「記録に残らなくても、隣にお前がいて、俺がちゃんと覚えていられるなら……それでいいと思う」


「……ずるいな、それ」


 セシリアは笑った。けれど、その目の奥は少し潤んでいた。


 灯火が二人の影を長く引き、やがて夜が訪れようとしていた。

 けれど、そこにあるのは安らぎに似た静寂。激しさの後に訪れる、確かな今だった。


「次の依頼、もう来てるんでしょ?」


「ああ。だが……今夜くらいは、少しだけ休もう。今日は、誰かのためじゃなくて、自分たちの時間にしてもいいはずだ」


「……うん、そうだね」


 そう言って、セシリアは椅子を引き寄せ、エヴァンの隣に腰を下ろした。

 記録には残らない小さな時間。けれど、それは確かに――かけがえのないものだった。

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