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第十四話

 その日、王都フェル=グレイの南区で、

 一人の少女が倒れているのが見つかった。


 年の頃は十歳前後。

 身なりは貧しく、話しかけても返事はない。

 だが目は開いており、焦点も合っていた。

 ただ――彼女は、一切の言葉を口にしなかった。


 調査の結果、魔導的な異常は確認されず、

 病気も外傷も見られなかった。


 ただひとつ、明確な欠落があった。


 彼女の名前が、あらゆる記録から消えていた。


 住民登録、診療記録、王都入境帳、果ては町で話していた人々の記憶にすら、

 彼女の名が存在しなかった。


 あたかも最初から、彼女が名前を持って生まれなかったかのように。


 だが、その名を記録しようとした瞬間――

 書きかけの文字が滲み、紙が焼け、

 話そうとした者の舌がその音を発せずに飲み込んでしまう。


 王立記録局は即座に、ナイレイン関連症状と判断した。


 > 《対象:無名症例・仮称「少女A」》

 > 《症状:固有名詞の拒絶/伝達不能/記録不能》

 > 《観測:周囲人物への記憶稀釈の兆候あり》

 > 《対応:特別記述官セシリア・ヴァレンタイン、剣士エヴァン・クロスフィールドによる調査を要請》


 その日の夕刻。

 セシリアは、記録局の奥で、少女Aの仮設療養室を訪れていた。


 少女は、ベッドの上で黙っていた。

 窓の外を見ているわけでもなく、眠っているわけでもなく――

 ただ、ここにいるという気配だけが、そこにあった。


「……名を与えられなかった者、ね」

 セシリアは手帳を閉じる。

「でも、それでもここにいる。語られなかったものが、語られる日を待ってるみたいに」


「名を呼べないなら、どう呼ぶ?」


 後ろから声がした。エヴァンだった。


「おいとか、きみとか、そっちの人って?」


「違うわ。そうじゃない」

 セシリアは静かに少女に近づく。

 そして、彼女の手を取って、柔らかく言う。


「あなたが、あなた自身に向かって――わたしと呼べるようになるまで、私が語るわ」


 エヴァンが目を細めた。


「また難儀な仕事だな」


「ええ。でも、これはきっと――名を呼ぶことよりも、名を思い出す物語になる」


 その瞬間、少女の目が、わずかに動いた。


 それはまるで、

 自分が誰かを、知っていた気がすると訴えているようだった。



 セシリアは静かに術式を重ねていた。

 床に展開された魔法陣は、現実と夢の狭間――夢界媒質層と接続されている。


 少女Aは、施術用の椅子で浅く眠っていた。

 意識は薄く沈み、呼吸は浅い。

 だが確かに、彼女自身の夢が形を成しつつあった。


 セシリアは深く息を吸い、静かに目を閉じる。


「――夢へ、降りるわ」


 意識が反転し、

 現実世界の構造が徐々にほどけ、淡く光る夢の海が広がっていく。


 夢界:少女の夢


 そこは、ひどく単純な風景だった。


 草も木もない、灰色の空間。

 地平線もなく、ただ白い地面と灰色の空が広がっていた。


 だが、ぽつんと残されていた。


 それは一冊の絵本だった。


 セシリアが手に取る。

 表紙には、かすれた文字が一文字だけ、かろうじて残っている。


 > 『……ナ』


「ナ?」


 セシリアは夢の中で静かに呟く。


 それは、おそらく――名前の一部だった。


 だが、それだけでは足りない。

 もう少し、もう一歩、少女の記憶の奥に踏み込まねばならない。


 そのとき、夢の風景にひとつだけ、色が現れた。


 赤いスカーフ。


 草も、空も、音もない場所で、

 ひときわ鮮やかに揺れるスカーフだけが、夢に個の存在を告げていた。


 セシリアは思わず、そっと手を伸ばした。


 するとその瞬間、風が吹いた。


 夢の地面が崩れ、白い頁が舞い――

 現れたのは、ひとりの小さな少女だった。


 だがその顔は、記憶のぼやけた輪郭で描かれていた。


 少女はゆっくりと、口を開いた。


「……ナまで、言えたの。でも、それ以上は……ママがいなくなって、言えなくなった」


 セシリアは膝を折り、視線を合わせる。


「ナの続きは、覚えてる?」


 少女は小さく、首を振った。


「でも――呼ばれてたとき、うれしかった。あったかかった。何かを守ってくれる言葉だった」


 その声を聞いたとき、セシリアの胸の奥に、音の残響が灯った。


「……ナ、ナ……ナ……リア?」


 その瞬間、少女の目が見開かれた。


 光が走る。

 夢の世界に裂け目ができ、遠くから誰かの呼ぶ声が届いてきた。


 ──「ナリア、こっちよ!」──


 セシリアは確信した。


 この少女の名は――ナリア。

 記録に書かれず、家族に呼ばれたまま、

 夢の中にだけ残された、失われかけた呼び名だった。


 セシリアが目を開くと、そこにいたのは――

 椅子からゆっくりと起き上がる少女だった。


 その口が、小さく動いた。


「……わたし、ナリアって……呼ばれてた……?」


 セシリアは、ただ静かに頷いた。


「ええ。誰かが、そう呼んでくれたのよ。

 それが、あなたをここに連れてきた」



 王都の夕暮れ。

 セシリアとエヴァンは、記録局から旧市街へと向かっていた。


 目的はひとつ。

 夢の中で名を取り戻した少女――ナリアを、

 現実で覚えている人間を探すこと。


 だが、手がかりはあまりに薄かった。


 ナリアの出生記録は抹消。

 育ったとされる孤児院は取り壊され、

 当時の職員も所在不明。

 まるで最初から、この子を知っていた記録すべてが、世界から削除されていた。


 エヴァンが呟く。


「……なんつーか、ここまで綺麗に記録が消えてると、逆に人為的に見えるな」


「ナイレインの干渉が夢界だけじゃなく、現実にも波及してるのよ」

 セシリアは魔導書を閉じた。

「名前を奪うのではなく、名前が存在した記憶ごと削除する……この子の名は、現実世界で語られることを拒絶された名なのかもしれない」


「それでも、俺たちは語っちまった。ナリアって名前を」


「だから今、語られたことに反応する何かが、私たちを見てる」


 そのときだった。


 路地裏の空気が揺れた。


 まるで紙が破れるような音。

 セシリアの魔導結界がひとりでに展開し、空間のひずみを照らし出す。


 そこには、誰かがいた。


 いや、いた痕跡だけがあった。


 舗道の上に、足跡だけが残っている。

 だが、足跡の主の姿が、どこにもない。


「……存在が消されてる?」


 エヴァンが剣を抜く。


「これ、まさか……ナイレインの前触れか」


 突如、空間に浮かぶ言葉の欠片が見えた。

 それは誰かが書こうとして、書きかけたまま消えた文章。


 > 『彼女の名は――ナ……リ……』

 > 『覚えている、はずだった。確かに呼んでいたのに。』

 > 『なのに、今は……誰だ?』


 その筆跡は、ナリアがかつて住んでいた孤児院の記録官のものだった。


「呼んだ記憶だけが残り、名前が消える。つまり、この現象は言葉を定義する力への侵食ね」


 セシリアは空間に手をかざし、

 かろうじて残った名前の痕跡を読み解く。


「……リゼル修道院。西区、旧教会の遺構。そこに、ナリアを育てたひとりの修道女が残ってる可能性があるわ」


 リゼル修道院跡、夜。

 

 その場所は、既に神聖さを失っていた。

 崩れた回廊、もはや鳴らぬ鐘、

 そして祭壇の前に、ひとりの老女が膝を抱えていた。


「……あなた方が、あの子の名を……?」


 セシリアは頷いた。


「ナリア。あの子は、夢の中でその名を思い出した。けれど、あなたは――現実の中で、それを呼べますか?」


 老女は、震えながら唇を動かす。

 だが――声にならなかった。


 口はナの形を作っている。

 けれどその先が、どうしても出てこない。


「……私たちは、あの子の名を……呼ばないように教えられたのです。あれは……語ってはならない、呪いの名だと」


「誰に?」


 老女は答えない。

 ただ、視線を上に向け、震える指で天井の模様を指した。


 そこには、古い封印文式が刻まれていた。


 記述による封殺。

 ある名を語らせないため、宗教的な力で、存在ごと言葉から削る術式。


 セシリアは見上げたまま、呟いた。


「ナリアの名は、何かを封じる器にされたのね。名を呼ぶことで、封印が壊れるから……語ることすら、禁じられた」


 風が吹いた。

 老女がふと、目を閉じる。


「……でも、それでも……私は、あの子を呼びたかった。名を呼ばずして、誰かを愛せると思っていた私たちは――愚かだった」


 次の瞬間。


 天井の封印文字が、ひとつだけ砕けた。


 セシリアが手帳に書いた、たった一行が、その呪いを解いたのだ。


 > 『ナリアは、誰かのために生きていた。名を呼ばれ、名を返すために』


 その夜、セシリアは静かに報告書を閉じた。

 そこにはこう書かれていた。


 > 《記録回復対象:ナリア》

 > 《封印解除:旧リゼル修道院 記述封殺式 第七文型》

 > 《名の再構築に成功。記憶回復の可能性確認》

 > 《だがなぜその名が封じられたかは――まだ語られていない。》



 王都フェル=グレイ、王立記録局・封印文書室。


 セシリアは、薄暗い螺旋階段の先にある石室にいた。

 手には、旧リゼル修道院から持ち帰った封殺式文型の断片写し。


 刻まれていたのは、《名による封印》と呼ばれる古代記述術。


 > 『存在そのものが言葉として結晶した時、

 >  それは語られるたびに影響を及ぼす』

 > 『ゆえに、ある種の名は封じねばならない』

 > 『その名を持つ者が生まれ落ちれば、語られし力が再び芽吹く』


 その名が「ナリア」だった。

 ――それはただの少女の名ではない。

 むしろ、かつて語られなかった神話の残響――ナイレインの開口部だったのだ。


 エヴァンが隣で言った。


「つまり……ナリアって名そのものが、ナイレインの力を封じる器だったってことか?」


 セシリアは頷く。


「名は本来、個を識別する記号。でも神話においては、世界に干渉する形式になりうる。この子の名は、かつて語られなかった神――ナイレインを沈黙させるために生み出された、言葉による封印の鍵だったのよ」


「……それを、俺たちが呼び戻しちまった」


「そう。ナリアという名を救ったつもりが、世界が沈黙させた神の声を、もう一度開かせてしまったの」


 そのとき、記録局の窓が震えた。


 現実世界の空間に――言葉にならない音が滲み始めていた。


 人々の会話が、途中で止まる。

 看板の文字が滲む。

 本の題名が白紙に戻っていく。


 それは、名を得たはずのナリアの周囲から広がっていた。


 エヴァンが立ち上がる。


「ナリアを封印に使ったってことは、あの子の中に、まだナイレインの記憶が残ってるってことか」


「ええ。けれど問題はそこじゃない。あの子はまだ自分の全部の名前を思い出していない」


「全部?」


「ナリアという名には、語られたことのない裏の音がある。たとえば――ナリア・□(ナリア・リー? ナリア・レン? ナリア・……)その後半にこそ、ナイレインとの接点があるの」


 セシリアは術式封印の中にあった禁句の一文を読む。


 > 『ナリア・■■■――

 >  この名を完全に呼び切った時、語られぬものが帰還する』


 一方そのころ、ナリアは記録局の静養室で夢を見ていた。


 それはどこまでも白い夢。

 だが、今までとは違う。


 風がある。光もある。誰かの手の感触もある。


 そして、夢の中心に、もうひとりの自分が立っていた。


 顔は似ていた。

 けれど、その瞳には、自分にはない静寂の深さがあった。


 そのもうひとりの少女が、こう言った。


「あなたが、ナリアなんだね。じゃあ、私は――ナリアの続きを語る存在」


 セシリアの推測は当たっていた。

 ナリアという名は、まだ半分だけしか呼ばれていなかった。


 もう半分の名。

 それこそが、ナイレインの記録が宿った――封じられた語りの名だった。



 王都フェル=グレイ、記録局地下の《沈黙の書架》。


 セシリアは頁のない書物を前にしていた。


 書かれることなく封じられた、ひとつの名前。

 それは今、再び記されようとしていた。


 > 『ナリア・……』


 続くべきは何か。

 その先の名こそが、ナイレインを再び喚び起こす鍵の名――


 エヴァンは腕を組み、黙って見守っていた。

 だがその目は、どこまでもまっすぐにセシリアの手元を見つめていた。


「……あの子は、もう夢の中で名を最後まで知っている自分と出会っている。つまり、あと少しで自分の名を完全に言える」


 セシリアの言葉に、空気が揺れた。


 ――ナリアは静養室のベッドで、呼吸を荒くしていた。

 その身体の周囲に、淡く黒い語られぬものが滲み出している。


 それはナイレインの触手ではない。

 名前の末尾が生み出す、未記述の残響だった。


 夢の中。

 ナリアはもうひとりの自分と対峙していた。


 そのナリアは、こう名乗った。


「私は《ナリア・イヴ》。語られなかった神の書記、ナイレインの言葉を継ぐ者。私は、あなたの中に封じられた語りの終わり」


 現実では誰もが名前を得て物語を始める。


 だがナリアは――名前を与えられることで、物語の終わりを開く器として作られた。


「私を呼び切れば、ナイレインの記録が解かれる。言葉にならなかった神の声が、世界を再び書き換えに来る。それでも、あなたは名を名乗るの?」


 ナリアは目を伏せた。

 その小さな手が、揺れている。


 でも、言った。


「……名を持たずに生きるより、名を持って、自分を知ることの方が、こわくない」


 現実世界では。

 セシリアが、静かに筆を走らせる。


 > 『我、ここに記す。

 >  この子の名は――ナリア・イヴ。

 >  かつて語られなかった神の名を受け継ぎ、

 >  今、語られることを選んだ存在である。』


 その瞬間、世界に音が返ってきた。


 街の鐘が鳴る。

 誰かが誰かを呼ぶ声が、路地から響く。

 書物の文字が戻り、人々の会話が意味を取り戻す。


 そして――ナリアの体から、影が抜けた。


 それは黒い鳥の形をしていた。

 神の言葉が物理となったもの。

 ナイレインの核のかけら。


 エヴァンが、剣を構える。


「名を救って、神を解き放つ。……因果がめちゃくちゃだな」


「ええ。でもこれは、名前が持つ真の意味を問う物語。ただの呪いじゃない。語り直す責任なのよ」


 セシリアが術式を展開する。


 白紙の頁を裂き、黒の鳥に向けて――記す。


 > 『これは記録ではない。告白である。

 >  あなたを語らずにいたことへの、謝罪と再定義。』

 > 『あなたの名前は、もう封印ではない。』

 > 『あなたは、語られたことを知る者として、ここに還元される。』


 光が走る。

 黒い鳥が叫び、形を崩し、

 やがて一行の文章となって、セシリアの手帳に残った。


 > 『神の名も、語られることで世界と和解する。』


 その夜。

 ナリアは自分の名前を、初めて声に出して言った。


「わたしは、ナリア・イヴ」


 それは、誰かが記した物語の登場人物ではない。

 彼女自身が、自分に与えた名だった。



 夜が明ける頃、王都フェル=グレイは少しだけ静かだった。


 空には朝靄が残り、屋根の上に止まった鳥たちがまだ名前を思い出せないように黙っていた。

 だが、街の片隅には、ひとつだけ確かな名が灯っていた。


 ナリア・イヴ。


 その名は、かつて封印だった。

 語られることで災厄を呼ぶ鍵の名だった。


 だが今、その名は語るために、そして生きるためにある。


 セシリアとエヴァンは、記録局の屋上で朝陽を眺めていた。


「……彼女は、どうすると思う?」

 エヴァンが言った。

「このまま王都に残って、また名前を隠して生きるか?」


「いいえ」

 セシリアは微笑む。

「たぶん、彼女はまた旅に出るわ。誰かの名を救う旅。自分がそうしてもらったようにって」


「そっか。あの子も語り手になるってわけだな」


 セシリアは風にそっと手帳をめくり、白紙のページを一枚ちぎった。


「私は記録するけれど、書きすぎない。この子の物語は、名前を取り戻したその先からが本当の始まりだから」


 その白紙の一枚に、たった一行だけ。


 > 『彼女の名は、ナリア・イヴ。

 >  それ以上の説明は、彼女自身が語っていくだろう。』


 風がページをさらっていく。

 名前のない鳥たちが、その白紙を追って飛び立つようだった。


 その頃、ナリアは王都の小さな路地に立っていた。


 手には、自分で買った新品のノート。

 表紙にはまだ何も書かれていない。

 けれど、その余白はきっと――誰かを呼ぶ名前で満たされていくだろう。


 彼女は空を見上げて、はっきりとした声で言った。


「わたしは、ナリア・イヴ。名を呼ぶ旅に出る」


 それは、何の奇跡でもなかった。

 ただ、ひとつの名が確かにそこに在ったという事実。


 だからこそ――


 語られなかった神話の続きを、彼女は今、自分の言葉で書き始める。

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