第二話
森を出たのは、封印から二日後の朝だった。二人は崩壊しかけた地下遺構を後にし、森を抜け、依頼主との連絡地点として指定されていた旧街道沿いの宿場町にたどり着いていた。
エヴァンは馬の背に身を預け、眠るように沈黙していた。セシリアは懐から古びた封印札を取り出し、静かに文様を指でなぞる。再封印した文書の残滓は、今なお彼女の手元にあった。
「誰かが……この力を、意図的に解放しようとしたのよ」セシリアの言葉に、エヴァンが目を向けた。「ノルテ侯爵家の依頼、あまりにも情報が抜けすぎてた。封印の存在も、文書の内容も知らないはずがない。むしろ見せたかったんじゃないかな? あなたに」
「試されてた……ってことか」エヴァンの目が険しくなる。「だったら、これからが本番だな」
宿場町の広場には、すでに彼が待っていた。ノルテ侯爵家の家紋を刻んだ黒衣の従者。銀髪に無表情、しわ一つない黒装束は、まるで礼装のようでいて不気味な威圧感を放っている。
「お待ちしておりました、冒険者殿」
口を開いた声は、感情の起伏をほとんど含まない。従者は礼儀正しく頭を下げると、淡々と告げた。
「封印の再構築、お見事でした。侯爵閣下は大いに満足されましょう。報酬は約定どおり。……ただし、閣下より、もう一つお願いがございます」
エヴァンの眉が動く。「またかよ。今度は何を拾ってこいって?」
従者の手が、内ポケットから一通の封書を取り出す。漆黒の封蝋には、ノルテ侯の家紋と――もう一つ、見知らぬ紋章が重ねられていた。
「閣下はこの件を、王都方面の別の勢力と共有されており、次なる鍵が、王都北の地にあると掴んでおられます。閣下は申されました。――『次は、真の文書を取り戻す時だ』と」
セシリアの目が鋭く光った。「……今のは複製だったってこと?」
従者は何も言わず、ただわずかに口元を歪めた。それは、初めて見せた――微笑だった。
「……面白くなってきたじゃないか」エヴァンが腰の剣に手をかける。
「俺たちは流れ者だ。行くも戻るも、気分次第だが……今のは、ちょっとムカついた」
セシリアは、黒封書をじっと見つめた。
「真の文書。それを求める者たち。知識がただの力ではなく、武器として動き始めている……」
それから従者は今回分の報酬の入った巾着を差し出した。エヴァンがそれを受け取る。
王都フェル=グレイへ向かう道は、かつてほど穏やかではなかった。街道を往く旅人の数は減り、商隊は兵を雇い、かつての豊穣な郊外には野営地や哨戒陣が点在していた。
「……空気が変わったわね」セシリアが馬の背から周囲を見渡しながら言う。
「戦の匂いがする」エヴァンは短く応えた。
情報によれば、第二の文書が発見されたのは、王都北方の廃塔ツィリルの塔。三百年前に魔導騎士団が築いた塔で、今は封鎖され、地図からも消されたという。だが、ノルテ侯爵家の密偵によって塔の地下に同じ文様が発見されたのだ。
「……塔を守ってる連中がいる。素性はまだ不明」
「王都の派閥かしら?」
「それとも、俺たちと同じく流れ者かもな」
その予感は、程なくして現実になる。
廃塔の見える丘の手前――彼らを待っていたのは、馬上の女騎士だった。黒銀の甲冑を纏い、瞳は氷のように澄んで冷たい。その背には、十字に交差する二本の魔導剣。
彼女の名は――カリス・アーグレイン。王都直轄の「知識管理局」に属する魔剣士にして、アストレイア文書を封印すべき災厄と見做す陣営の一人。
「立ち止まりなさい。ここから先は、王都の許可なく踏み込むことを禁ず」風に乗って、彼女の声が鋭く届く。
エヴァンは手綱を緩め、目を細めた。「……どうやら、俺たちを待っていたらしいな」
「名を」
「エヴァン・クロスフィールド、流れ者。横はセシリア・ヴァレンタイン、魔導士。ノルテ侯からの依頼で来ている」
カリスの眉がぴくりと動いた。「ノルテ侯……また貴族の手が。災厄を開くことに執心するのは、彼の家だけではないのか」
「あんたは、それを封じる側か」
「違う。私は、守る側。この塔にある第二の文書は、既に目覚めている。その中にある語られてはならぬ名前が、封印の外へ流れ出ている」
セシリアが瞳を細める。「語られてはならぬ……名前?」
カリスは無言で馬を返し、塔の方角を指差した。「真に見る覚悟があるなら、来るがいい。だが忠告する。そこにあるのは知識ではない。言葉が災厄を生むとは、比喩ではないのだから」
カリスは馬を降り、草の上に立つと、銀の篭手で兜の面を外した。滑らかな黒髪が風に舞い、露わになったその顔は、冷たいが凛としていた。その瞳は、真っすぐにセシリアを見ている。
「……魔導士セシリア。あなたは封印された言葉に触れたと聞く。ノルテ侯がそれを意図していたのかは、今は問わない。私が知りたいのは、あなたが何を感じたかだ。あの書の深奥に触れ、何を――得た?」
セシリアは一瞬だけ瞼を伏せ、言葉を選んだ。
「……目を閉じて眠る竜に、耳を近づけた気分よ。静かだけれど、その呼吸の熱と重さが、骨に染みるような。あの文書は知識ではなく、存在だったわ。理解すればするほど、それに飲み込まれる。それでも私は、それを封じ直すことを選んだ。理由は一つ。私たちは、無知ではいられないからよ」
カリスの口元が微かに動いた。笑みとも、苦笑ともつかない、けれど確かな反応。
「無知ではいられない……。そうだな、それこそが災厄の始まりかもしれん」
彼女はゆっくりと歩みを進め、エヴァンの前に立つ。
「剣士、あんたはどうだ? 剣で封じられぬ言葉に、どう対処する?」
エヴァンは答えを急がなかった。やがて、面倒くさそうに肩をすくめる。
「簡単な話さ。俺は信じた奴の選んだ道を通る。あんたが封じろって言うなら、その時は斬る。あいつが開くって言うなら、背中を預けるだけだ。剣は、選ぶものじゃねえ。振るうべき時に、振るえるかどうかだけだ」
カリスはしばし沈黙したあと、低く呟いた。「……それが、流れ者の覚悟か。理解した」
そして、わずかに目を伏せると、背中を向けて塔の方へ歩き出す。
「ついて来い。塔はすでに開かれている。過去の残響が言葉の形で蠢いている。入る前に一つだけ言っておく――。この塔で名前を呼んではならない。どんな名も、どんな音もだ。音が形を与える。それが、この塔の呪いだ」
セシリアとエヴァンは、静かに顔を見合わせた。そして何も言わず、塔の入り口へと歩みを進めた。
塔の入り口から数十歩手前、風が遮られた古井戸の跡地にて、三人は足を止めた。セシリアは懐から幾つかの道具を取り出す。薄い紙片に、細かい封印式が刻まれた札。そして透き通った小瓶。
「言葉が呪いになるということは、塔の空間全体が共鳴式結界で満たされているのだと思うわ」
「簡単に言うと?」エヴァンが尋ねると、セシリアは札の一枚を掲げながら答えた。
「音が魔力を呼び起こす仕組みになってるの。たとえば水と口に出せば、それに反応して水の魔力が暴発する。つまり、この塔の中では、言葉一つが魔法の発動トリガーになりかねないってこと」
「しゃべるだけで爆発か。つまらねえ場所だな」
「幸い、対処法はあるわ」セシリアは札の一枚をエヴァンの胸に貼った。すぐに薄い魔力の膜が周囲に広がり、鼓膜に違和感が走る。
「消音結界――この札を通して発した音は、結界の外には届かない。逆も同じ。つまり、塔の中では私たちの会話は内輪だけ。外界には反応しない」
「だが、呪文は?」カリスが静かに問う。
「一部の呪文は音声詠唱が必須。でも、私はあらかじめ無言詠唱の式順を刻んだ札を用意してる。それを使えば、最低限の魔法行使はできる。ただし威力は制限されるし、回数にも限りがある」
エヴァンが腰の剣を確認する。「つまり、基本は剣と身振りってことか」
「静かに、慎重に進むこと。それだけ」セシリアが頷き、カリスと自身の胸に札を貼る。それは沈黙と視界の共鳴式。視線や手のサインを通して最低限の意思疎通を保つためのものだ。
三人の間に、言葉はもうなかった。ただ、目と目の合図だけが交わされる。
カリスは一歩前に出て、塔の扉に手をかけた。重い石の扉が、まるで自ら開かれるのを望んでいたかのように、静かに軋みを上げて開いた。
闇の中からは、何の音も返ってこなかった。ただ一つ、確かなものがあった――そこに言葉が棲んでいるという感覚だけ。
準備は整った。次は、音が許されぬ空間、ツィリルの塔の内部探索。沈黙と錯覚の中で、彼らは何を見つけ、何を選ぶのか。
扉が開かれた瞬間、世界が一つ、終わった。
外気のざわめきは、石の厚みを越えては届かない。足を踏み入れた瞬間、風の声は途絶え、空の光も消える。そこにはただ、音のない闇だけがあった。
石と石のあいだに、歳月が沈殿している。人の手によるものではない。これは沈黙によって培われた時間だ。誰もが何も語らぬまま、ただ存在し続けたという、得体の知れぬ永劫の記憶。
エヴァンは一歩、足を踏み出した。石の床は冷たく、硬く、乾いていた。だがその足音は、まるで地面に吸い込まれるかのように、何一つ響かない。
セシリアが後に続く。彼女の手には光――ただし、照らすためのものではない。魔力の揺らぎを読むための、脈動を視るための灯火だ。光の輪郭は微かに揺れ、空間に染みついた魔素が蠢いていることを告げていた。
彼らは、無言だった。会話はできる。けれど、しなかった。それは沈黙を守るためではない。
言葉というものが、ここでは異物であるという直感。ひとたび音を発せば、それはこの空間にとって毒となる。文字通り――この塔は、音を喰う。
三人は肩を寄せるようにして進む。壁の装飾はすでに剥落し、朽ちた扉は開け放たれたまま冷たく沈黙している。だが、埃ひとつ落ちていない。それは――何かが通っているという証左だった。
廊下の先、螺旋階段へと続く踊り場。そこで、セシリアが小さく手を挙げる。その指先が、血の痕跡を指し示していた。
赤ではなかった。褐色でも、乾いた茶でもない。それは――黒。
文字のように見える血だった。
誰かが、流れ出る血に、意味を刻んでいた。あるいは、血そのものが言葉になろうとしていた。
セシリアの瞳が微かに震える。彼女だけが読める。彼女だけが感じ取れる。
『ここより先、名を持つ者は還らず』
知識ではない。警告でもない。
これは、呪いそのものだった。
塔の内部には、かつて文書を読んだ者たちの残した痕跡が、静かに沈殿している。ここから先は、一階層ごとに罠と幻覚、そして語られざる名前の影が迫ってくる。
螺旋階段の中腹、崩れかけた踊り場にて。セシリアがまたしても足を止める。光の揺らぎが異常な軌道を描き、結界の痕跡が漂っていた。空間の裂け目。そして、時間の澱。
視界が、歪んだ。
塔の内部――いや、それは過去だった。石壁は整い、松明は灯り、剣戟の音と怒声が飛び交っている。
魔導騎士たち。その姿は威厳に満ち、光の盾と雷の剣を操りながら、何か異形と戦っていた。
だが、その姿はぼやけていた。輪郭が不安定で、誰一人として名前がない。その名を呼ぼうとするたびに、脳が滑る。
そして、空間の中央に立つ一人の騎士。背は高く、白銀の鎧を纏い、深紅のマントが揺れていた。
彼は静かに口を動かしている。だが、音はない。この塔の呪いにすでに囚われているのだ。
それでも、セシリアには読めた。唇の動きが、言葉を紡いでいた。
『……我ら、失敗した。封印は……未完成……。名前を……捧げよ……でなければ……』
最後の言葉は、空間ごと崩れた。騎士たちの姿は光に還り、記憶の断片もまた風に溶ける。
ただ、一つだけ、彼らがいた証が残っていた。
それは、階段の石に刻まれた刻印。古の文字で、こう記されていた――。
記録されざる者たちの墓標。
「……あれは、塔を守ろうとした者たち。文書を封じる最後の鍵を自らに刻み、名を捧げて、塔の内部に留まった」セシリアは、かすかに震える指先を抑えながら呟いた。「名前を失えば、記憶も、存在も不安定になる。でもそれが、この塔で唯一言葉を持たない防御だったのよ」
エヴァンが沈黙のまま剣を構えた。その瞳に宿るのは、同情でも驚愕でもない。ただ、意志だった。
「……なら、俺たちはその続きをやるだけだ。名を持ち、言葉を奪われても、俺たちはまだ歩ける。あの連中の最期が無駄じゃなかったって、証明してやるためにな」
カリスはその言葉に、黙って片頷きを返した。三人は再び歩き出す。次は、塔の第一層――沈黙の書架と呼ばれた空間へ。
階段を昇りきった先――。石の扉は既に開かれていた。鍵も封印も、すでに機能していない。だがそれは、この場所が安全だという意味ではなかった。
否、むしろ逆だ。その静けさは、何かが既に通った後であることを、無言のうちに物語っていた。
三人は慎重に、第一層の空間へと足を踏み入れる。
そこは、塔という構造物にはそぐわぬほど広大だった。果てしなく並ぶ書架。天井は高く、柱はなく、まるで神殿のような構造。書架と書架のあいだには灯りひとつなく、しかし視界ははっきりしていた。書物たち自身が微かに発光し、光の脈動を呼吸のように放っていたのだ。
セシリアが無言のまま前に出る。魔導札を取り出し、周囲の魔力濃度を確認。すぐに彼女の瞳が鋭く細められた。
――異常な密度。この層は、単に文書を収める場所ではない。書架に収められた書物の多くが、今もなお生きている。
そのときだった。書架の奥、誰も触れていないはずの一冊の書物が、ぱたりと開いた。文字は、宙に浮かぶように立ち上がり、かすかに揺れる。
言葉ではなく、問いだった。
『誰ぞ、汝の名を述べよ』
セシリアが一歩後ずさる。思考が、問われたのだ。声に出していない。けれど、脳が応えようとした瞬間、空間がわずかに震え、魔力が脈打つ。
カリスがセシリアの肩を掴み、頭を振る。――答えるな。
その問いは罠だ。名前を思えば、それが音となり、空間に刻まれてしまう。
エヴァンは剣を抜いた。書架の上から、何かが降ってくる気配。ゆっくりと、背を這うように迫る紙の気配。それは、まるで蜘蛛の巣のように絡みつき、声なき者の名を求めている。
セシリアは即座に札を起動。一枚の光の札が宙に浮かび、無音の波動を発した。書架が軋みを上げる。書が閉じ、紙の罠が破れる。
――知識を、選ばなければならない。
この層にあるすべての書は、封印された問いを持っている。触れた者に名を問う。過去を問う。存在理由を問う。
答えた瞬間、それは音となり、名となり、塔の呪いに絡め取られる。
三人は、書架の間を静かに歩いた。地図もない。標もない。けれど、ある方向から魔素の脈動が集まっていることにセシリアは気づく。その先に、何かがある。第二の文書の核へと続く道が。
だがその道は、そう簡単には通さないだろう。書の守り手――無音の司書が、まだ姿を見せていない。
書架の間を進むうち、空気が変わった。
気圧がわずかに低くなる。魔素の流れが逆流するように集まり、そして――冷たい気配が、背後から、忍び寄る。
セシリアが歩みを止めた。彼女の視界の隅に、揺らめく黒が映った。
それは人の形をしていた。だが、肉体ではない。
長く、引きずるような法衣。顔は書の束でできており、表紙は閉ざされ、文字は擦り切れている。両腕の代わりに備わったのは、巨大な鋏と羽根ペン。片方は削除、片方は記録――。その名も、無音の司書――リブラリアン・サイレント。
司書は、声を発さない。だが、空間が揺れた。一瞬で、周囲の書架が敵を認識し、言葉なき詠唱を開始した。書が開かれ、空気に無数の句読点が浮かび上がる。それらが弾丸のように飛翔する――。
エヴァンが即座に前へ躍り出た。音はない。だが、剣の切先が瞬時に風を裂き、飛来する句読点を叩き落とす。鍛えられた筋肉と経験、そして沈黙における集中力。
一太刀、二太刀――音なき戦舞が、始まった。
セシリアは魔導札を展開。無詠唱対応の術式を一枚、二枚と重ねる。宙に浮かぶ魔法陣が、青く光を放つ――しかし、発動はまだ早い。この相手は、意味のある魔法を撃てば即座に干渉してくる。彼女は試すように、まず文字のない白紙の札を一枚、投げた。
それに反応して、司書の顔が一瞬だけ傾く。鋏が空を裂き、白紙札を断ち割った。
「……なるほど。あれは情報を破壊する存在」
セシリアは気づいた。意味を持つもの――文字、言葉、文脈。それを存在として認識した瞬間に、攻撃してくるのだ。
カリスもまた動いた。魔導剣を逆手に構え、静かに走る。足音すら残さぬ疾走。彼女の剣には、あらかじめ文字を消し去る消文の符が刻まれていた。
「音も、言葉も、情報も持たぬ刃なら――」
司書の背後に迫り、鋏が振り下ろされるよりも速く、彼女の一閃が書の顔を斬った。
裂ける紙。舞う文字。けれど、それで終わらなかった。
書の仮面の奥に、もう一つの頁があった。それは、破壊されることを前提にして、二重に仕組まれた記録の核――。
司書は、その頁を開いた。
空間全体が震え、塔の構造が崩れかける。書架が音もなく倒れ、幾千の文字が空を埋め尽くす。
セシリアが決断した。右手の札を強く握り、最後の詠唱を起動する。
無音の詠唱。音ではない言葉を用いた、魔導士の極致。
意味断絶の印章――シジル・オブ・ネゲイション。
発動とともに、空間が反転した。全ての記述が白紙に変わり、意味を失った書が地に落ちる。
司書の仮面がゆっくりと崩れた。顔の中心に刻まれた最後の一行だけが、輝きを放ちながら消えた。
『我は記録の番人なり。語るべからず。記すべからず』
書架は沈黙を取り戻した。空間の脈動も収まり、再びただの塔の層へと戻る。
セシリアが深く息を吐いた。「……司書の守る場所。その奥にこそ、第二の文書の影がある」
エヴァンは剣を収め、まばたきひとつなく頷いた。
書架の最奥、司書の消滅した跡地には一冊の書物が残されていた。真っ白な表紙に、黒の装丁。表題もなければ装飾もない。けれど、セシリアはそれを見た瞬間に悟った――。
これは管理記録だ。
魔導士の手で書かれたものではない。これは塔そのものが、自身の存在を記録するために編んだ、自動筆記のような書だった。
彼女は慎重に一頁をめくる。無音のまま、文字が浮かび上がる。
記録 第十二節。
『――この塔は、第二の文書を封じるために築かれた。文書が持つ言語干渉の力は、もはや単なる魔導知識ではない。読まれることすら危うい。ゆえに、我らは構造を逆転させる。文書を中心に据え、塔全体を読み手から逆封じる装置として設計する。ここは図書館ではない。これは、文書のための牢獄である。我らは名を捨て、語らず、書かず、記録から消える。それが唯一、書を眠らせる術。されど……『第二の文書』は、既に名を持っていた。その名は、かつて失われた王のもの』
「……王?」セシリアの声が震える。「第二の文書は、単なる知識の結晶じゃない。誰かの名前そのものを封じた書なのよ……」
カリスの瞳が鋭く光った。「存在を記録するための魔術書か。忘却された王……あるいは、意図的に歴史から消された者」
「そしてその名が……いま、塔の中で目覚めようとしている」
エヴァンは沈黙したまま、書物の最後の頁に目をやった。そこには、古い筆致でこう記されていた。
『名を呼ぶな。呼ぶたびに、それは近づく』
『書ではなく、者として戻る前に――第二層の封印を完了させよ』
セシリアは顔を上げる。「次の階層……第二封印室が、塔の核部。第二の文書の中核部が、そこに存在する」
カリスが短く言った。「もしもそこが完全に覚醒していた場合、私たちは、読むことすら許されない存在と向き合うことになるわ」
「読むことも、斬ることもできない……それでも行くんだろ?」エヴァンはいつもの調子で剣の柄を軽く叩いた。
「ええ」セシリアの声は静かだった。「それが、私たちの選んだ道だから」
静寂の終わりと、知識の深淵の始まり。物語はさらに深く、重く、神秘の核心へと進む――。
階段を下りるたび、空気が変わった。魔素の流れは重く沈み、皮膚の下を這うような冷気が骨に届く。光はなく、音もなく。それでも、そこに何かが待っているという確信だけがあった。
扉はなかった。壁に接する最後の段を踏みしめた瞬間、空間が開かれた。
そこは円形の大広間。石の床には同心円状に魔法陣が刻まれ、中央には石台。その上に一冊の書があった。
それは、呼吸していた。
書の表紙は皮革のような質感に濡れ、ページが自動で捲られている。だが風はない。ゆっくりと捲られる一枚一枚に、意味が宿っている。まるでそれ自体が何かを思い出そうとしているかのように。
セシリアは一歩進みかけて、背筋を凍らせた。書の周囲に、気配があった。
一人分――否、王の気配。
書の影から、輪郭が立ち上がる。白い衣。仮面の顔。身の丈は高く、背筋はまっすぐで、手には何も持っていない。
声は、ない。しかし空気が震える。
『――我を、読むな』
その言葉は音ではない。脳内に直接届いた書かれた声だった。
カリスが剣を抜いた。セシリアは魔導札を展開。エヴァンは、いつものように剣を肩に担ぐ。
書の王が、動く。一切の前兆なく、空間が歪む。
瞬間、三人の視界が分断された。
――エヴァンは、戦場にいた。見知らぬ丘。無数の剣が突き刺さる死の原野。
彼の前に立つ、顔の見えぬ敵。名を問われる。剣に込めた意味を問われる。答えれば、それが現実になる――そんな世界だ。
――セシリアは、書庫にいた。かつて通った学院の記憶。読むべきでない本が開かれている。
そこに、自分の名前が記されている。過去、現在、そして未来において、自分が読むはずだったすべての書。
彼女が読みきった時、そのすべてが現実になる――。
知識の罠。知れば、抗えぬ真理。
――カリスは、玉座にいた。周囲に誰もいない。王都の玉座。
彼女は王の影と対面していた。その仮面を外すように命じられる。
中にあるのは、かつて誰かだった者の顔。記録されなかったが、確かにいた王の顔。
カリスの手が、仮面に触れる。
空間が裂ける。幻視は現実に戻る。
三人は同時に膝をつき、冷や汗を流していた。
書の王は立っていた。一歩、また一歩、音もなく進む。
これが第二の文書。名を持ち、形を持ち、書ではなく人として現れた存在。
セシリアが、震える声で呟いた。
「……これが、語られてはならぬ名前……。この書の核は――ひとりの王を、忘れさせるために作られたのね……」
書の王は、静かに立っていた。動かず、語らず。だがセシリアが一歩前に出たとき、空間がわずかに波打った。
彼女の精神に、頁が差し込まれた。
見開かれた一頁の記憶――。それは、かつて栄えた国の玉座の間。白金に彩られた天井、石の柱、群衆の歓声。玉座に座る、若き王の姿。
声が響く。けれど、音ではない。それは書かれた声――意識の中で紡がれる、亡霊の自叙。
『我は、王であった。名は忘れられた。いや――奪われた。この世界は、語られることで存在が定まる。名を持つことで、歴史に刻まれる。だが我は、王でありながら、記録を禁じられた。一人の魔導皇の命によって――我が名も記録も、地より削がれたのだ。民の記憶も、書の頁も、我を記すことを禁じられた。ゆえに我は、己の存在を守るために、書物となった』
セシリアの呼吸が浅くなる。王は続ける。
『我を読めば、名を思い出す。名を呼べば、我は世界に戻る。それは、我の望みでもあり――災厄でもある。なぜなら、記録されざる者は、存在の安定を持たぬ。思い出された瞬間に、世界の現在と衝突する。それが、破滅を呼ぶ』
セシリアは震える手で、一歩前に出た。「あなたは……本当に、自らを忘れさせたいと思っていたの?」
一瞬、空間に沈黙が走る。書の王の肩が、微かに震えた。
『……否。我は、記されたいと願った。世界に、歴史に、誰かの記憶に。名を刻むこと。愛されること。そのために、我は王であった。されど……その願いは、王として最大の禁忌だった』
「つまり、あなたは神を記録しようとしたのね」セシリアの瞳が鋭く光る。
「あなたは神に名前を与えようとした。この世界の根幹を司る語られざる存在に、記録という形を与えようとした。それが罪だったのね」
書の王は動かない。ただ、静かに一頁を開く。
そこには、血のような文字でこう記されていた。
『名を持たぬ神に名を与えようとした者――それが、我。ゆえに、我は記録を奪われ、語ることを禁じられた。だが今、再び誰かに読まれるなら――その名は蘇る』
セシリアは静かに、振り返った。エヴァンも、カリスも、黙って彼女を見ていた。
「……この文書は、封じるだけじゃ足りない。これは、記録の在り方そのものを問うている」
彼女の声には、迷いがなかった。
「次は、どう封じるかじゃない。なぜ記録すべきでなかったのかを、私たち自身が理解しなくてはならない」
「――でなけりゃ、同じことがまた起きる」
この王を封じるか、あるいは理解という形で赦すか――。次の一手は、セシリアの知識と決断にかかっている。
ここはもう、現実ではない。言葉ではなく想起によって構成された世界。そこでは時も空間も定まらず、存在さえも不確か。けれど、セシリアは知るために進むことを選ぶ。
王の記憶の深層。セシリアは目を閉じた。ゆっくりと手を前へ伸ばす。書の王の開かれた頁、その中央に指先を添えた瞬間――。
世界が、反転した。
落下。あるいは、上昇。自分の重さが失われ、視界が解ける。
目を開けても、開けていなくても同じだった。そこには色がなく、音もなく、ただ流れる文字がある。
空に、海に、大地に――言葉が浮かび、流れていく。名詞、動詞、記号、詩、断章、告白。
その中心に、少年がいた。
年若き王――。まだ王冠を戴かぬ頃のその者は、読み書きを学んでいた。宮廷に仕える書記官たちに囲まれ、言葉の力に魅せられていた。
『言葉は、命を超える。剣は肉を裂くが、記録は永遠を刻む』
そう教えられ、彼は信じた。ならば、世界のすべてに名を与えよう。
空に、海に、雷に、そして――神に。
記憶が飛ぶ。彼は王となった。冷たく広い玉座に座し、国家を治め、平和を守った。
だが、彼は忘れていなかった。誰も触れてはならない空白の名前――。それを記すことが、この世界を完成させると信じていた。
書庫の最奥、封印された古書を彼は読み解いた。古の神々の名前、語られざる者たちの影。その中に、未記録の存在の名があった。
書いた。声に出した。
その瞬間、空が裂け、塔が崩れ、歴史そのものが書き換わろうとした。
存在とは、語られることで現実になる。
それを彼は証明してしまった。
『我を止めたのは、最も信じた書記官だった。我が友。彼は、我の名を封じ、我が記録を焼き、王国から我を消した。それが、救済だった。それが、裏切りだった』
セシリアは、その王の瞳を見た。喜びではなかった。恨みでもなかった。
ただ、記されたいと願う意志が、そこにあった。
『我が名は、記録されてはならぬ。されど、忘れられることにも耐えきれぬ』
その矛盾こそが、書の王の核心だった。
セシリアは静かに言葉を浮かべた。思考で、心で、記憶の海に一行を刻む。
「では、あなたは――記録されないまま、記憶される存在になればいい。語られず、書かれず――けれど、確かに誰かの中に生きている王として」
書の王は、目を閉じた。仮面がゆっくりと砕ける。顔は、誰かに似ていた気がする。
けれど思い出せない。思い出してはいけない。
それでも、セシリアの中に、何かが確かに残った。
現実に戻る。書は静かに閉じられていた。
名もなく、記録もされず。ただ、石の台の上で眠る一冊の本として。
セシリアは目を開け、静かに呟いた。
「……封印、完了。これは、もう記録じゃない。誰かの、記憶としての存在になったの」