第十八話
第六の探索記録――黒曜の縫い目と沈黙する大地
風は止み、大地は黙して語らなかった。
地図にも載らぬ灰褐色の荒野。空の色すら抜け落ちたかのような沈黙の地に、ふたりの姿があった。
「……ここが、縫い目の地か」
エヴァン・クロスフィールドは、砂の混じる風の中で帽子の縁を押さえながら、足元の黒い裂け目を見つめた。地面に走るそれは、まるで大地そのものに深く走らされた縫合痕のようだった。
「魔力の流れが不自然に断絶してる。ここ、生きてないわ……」
セシリア・ヴァレンタインはそう呟き、指先を地にかざすと、空間そのものがわずかに軋む気配を放った。
《王立記録局》の任務として届けられた文書には、こう記されていた。
《探索任務:階層境界域・第六帯》
《対象:黒曜の裂け目に封印された神語の織り手に関する記録の回収》
《備考:現地は魔力の静止領域であり、通常の魔術的交信・転移は不可能》
「記録には沈黙の地とあったが……本当に、ここまで何もないとはね」
エヴァンが指で触れた縫い目の端には、黒曜石のような物質が縫い針のごとく打ち込まれていた。まるで古代の誰かが裂けた大地を縫い合わせ、封印したかのように。
「ねえ、聞こえる?」
ふと、セシリアの問いかけにエヴァンは首を傾げた。彼女の表情が微かに強張っている。
「……音が、しない。風も、呼吸も、言葉さえ……全部、吸い込まれていくみたい」
次の瞬間、大地が軋んだ。
否、それは音ではなかった――記憶のこだまだった。
彼らの足元から、低くくぐもった声なき語りが染み出すようにして響く。
まるで封印された誰かが、地の底から語りかけてくるかのように。
《縫われし地にて、語ることなき者の記録を汝らに――》
空気が重くなった。砂は止まり、時が硬直する。
エヴァンが剣の柄に手を添え、セシリアが詠唱の構えを取る。
ここからが本当の探索の始まりだった。
縫合された地の裂け目は、地面を穿つ巨大な傷口のように口を開けていた。
エヴァンは軽く跳躍して縫い針状の黒曜石の突起に足をかけ、慎重に降りていく。背後には魔力の揺らぎを最小限に抑えたセシリアの足音。彼女は無言で、だが確かな意志で後を追っていた。
裂け目の底には、光が届かないはずだった。
けれど、その闇は視えた。
「……これは……記憶?」
洞窟の壁面――否、裂け目の内壁に、光の繊維が編み込まれていた。
まるで誰かの記憶が糸として紡がれ、織物のように縫いとめられているのだ。
記憶の織物。
そこには、言語の断片や、映像の一瞬、感情のさざめきが渦巻いていた。
だが――何かが欠けていた。
「文脈が……ない。これは、語られないまま放置された記憶の断片だわ」
セシリアがその織物に触れた瞬間、一陣の風が吹き抜けた。
その風に乗って、声が流れ込む。
『……我らは、語ることを忘れた……語れば、真実が形を持つからだ……』
エヴァンは手を剣から離し、素手で黒曜の壁に触れた。
その瞬間、壁面の一部が液体のように軟化し、門が開いた。
「行こう、セシリア。この奥に織り手がいる」
「ええ――でも気をつけて。ここでは、言葉がそのまま力になる。逆に、語れないものには形がない……私たちが自身の物語を失えば、存在すら不確かになるわ」
セシリアの忠告を胸に刻み、ふたりは門をくぐる。
そこは、空間という概念すらあいまいな、ねじれた異界だった。
重力が揺らぎ、音は反響せず、存在の輪郭が溶けるような場所。
その中心に、それはいた。
神語の織り手――喪われた時代の語り部にして、語られることを拒絶した記録の支配者。
その姿は、織機そのものだった。
黒曜石の骨組みで構成された蜘蛛のような構造体。その内部には無数の記憶の糸が張り巡らされ、脈動しながら語られぬ歴史を紡いでいた。
『問いかける者たちよ。汝らは語るか、あるいは沈黙を選ぶか』
織り手が音なき声で問いを投げかける。
それは試練でもあり、罠でもあった。
エヴァンが一歩踏み出し、語る。
「俺たちは語るためにここに来た。沈黙に埋もれた記憶を、真実として引き上げるために」
セシリアがその後に続く。
「あなたが守っているものは、忘却された者たちの声。私たちはそれを奪いには来ない。けれど、記すべき名は知りたい――語られるべき、まだ終わっていない物語を」
しばしの静寂。
織り手の織機がわずかに軋むと、無数の記憶の糸が空中に舞い上がる。
『ならば語れ、汝ら自身の物語を。それが記録に値するかを、我が神語の糸で紡ごう』
《試練の語り》が始まった。
糸が舞っていた。
無数の光の繊維が空中に浮かび、絡み、もつれ、時に解けていく。
それはまるで、語りという行為そのものの可視化だった。
神語の織り手が問いかける。
『語られぬ者に、存在の意味はない。語ってみよ。おまえたち自身が、物語に値する者であるのかを』
その言葉とともに、巨大な織機の中心から二本の糸が伸びた。
それぞれ、エヴァンとセシリアの胸元へと接続される。
これは試練。語る者の記憶を、布に編み込む審判の儀式。
語りに嘘があれば糸は切れ、記憶が不完全ならば、糸は絡まる。
エヴァンが一歩、織機の前へ。
「俺の名は、エヴァン・クロスフィールド。剣を手にし、何度も斃れそうになった。だが、振り返れば、いつも傍に彼女がいた」
言葉とともに、彼の背後に幻影が浮かび上がる。
かつての戦場、古塔、語りの遺跡、そして封印の大地。
語られた記憶は布に織り込まれ、その中に確かな足跡を刻みつける。
「俺の旅はまだ終わっていない。けれど――過去を、仲間を、そして彼女との約束を、俺は決して忘れない」
織機が低く軋む音を鳴らし、糸がさらに太くなる。
織り手はしばし沈黙し、それを見つめていた。
続いて、セシリアが前に出る。
その足取りは静かで、けれどどこまでも凛としていた。
「セシリア・ヴァレンタイン。王立魔導局所属、大魔導士。かつて私は魔導を記録する者だった。けれどいまは、記録の意味を知る者として、ここに立っている」
空間がひび割れたように見えた。
彼女の語りは思考そのものを紡ぎ出し、文字のように空間を満たしていく。
「記録とは、過去を封じる檻ではない。未来へと手渡す灯火。だから私は書き続ける。名を、出来事を、彼の言葉も、全部――」
二人の語りが交錯し、黒曜の糸が輝きながら収束していく。
そしてついに、織り手が静かに告げた。
『――受理された。おまえたちは、記録に値する者たちだ』
その瞬間、織機の中心から一本の糸が伸び、空間に浮かび上がる。
《記録断章:語られざる終焉》
それは、失われていた最後の記憶の糸。
黒曜の縫い目が封じていた、最深部の記録だった。
だが。
その瞬間、地の底からもうひとつの声が響いた。
『……だがな、それはまだ完全ではない。語られなかったのではない。――語れなかったのだ』
空間が崩れはじめる。
沈黙の大地がその本性を現す。
「来るぞ……!」
エヴァンが魔剣を抜いた。
そして、その闇の中から現れたのは――
その姿は、墨をぶちまけたような漆黒の影。
言語を持たず、記録を拒絶し、存在を記させない呪いの存在。
記録ができぬ者。それは、世界にとって最も恐るべき異端。
セシリアが目を見開く。
「これは……記録の拒絶因子!? 存在を文字にできない!? 名前を――与えられない……!」
その影は、すべてを飲み込みながらこちらに迫ってきた。
「構うな、名がなくても――目の前にあるなら、斬れる!」
エヴァンが魔剣を構える。
セシリアが魔導陣を展開する。
記録に抗う者と記録を拒む者の最後の戦いが、いま幕を開ける。
黒曜石の地表に刻まれた裂け目――それはこの地の記憶そのものであり、封じられた真実の断面だった。縫い合わされたような亀裂から、なおも黒煙が漏れ続ける中、エヴァンとセシリアは対峙していた。そこに立ちはだかる記録を拒む者、その姿は定まらぬ影。見る者にとって最も忘れたい自己の一面として顕現する存在である。
「――記すことで、痛みが増すこともある」
それは静かに語る。だがその声は、遠い昔の誰かの嘆きにも似ていた。
セシリアは前へ出る。「だとしても、記さねば、繰り返すだけよ。私たちが踏みしめてきた地が、無かったことにされていいはずがない」
「残すことが正しいとは限らぬ」と影は囁く。「書かれた言葉は、やがて固定され、やがて呪いとなる……お前たちも知っているはずだ、記録が誰かを縛るのを」
だが、エヴァンは迷わなかった。
「それでも俺は、記す。剣で。生き様で。誰かの記憶に残るなら、それでいい」
影は嗤った。無数の手が地面から生まれ、空間を割って襲いかかる。黒曜石の針のような砕片が空を裂き、彼らを包囲するように降り注いだ。
エヴァンは剣を抜いた。《煌断》の一閃が空気を裂くと、黒の触手を薙ぎ払う。その斬撃には、記憶の重さが宿っていた――この地で感じた死者たちの声、踏みしめた土の冷たさ、仲間と交わした誓いの全てが剣に宿る。
一方、セシリアの手には封呪の札と魔導書が現れていた。彼女の詠唱はこの地に刻まれた忘却を逆撫でし、術式として強制的に記録を浮上させる。
「《想記結界・双環陣》――この地に記憶を解き放つ!」
魔法陣が閃光を放ち、地面に刻まれた黒の縫い目がゆっくりと浮かび上がる。そこに眠る、かつての住人たちの声――忘れられた生活と祈りの断片が、セシリアの詠唱に呼応するかのように空に舞い上がった。
「お前たちは、なぜそこまで記そうとするのか……?」
影は苦しげに問いかける。
「記録とは、呪いでもあるが――希望でもある」とセシリアが答える。「私たちは、忘れたくないだけじゃない。誰かに、伝えたいんだ」
影が悲鳴のような声を上げた。その中心にある核が露わになりつつあった――それは、あるひとりの古き記録官の面影だった。
エヴァンは剣を構え直した。「……あんたも、誰かだったんだろう。なら、ここで終わりにしよう」
そして――決着の一閃が、静かに地を駆けた。
黒煙と砂塵が渦巻く中、エヴァンとセシリアは背中を合わせて立っていた。彼らの足元には、幾重にも縫い合わされたような地割れ――黒曜の縫い目が広がり、そこから湧き出す影が、なおも彼らを蝕まんとしていた。
その影――《記録を拒む者》は、かつてこの地で記録官だった者の変質した姿。その正体は、言葉にすることを拒まれ、記憶されることすら放棄された存在の残滓だった。
「俺たちは、お前の敵じゃない」エヴァンが叫ぶ。「だが、忘れさせないことこそが、この地に報いる術だと信じてる」
返答はなかった。ただ、影が咆哮し、周囲の空間が捻れる。記憶の断片――かつての都市の映像が幻のように現れ、セシリアたちを包む。
老いた司祭の呻き。
燃える塔の悲鳴。
泣き叫ぶ子供の顔――それは、セシリアの夢に幾度も現れた少女だった。
「……私は、見たの。あの子の声を。夢の中で、何度も助けを求めてた」
セシリアが杖を地に突く。魔力が奔り、次元の揺らぎを正すように術式が展開される。
「《顕記式・記録照応展開》――あなたの記憶、わたしが引き受ける!」
記録を拒んできた者の魂が震えた。
次の瞬間、影の身体から炎のような記録断片が噴き出し、具象化していく。
焼け落ちる図書塔。
反乱の叫び。
記録を守るために命を捧げた者たち――
エヴァンが一歩を踏み出す。背負ったのは無数の忘れられた命。
「――刻む。俺のこの一刀で」
黒曜の大地が音を立てて割れる。影の身体の奥、核たる名もなき記録官の面影が露出する。
だがそこに辿り着くまで、空間すら敵となる。
影が叫ぶ。
「忘れろ――全てを! ここで終われ!」
周囲に展開されるのは忘却領域。自分が何者で、何のために戦っているかすら霧に呑まれてゆく。
だが――
「セシリア!」
「わかってる!」
彼女の詠唱が空間を貫く。
「《封記陣・改式:想念標鎖》――あなたの名前を、ここに刻む!」
術式が記録官の魂を縛り、忘却の霧を裂いた。
その瞬間、エヴァンは踏み込んだ。
黒い空気が肌を裂き、記憶の重圧が膝を砕く。
それでも一歩、また一歩――
「……この一撃は、俺自身の記録だ! 《煌断・第二式:残影斬》!」
時を超え、記憶のすべてを断ち切るかのような一刀が振り抜かれた。
それは、影の核心――否、かつての誰かの名前を裂くのではなく、記すための一閃。
影が砕ける刹那、その中から老いた記録官の姿が現れ、ふと微笑む。
「……記してくれるのか。私の……罪をも」
エヴァンは頷いた。「名前は失われても、その想いは書き残す」
そして――《記録を拒む者》は、静かに崩れ去った。
セシリアが深く息をついた。「これで、この地も……」
空を覆っていた黒い雲が、ゆっくりと晴れていく。
そして、黒曜の縫い目は、まるでそれを見届けるかのように、音もなく閉じられていった。
王都フェル=グレイ。
その中心にある《王立記録局》――魔導と記録の学術機関であり、全王国の記憶の保管所。
石造りの巨大な記録局塔の最上階、《封記官室》。
夕暮れを受けて、厚い窓ガラスの向こうに紅い陽が沈もうとしている。
エヴァン・クロスフィールドは、整然と並んだ魔導書の棚を背に、机上の報告書に目を通していた。隣では、セシリア・ヴァレンタインが羽ペンを走らせ、魔法式による印記処理を行っている。
二人の前には、封記局長レヴィオスが佇んでいた。魔力制御の刻印が刻まれた黒衣に、銀糸で編まれた紋章が光る。
「……記録、確かに受理した。君たちの働きによって、《沈黙する大地》で起こった記録拒絶現象は鎮静され、未記録領域も安定へと向かっている」
レヴィオスは老眼鏡を外すと、しばし黙して二人を見つめた。
「君たちが、記すことを諦めなかったおかげだ」
「……あの者の記録は、最初から罪の重さを受け入れたかったのかもしれません」セシリアはそっと答える。「私たちはその声を聞きに行っただけ。拒まれた記憶を、ただ名前に戻しただけです」
「それができる者など、数えるほどしかいない。よくやった」
レヴィオスは手を一振りすると、記録結晶が封印されていく。
同時に、部屋の空気が少しだけ軽くなる。任務の完了の証だった。
エヴァンは肩の力を抜き、ソファに深く座り込んだ。
「ふう……やれやれ、ようやく少しは休めるってもんか」
「……休む? あなたってば、またギルドから依頼受けてるくせに」
「ばれてたか」
二人は顔を見合わせ、ふっと笑った。
その笑みの奥には、決して言葉にならない疲労と、記録を背負う覚悟が宿っていた。
しばしの静寂。
窓の外、沈みゆく夕日が王都を橙色に染めていく。
「セシリア」
「何?」
「この先も、忘れ去られた記録はたくさんあるんだろうな。俺たちは――それを掘り起こしていけると思うか?」
彼女は少し考え、柔らかく答えた。
「……記録っていうのは、忘れられそうになった記憶が、自分で叫び始めるときに始まるのよ。だから、きっと、どこにでもある」
そして、彼女はそっと微笑んだ。
「だから、探しに行きましょう。また次の記録を――私たちの手で」
次なる冒険の予感が、沈黙の中で灯る。
――そして、探索記録は第七へと進む。




