第二十話
王都フェル=グレイの西端、王宮のさらに奥深く、地下迷宮へと繋がる厳重な門があった。そこに刻まれていたのは、あまりに古びて解読困難な古代語。そして、その門の向こうにあるのが、今では誰も足を踏み入れたことのない記録の墓所――《咎びとの大書架》であった。
「ようやく最後の扉にたどり着いたか……」
エヴァン・クロスフィールドは、静かに息を吐いた。
長き探索の果てに辿り着いたのは、あらゆる語りの罪を記録し、封じるための場所。
隣に立つセシリア・ヴァレンタインは、掌に小さな転写札を浮かべ、魔力の微細な変動を読み取っていた。
「語りの因果が渦巻いてるわ。ここは――ただの記録庫じゃない。記録が、意志を持ってる」
「記録に……意志?」
「ええ。書かれたものが、自らの記述を守ろうとしてるの。まるで、自分が語られたことの罪そのものだとでも言わんばかりに」
そのとき、石造りの扉が、音もなく開いた。
まるで、ふたりを迎え入れるように。
中は、異様な静寂だった。
無数の書架が螺旋状に連なり、天井すら見えないほどの闇が広がっている。
書架の奥から微かな呻き声のようなものが聞こえた気がして、エヴァンは反射的に剣に手を伸ばす。
だが、それは恐怖ではなかった。
長き冒険を経た彼の眼差しは、むしろ確信に満ちていた。
「ここで終わらせる。語られ過ぎた物語の、終幕を――」
そして、二人は足を踏み入れた。
《咎びとの大書架》――
それは、かつて書かれ、語られ、そして誰かを傷つけ、狂わせた物語の亡霊たちが眠る場所。
だがその一角に、かつて語られなかったはずの、エヴァンとセシリア自身の物語が記されていた。
それが、全ての始まりだった。
――《咎びとの大書架》第三層。
ここには語られなかった物語が封じられている。すなわち、途中で打ち捨てられた語り、禁じられた語り、そして、語ることすら許されなかった語りである。
無音の空間に、わずかに紙が擦れる音が響いていた。
「……空気が変わった」
エヴァンが呟く。魔剣《カレド=ルクス》の柄に手を添えたまま、書架の影を警戒している。
セシリアは魔導衣の袖から記録具を取り出すと、淡く輝く術式を展開した。
「無記名文書の囁き……この空間、どこかに未登録の語りが生きてるわ。普通の魔導図書館では検出されない類のものよ」
その瞬間――
書架の隙間から、無数の手が飛び出した。
いや、正確には手の形をした黒い文字の塊だった。
ひとつひとつが、異なる文法で綴られた物語の断章。
それらが異形の姿となり、ふたりへと襲いかかる。
「来るぞ!」
エヴァンが剣を抜き、縦一閃に払い落とす。
文字の塊は空中で火花を散らし、墨のように霧散した。
セシリアは背後に展開した魔法陣から雷光の槍を射出する。
「雷槍《ザル=エレオス》!」
空間を裂くような轟音と共に、一対の異形が文字ごと焼き切られた。
だが、数が減らない。
それもそのはず。
この階層に封じられているのは――数多の未完の物語。
語られなかった咎の数だけ、異形が存在していた。
「これは……持久戦じゃ済まないな」
「いいえ、違う。これは出題よ」
「……出題?」
セシリアは目を細め、書架の奥――異様に黒ずんだ一冊の書物を指差す。
「主文書がある。あれがこの階層の核。あれに触れ、真の物語を見抜くこと。それが突破の鍵」
エヴァンは短く頷き、敵を斬り裂きながら進む。
セシリアは防御魔法で援護しながら、記録術を駆使してその語りの中心へと迫っていった。
やがて二人の前に現れたのは、金属のように重厚な書架の最奥。
そしてそこに――
ひとつの椅子に座った本がいた。
正確には、椅子に座ったような姿をした、巨大な本だった。
人間の顔を模した表紙。静かに開閉するように、上下の表紙が口のように動いていた。
その存在が、口を開いた。
「我は語られざる《ノーム・サフル》。廃された物語の守護者なり。汝らに問う。――語りとは罪か? 記すとは罰か?」
その言葉に、セシリアが一歩前に出る。
「……その問いを、お前自身が答える番よ。《語り》は時に誰かを救い、時に誰かを傷つける。でも、私たちは、その矛盾を背負って、前に進んできた」
エヴァンも静かに剣を構える。
「そして、お前がそれを封じることで何かが救われるというのなら、俺は――その上で、抗う」
異形の本は、重く笑った。
「ならば記されよ。戦いという語りを」
空間がねじれた。
そして――戦いが始まる。
空間が裂けた。
否、頁がめくられたのだ。
世界が一枚の紙に変わり、それが引き裂かれて、物語そのものが敵の領域に塗り替えられていく。
「……これは、世界が書き換えられてる……!」
セシリアが魔導障壁を展開する間にも、次々と現実が変容していく。
石造りの大書架は白紙の荒野に変わり、空には墨で塗り潰された文字が降り注ぐ。
あらゆる現象が語られざる記述によって再構成されていた。
そして、玉座に座したまま――《ノーム・サフル》が手を振る。
「第一章。――『勇者の敗北』」
その言葉とともに、エヴァンの身体に異様な重圧がのしかかる。
剣が重い。脚が動かない。まるで物語の敗北者として定義されてしまったかのように。
「く……ッ!」
《カレド=ルクス》が唸りをあげるも、その光が鈍る。
まるで、勝者の物語から剥奪されたかのように。
「くそっ、俺の力が……!」
セシリアが即座に術式を切り替える。
「再定義魔術! この物語はまだ終わっていないわ!」
だが、敵の一手は速い。
「第二章。――『賢者の沈黙』」
セシリアの口から、言葉が消えた。
術式が中断され、喉から出るはずの詠唱が、まるで削除されたかのように音にならない。
「……ッ……っ……!」
目を見開くセシリア。彼女の周囲を囲むように現れる黒いインクの渦。
彼女の記憶――魔導師としての語彙そのものが侵食されていく。
「――セシリア!!」
エヴァンが剣を振るう。だが、敵の身体は触れるたび頁となって裂け、また元に戻る。
切っても切っても、物語が書き換えられて再生するのだ。
「これが……《語られざる守護者》の力……!」
ノーム・サフルの声音は低く、そして慈悲すら帯びていた。
「汝らは過ぎたる記録を手に入れた。言葉とは罪であり、記憶とは枷である。語り継がれるべきではなかった真実の重みに、抗えると思うな」
次の章がめくられる。今度は空間が歪み、セシリアの背後にもうひとりの自分が現れようとしていた。
――影の中から、黙したセシリアが浮かび上がる。
「やばい……! このままじゃ、記された自分が敵になる――!」
エヴァンが叫ぶ。
その瞬間、空に巨大な文字が浮かび上がる。
《第三章:英雄、破滅に至る》
空間が、絶望の物語に覆い尽くされようとしていた――
「……くそ、これは物語の枠組みそのものが敵になってる。勝つには、語られない場所まで踏み込むしかない……!」
荒野のごとき白紙空間で、エヴァンは歯を食いしばる。
剣は未だ鈍く、身体はまるで失敗する運命の一部のように重い。
だが――彼の瞳には、諦めはなかった。
「セシリア、聞こえるか……?」
声が届いた。わずかに、彼女の青い目が揺れた。
「……ええ。聞こえてるわ。私たちは、物語の中に書かれた存在として認識されている。なら、抜け道は……一つよ」
セシリアが手を上げる。指先に灯る光は、通常の魔術とは違う――記録外構文。
公式の魔導理論に存在しない、セシリア独自の構文魔術だった。
「私の記憶にはまだある。あなたと戦った日。あなたと歩いた記憶。語られなかったもう一つの物語――それはまだ、書かれていない」
「セシリア……!」
彼女の手が空にかざされる。
「記述遮断術式、展開!」
空間が一瞬にして歪む。
ノーム・サフルが座していた玉座の地面が崩れ、白紙だった世界の一角が文字を拒む闇で覆われていく。
「なに……?」
ノーム・サフルの声が揺れた。
それは、初めての動揺だった。
「この空間は物語の領域。ならば、語られない力をもってすれば、干渉は可能よ」
セシリアが言い切る。
「そして私は、エヴァンの隣に立つ者――語られる必要のない在り方で、ここにいる!」
その声と同時に、エヴァンが一歩、空間の底を踏み抜いて進み出る。
身体を縛っていた敗北の定義が、ひび割れる音を立てて剥がれていく。
「言葉で縛られるのはまっぴらだ。俺の生き方は、俺が決める。剣は俺が握る。俺の意思で、未来を切り拓く!」
《カレド=ルクス》が咆哮した。
封じられていた魔力が解放され、黒い頁を裂くように金光が溢れ出す。
「――第四章はない。俺たちが今、新しい物語を選ぶんだ!」
ノーム・サフルが静かに立ち上がる。
「……ならば見せよ。語られぬ者たちよ。私を超えて、真実の名を刻めるか――?」
次の瞬間、空間が激しく震える。
《ノーム・サフル》が、ついに本当の姿――記録の鎧を纏った王の巨影となって戦場に降り立つ。
《ノーム・サフル》が立ち上がる。
彼の背後には無数の書かれた未来が連なる魔導の列記。
それは、いかなる英雄も、いかなる災厄も記述し尽くした王の筆記――
記録の権能による支配であった。
「愚か者どもよ。お前たちは既に敗れている。語られぬ者は、世界には存在しえぬのだ。」
巨大な腕が振るわれ、周囲の空間が書き換えられていく。
《大書架》の棚が裂け、文字が剥離し、現実の断層が露出した。
「……来るぞ、セシリア!」
エヴァンが疾駆する。
セシリアは魔導円陣を三重に重ね、魔力の波を敵の干渉領域へ撃ち込む。
「《語彙断絶結界》!」
言葉が意味を持たない領域を創り出す結界だ。
《ノーム・サフル》の記述魔術が一時的に遮断される。
だが――
「解釈は、私の側にある。」
王が囁くように呟いた瞬間、遮断結界の内側に新たな記述が現れた。
「遮断結界、無効化」。
「――ッ!?」
「貴様の努力すら、私は過去として記せるのだ。」
王の手が振り下ろされる。
時間そのものが跳ね、記録が強制的に書き換えられる未来へと傾く。
だが、その時だった。
「……その傲慢こそ、お前の語られぬ結末だ。」
エヴァンが踏み込んだ。
空間が歪み、剣の輝きが記録の軌跡を裂く。
「《虚無裂き(アナザー・ブレイク)》――ッ!」
《カレド=ルクス》が輝き、放たれた斬撃は記録構造そのものに到達する。
書かれた因果が砕け、王の身体がよろめく。
「ッ……これは……!」
「お前はすべてを語る側としていた……だが、俺たちは語られぬ側としてここに立ってる!」
セシリアが続けて詠唱する。
「《残響記述・外語詠唱式:セラフィックコード》――」
封印していた最後の構文が展開される。
世界の外にある記録されなかった言葉が呼び出されると同時に、空間が共振し始めた。
「書かれなかった英雄譚をここに記す。今を超えて、存在することの意味を持って――!」
エヴァンの剣が光を放ち、
セシリアの魔術が名もなき記録に魂を刻む。
「――終わりだ、《ノーム・サフル》!」
全力の一撃が放たれる。
王の鎧が裂け、背後の記述の翼が崩れ落ちる。
無数の未来が白紙へと還元され、書架は沈黙に包まれた。
《ノーム・サフル》が膝をつく。
「……見事だ。物語とは、かくも……抗いがたきものか……」
最期の言葉と共に、王は虚空に吸い込まれるようにして消えた。
記録は終わった――否、新たに始まったのだった。
静寂が訪れる。
「……終わった?」
セシリアが小さく息を吐く。
エヴァンは剣を地に突き、空を見上げた。
「終わったな。……だけどさ。俺たちは、これからをどう記していくんだろうな」
「きっとまた、物語の続きを見つけるのよ。書かれることのない、私たちの物語を。」
ふたりの声が静かに交差し、
崩れゆく《大書架》の中、語られざる英雄譚がまたひとつ――
新たに、始まろうとしていた。
《咎人の大書架》からの帰還は、
沈黙の中に満たされたような静謐さをまとっていた。
エヴァンとセシリアは、
いつものように王立記録局の調査報告室――
静かな石造りの一室に姿を見せた。
セシリアがゆっくりと記述端末を操作し、報告を入力していく。
彼女の指先は一瞬止まった。迷うように――けれど、すぐにまた走り出す。
「……今回の件、どう記録する?」
「そうだな。全部記すには、記されなかったことをどう扱うかが問題だな」
エヴァンの言葉に、セシリアはふっと笑った。
「記録されなかったからこそ、語らなきゃならないわけよ。私たちの目で見た彼の最後を」
「……ああ、そうだな」
【報告書抜粋:王立記録局探索局 第二次長期任務報告】
《報告書番号:EX-08》
《任務名:第八の探索記録──咎びとの大書架》
《報告者:セシリア・ヴァレンタイン(記録術士)》
《共同記録者:エヴァン・クロスフィールド(記録認定探索者)》
■ 概要:
本任務は、大陸南方《灰積の境界層》に位置する
記録に取り残された魔導遺跡《咎びとの大書架》における記憶再編成および危険存在の封印任務である。
探索の結果、当該書架の最深層には「記録そのものを媒体とした存在」――
通称《忘却の王》が確認された。
該当存在は、過去のあらゆる英雄譚・罪・予言・思想を記録し、それを制御することによって現実改変能力を得ていた。
■ 特記事項:
対象は語られることで力を増す構造を有しており、記述行為そのものが魔術的干渉の根幹であった。
最終的に、探索者らの手によって《未記述の言語》および《記録断絶干渉魔術》を用いた記録上の死が成立。
書架全体の構造は、最終戦闘に伴う崩壊によって消失。回収不可能な文書多し。
一部、失われたとされる禁書記録の残滓を持ち帰り済み。現在封印保管下。
■ 結論:
記録されることが存在のすべてという王の思想は、
逆説的に記録されない価値をも証明した。
我々は、これより先の探索においても、
記されぬ声を拾い上げることに努めるものとする。
報告終了。
報告を終えたその夜。
エヴァンとセシリアは、静かな王都フェル=グレイの高台に座っていた。
「……なあ、記録ってのは、誰のためにあるんだと思う?」
「記すことで誰かの真実が救われるなら、それでいいと思ってる」
「でも、王は救われなかったぞ?」
「救いたいと、誰かが願わなければ、救いなんて訪れないわ。
……彼には、誰もいなかった。それだけ」
「……俺たちは?」
「私がいる。エヴァンには、私がいるわよ」
その言葉に、夜風がそっと吹いた。
書かれなかった言葉は、
けれど――確かに、そこに在った。




