第二十三話
朝、フェル=グレイの東門には、淡い霧がたなびいていた。
エヴァンは軽く肩を回し、背の魔剣〈ディアブロ・レーヴ〉の重みに確かな感触を覚えながら、門前に立つセシリアを見た。
「出発は、今日だったな」
「ええ。王立記録局から、正式な新たな探索要請が来たわ。記譜者の墓標――遥か東方、テゼル山脈の先にある未開の地」
「記譜者……?」
「歴史に記せなかった語り部たちの末裔らしいわ。記録に抗い、声を捨てた者たち。マナグリムにいた記されざる者たちの、さらに奥にある存在よ」
エヴァンは目を細め、遠く霞む山並みを見やった。未だ語られぬ場所がある限り、彼らの旅は終わらない。
「行こう。語るべきものが、まだこの世界にあるなら――それを見つけて、書き記すために」
「……ええ、あなたと一緒にね」
ふたりの背に、風が吹いた。
それは語られぬものを導く、静かな始まりの風だった。
テゼル山脈を越えた先に広がるのは、地図にも載らぬ灰褐色の盆地だった。かつて神代の時代、語り部たちが記憶を封じる儀式を行ったと伝えられる地――《静語の村》。
その地に足を踏み入れたとき、エヴァンとセシリアは異様な沈黙に気づいた。
鳥も鳴かず、風も吹かない。住人たちは生きているのに、誰一人口を開かない。
否――話すことができないのだった。
「……この村、まるで、言葉を禁じられているみたいだ」
エヴァンは眉をひそめる。子どもがこちらに気づき、口を開こうとして――声にならない呻きだけが漏れた。
「違うわ。禁じられているんじゃない。喉から記憶と言葉が抜き取られているのよ」
セシリアがそう呟き、空間の流れを探るように手を伸ばす。
彼女の指先に、不可視の紐のようなものが絡まる。言葉に宿る霊的な糸だ。
「……この糸、まるでどこかへと引っ張られていくように……」
その時だった。
村の中央にある石碑から、記されていない声が、微かに響いた。
それは文字にならない声、声にならない嘆き。
セシリアが近づくと、石碑のひび割れから一冊の古びた書物がこぼれ落ちた。
「これは……」
エヴァンが拾い上げると、その書の表紙には《記譜者へ捧ぐ》という紋章が刻まれていた。
そして――
書物の中から、まるで他人の記憶を模したような影が、黒い糸のように這い出してくる。
「来るわよ……記録されざる記譜の影!」
次の瞬間、空間が歪み、石碑の影から無数の記号めいた亡霊たちが現れた。
書かれなかった名、忘れ去られた言葉――それらが声なき叫びとともに具現化する。
エヴァンが魔剣を構え、セシリアは記憶魔術の詠唱を開始する。
空間がねじれる。
《記譜の影》たちは人の姿を模しているようでいて、どこかが明確に壊れていた。目も口もなく、骨格も定かでない影法師たちが、墨のように流れる動きで地面を這い、空に舞う。
言葉を奪われ、記憶すら削られた存在。
その残滓が、今――この地に顕現している。
「こいつら、村の人間の……否。話せなくなった記憶、その代償か」
エヴァンが低く呟くと、魔剣が唸りを上げて応える。
彼の右手に握られた魔剣は、かつて古の戦場で封じられた意志持つ刃。
刀身に刻まれた魔紋が赤く脈動するたび、周囲の空気が震えた。
「セシリア、距離を保て! 来るぞ!」
最初に飛びかかってきたのは、影のうち最も大きな個体。
口のないはずの顔面がぱっくりと割れ、誰のものでもない叫びを発する。
――が、その刹那。
エヴァンの魔剣が水平に煌めく軌跡を描き、襲撃してきた影を斬り裂いた。
断たれた影は、墨汁のように崩れ、空気へ溶けていく。
「もう一体――!」
左側から迫る別の影へ、セシリアが詠唱を走らせた。
「《アーク・ルミナリエ》――影を裂く記憶の光よ、彼の者に形を与えよ!」
彼女の周囲に浮かび上がる光の円陣から、純白の雷光が奔る。
それは影の内側に宿る記録されざる魂を直撃し、一体を浄化してゆく。
「影を記録に戻す……これが唯一の手段かもしれない」
セシリアの目が鋭くなる。
影たちは単なる魔物ではない。かつて誰かだった痕跡の集合。彼らの存在そのものが、語られなかった記憶の残滓でできている。
「エヴァン、分かる? この影たちは、記録からこぼれ落ちた名よ」
「……だからこそ、記録し直すか、斬り捨てるしかない、ってわけか」
二人の連携が緊張の空気を貫く。
だがそのとき、村の中心石碑が軋む音を立て、さらに巨大な影が姿を現した。
その影は、他のものとは異なり、明確な姿を持っていた。
――それは、村の元長老・リエンの姿。
彼もまた、記録から言葉を奪われ、存在を喪った者の一人だった。
「……あれは、まだ誰にも語られていない消された記録」
セシリアが魔法陣を重ね、背中に薄い蒼光を纏う。
エヴァンが魔剣を掲げ、剣先でその影を示す。
「やるしかない。記されざる語りを、俺たちが繋ぐために――!」
その影は静かだった。
村の中央に立つ石碑の前、黒く染まった長老――リエンの影は、両腕を垂らし、揺らめく輪郭のまま、こちらを見ていた。
その姿には、威圧感よりも哀しさがあった。
「……あの影、ただ暴れてるわけじゃない。見て、口元を――」
セシリアがつぶやく。
確かにその顔には、はっきりとした動きがあった。
声なき言葉が、繰り返し、繰り返し、刻まれている。
「……記憶されなかった言葉、か……」
リエンの影が、一歩、また一歩と踏み出すたび、地にひび割れが走る。
周囲にいた小さな影たちが一斉に呻き、魔力を波打たせる。
――その瞬間。
《記譜》が始まった。
リエンの影の頭上に浮かび上がったのは、黒く染まった写本の紋章。
それは、呪いの書き換えによって記憶を奪う負の記録――まるで世界そのものを編み直そうとする、異端の魔導術。
「セシリア、あれは……っ!」
「……《反律式記譜》よ。名前も、歴史も、因果も――記す代わりに、塗り潰す記録魔術……!」
エヴァンが踏み込み、魔剣を振るった。
鋭い斬撃が、空気を断ち、影の魔力を切り裂く――が。
「遅い」
リエンの影の周囲に、一瞬だけ時の歪みが走る。
魔剣の斬撃は、まるで紙のようにすり抜け、触れることができなかった。
「この書き換え空間……あいつは自分を、別の物語に変えてる……!」
セシリアが詠唱を続ける。
だが、彼女の光の魔法も、触れた瞬間に「意味」を書き換えられ、氷や泥、果ては炎へと変質していく。
「記録を改ざんするだけじゃない……言葉の定義ごと書き換える気!? なんて理不尽な……!」
リエンの影は、確かにかつて村の守り人だった。
だが今や、誰にも記憶されなかったままこの場に存在している。
その叫びが、ようやく、空間に音として響いた。
「……忘れるな……我は、名を……守りたかった……」
嗚咽のような言葉。
しかしそれは、強烈な魔力となって世界に浸透する。
周囲の影たちが反応し、記録されなかった者たちの名を吐き出すように叫びだした。
「……これが、咆哮か」
エヴァンが構えを取り直す。
「記録に抗う記憶……じゃあ、俺たちは物語を刻む者として応えないとな」
魔剣が再び脈動し、重なった魔力が爆ぜる。
セシリアの背後で、魔法陣が三重に展開された。
「行くわよ、エヴァン。今度は、書き換えられる前に叩く!」
「ああ。――真の物語は、俺たちが刻む!」
再び戦闘が始まる。
そして今度こそ、《記録と記憶の本質》に、二人は触れることになる――。
世界が、滲んでいた。
リエンの影が放つ《反律式記譜》の力は、あらゆる定義を塗り潰していく。
名前、形、物理法則、魔力の属性すら――意味を持たぬものに書き換えられていく。
その中心で、エヴァンとセシリアの身体もまた、揺らぎに包まれていた。
魔剣の重さが変わり、光の魔法が闇へと転じる。
それでも、二人は――足を止めなかった。
「……俺の名前はエヴァン・クロスフィールド。お前にとって、忘れていい名じゃない」
エヴァンが魔剣を正面に掲げる。
「この剣は、記録されなかった刃だ。お前の物語にはなかったはずのもの。
けど、いまここで刻んでやる。お前が確かに生きていたって、記すために!」
魔剣が淡く、光を放ち始めた。
それは存在しなかった記録が、いま刻まれようとする前兆だった。
セシリアの詠唱が、風の中に響く。
重なり合う魔法陣が七重に展開され、破壊ではなく名を与える魔法が起動する。
「リエン……貴方のことを語る者が、誰もいなかっただけ。
だけど、いま、ここにいる私たちが貴方を語る。――それが、呪いを超える術よ!」
魔力が交差した。
エヴァンの魔剣が閃き、リエンの影の胸を真っ直ぐ貫く。
セシリアの魔法が文字となってその周囲を舞い、名を包み込む。
その瞬間――リエンの影が、震えた。
「……ナ……マエ……」
滲んだ輪郭の中に、かつての長老の顔が浮かび上がる。
それは安堵とも、懺悔ともつかない、ただ一つの回帰。
「リエン。あなたの名は……確かに、ここに記されたわ」
セシリアの声は静かだった。
黒い影は、霧散する。
だがそれは消滅ではなかった。
リエンという存在は、無名の影から記された者へと変わったのだ。
それと同時に、空間を満たしていた《反律式記譜》の力が崩壊していく。
村を包んでいた夢魔の霧が晴れ、周囲の小さな影たちもまた、音もなく解けていった。
静寂。
どこからか、古びた風鈴の音が響いた。
それは、かつてこの村に流れていた語りの残響だった。
エヴァンが剣を収める。
セシリアは魔法陣を閉じ、ふう、と深く息を吐いた。
「……戦いじゃなかったのね」
「……ああ、語ることだった」
しばし、空を見上げる二人。
――記すとは、ただ斬ることではなく。
忘れられた誰かの名を、きちんと呼ぶこと。
それが、刃に刻まれた一つの答えだった。
――その夜、霧は晴れ、風が戻った。
小さな山間の村にある宿舎の一室。
簡素な木造の部屋には、壁際にある卓上のランプがほのかに灯っている。
窓を開け放ったまま、エヴァンは剣を研いでいた。
静かに火を灯しながら、淡く刃を磨くその姿に、
セシリアは読みかけの書を閉じて、そっと言葉をかけた。
「――リエンの名、きちんと残せたわね」
エヴァンは手を止めることなく、かすかに頷く。
「ああ。たぶん……それでよかったんだと思う。
剣で斬るばっかじゃないって、ようやく分かった気がするよ」
セシリアはふっと笑った。
窓辺に腰をかけて、夜風に髪をなびかせる。
「ずいぶん丸くなったじゃない、昔は問答無用でぶった斬るがモットーだったのに」
「そりゃお前が、無茶苦茶な相手ばっか選んで依頼持ってくるからだろ」
「ちがうわよ。あなたが無意識に語るべき者を引き寄せてるのよ。ねえ、気づいてた?」
エヴァンは、少し困ったように笑った。
それはいつもの戦士の笑みではない、
剥き出しの肩肘をそっと下ろした、彼だけの素顔だった。
「……だったらさ、そろそろお前が代わって語ってくれよ。俺はもう……斬り疲れた」
「だめ。あなたじゃなきゃ駄目なの。
あなたが斬って、私が記す。――そういう旅なの、私たちのは」
セシリアは静かに微笑み、ランプの灯を見つめた。
その柔らかな光の中、二人はしばし、言葉を失くしたまま夜を共有した。
けれど――
沈黙は、決して不安でも、後悔でもなかった。
それは記された者たちの魂が眠るための、
静かで確かな、夜の祈りだった。
やがてエヴァンは剣を収め、隣に腰を下ろす。
「……次は、どこへ行く?」
「記録局から、新しい依頼が来てたわよ。
封印された夢の書庫……。名を持たぬ言葉たちが、まだ眠ってるらしいわ」
「そうか。じゃあ、行くしかないな」
言葉は少なく、それでも確かに。
二人はまた、歩き出す。
この世界のどこかで、まだ語られていない何かを記すために。
【王立記録局 特別調査報告書】
報告番号:KR-EX-008-A(機密階級:準極秘)
調査隊員:
魔法剣士 エヴァン・クロスフィールド
大魔導士 セシリア・ヴァレンタイン
【探索記録名称】
《第九記録:影の記譜者編》
【探索対象】
旧時代の知識保管区画にて観測された独立情報存在記譜者の異常活動。
同存在は、失われた語句や記録されざる歴史を取り込み、自我を拡張していた。
【探索目的】
情報存在記譜者の挙動と出自の調査
周辺記録領域の安定化と補修
「記録されざる記憶」の回収および、忘却に陥った語彙の救出
【概要】
当局の封鎖下にあった第三階層、旧・語彙管理域にて、自律言語型情報群影の記譜者との接触に成功。
対象は記録の隙間に潜む語られなかった歴史を自律的に捕食・編纂する機能を持つ非物質的情報生命体であり、既存の記録系と明確に干渉・浸蝕する傾向が認められた。
接触後、記譜者の主記憶領域に誘導される形で局所的幻像空間が形成され、当該空間内にて戦闘が発生。最終段階においては、対象がかつて存在した言葉なき人物群の記録を糧とし、極限まで拡張された状態となった。
しかし、クロスフィールド隊員の魔剣による【識閃の断】、およびヴァレンタイン隊員の【記録律波】によって干渉構造を崩壊させ、記譜者の核たる未記録領域を確保。
当該領域より抽出された名前を失った者たちの記録断片は、現在、再構築中。
【補足事項】
「記録されなかった」という事実そのものが、記譜者の動力源となっていた可能性が高い。
一部の回収記録は、現存する王国史と齟齬を示す部分があり、真贋の判定には更なる解析を要する。
記録局局内での封印術式の更新が急務とされる(※後方連絡済)。
【結語】
本探索をもって、「忘却による消失」ではなく「記録されなかったことによる消滅」が発生している可能性が明確となった。
影の記譜者は既に消滅したが、記録局全体における空白の存在に再定義が必要となる。
今後、同様の記されざる存在の発生に備え、記録構造の再構築と巡回調査が必要であると進言する。
記録官代行記名:
セシリア・ヴァレンタイン(特別観測魔導士)
エヴァン・クロスフィールド(魔導剣士/探索員)
【補足追記:静語の村に関する経過報告】
【地理位置】
王立記録局管轄外、旧ル=カラン地方西縁部の森林地帯に所在。地図上からは消去されていたが、探索中に魔導測量班により再記録。
【状態の変化】
エヴァンとセシリアが《影の記譜者》との最終交戦を経て、記されざる記憶を取り戻したことで、村を覆っていた言語封鎖障壁が徐々に消滅。
村の上空に漂っていた無音の帳が、記憶の返還と同時に霧のように薄れていった。
住人たちは徐々に、単語を発することができるようになった。
初期には「名」「色」「家族」「空」といった、最も根源的な語彙から復帰。
言語能力の完全復元は時間を要するが、記憶の封印が解けたことで再学習が可能となった。
【特記事項】
村の長老格である人物が、かつて「自分たちの言葉は記されなかったのではなく、奪われたのだ」と、震える声で語ったという報告あり。
現在は、王立記録局より語彙修復官が派遣され、住民とともに再言語化作業が進行中。
村の名前――静語――もまた、住人自身の手で書き直されるべく、刻まれつつある。
【結語】
静語の村は、完全な回復には至っていないが、言葉という世界への入口を再び開きつつある。
記録は言葉を得て初めて残る。
そして、彼らは今ようやく――自らの物語を語ることができるようになったのだ。




