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第十二話

 世界の北縁には、地図にも記されない空白がある。


 それは風雪に覆われた無名の大地。

 天は静かに、地は白く、ただただ沈黙だけが広がる領域。

 記録者たちはそこを《ノーテス・アルバ》――白き未記述と呼んだ。


 剣士と魔導士は、いま、その雪の境界に立っていた。

「……ここが、その場所か」


 エヴァン・クロスフィールドが、白銀の雪に足を踏み入れる。

 冷たさはある。けれどその感覚すら、記憶に残らない奇妙な感触だった。

 

「魔力の流れが断絶してる……」セシリア・ヴァレンタインが指先をすぼめる。「術式の発動構文が、完成した瞬間に崩壊する。ここ、言語が保持できない空間だわ。このままだと、魔法は……いや、記録そのものが機能しない」

 

「じゃあ、俺たちが見たものも……」

 

「残らない。話したことも、刻んだ文字も、世界の側が拒絶する」


 ふたりの背後で、ギルド支給の記録装置が静かに停止する。

 紙に残されたはずの文字が、雪に溶けるように消えていった。


「じゃあ、俺たちはここで、何を確かめに来たんだ?」


 エヴァンの問いに、セシリアは短く答えた。

 

「記されなかった者たちが、ここに眠ってる。かつて、書き残されることすら許されなかった、物語の層――断章の亡霊たち」


 風が止む。

 吹雪の先に、黒く割れた石碑のような建造物が、雪の中から姿を現した。


 そこに、ひとつの名前が刻まれていた。


 ──ここに、名前を失った王がいる


 彼らの次の旅は、「記録からも外された者」との出会い。


 存在があやふやなまま、

 語られることを待ち続けていた物語を救う、真に名づける旅が始まる。



 石碑は風雪の丘に半ば埋もれていた。


 その表面に刻まれていたはずの文字は、

 まるで初めから存在しなかったかのように、滑らかに風化していた。

 だが、確かにそこには――何かが語られた痕跡があった。

 

「これは……封じられた名前」


 セシリアは手袋を外し、石碑にそっと手を触れる。

 その瞬間、指先に軽い痺れのような感覚が走った。

 

「記録されることを拒んだ力……? いや、違う。

 これ、誰かが記録を捨てた痕跡だわ」

 

「……自分から?」


 エヴァンは石碑のまわりに踏み込む。

 雪は静かに沈み込み、彼の足跡だけが残る――それも一瞬の間だけ。

 振り返ると、すでに足跡は風に消されていた。

 

「このあたり一帯、全部そうだ。書き残すことができない。歩いたことさえ、足元の雪が忘れていく」


「この場所……記録を忘却する地層ね」

 セシリアは小さく呟く。

「魔導理論でいえば、観測耐性ゼロの情報断層。それにしても、こんな広範囲……」


 ふたりの背後で、かすかに空気が震えた。


 風に乗って、誰かの声が聞こえる。


 ──「……我が名を呼ぶなかれ……」


 エヴァンが反射的に剣の柄に手をかけた。

 だが、そこには誰もいない。

 

「……音が、石碑から戻ってきてる」

 セシリアが言う。

「反響じゃない。これ、名前を呼ぼうとした者の記憶が残ってる」

 

「誰が?」


「……わたしたちかも。あるいは、過去のわたしたちが」


 石碑の奥に、半壊した石造りの広間が見えた。


 かつて、王が戴冠式を行ったという無名の王宮――

 だがこの王は、歴史に一切記されていない。

 詩にも書かれず、年表にも刻まれず、存在すら忘れられた空白の王。


 だが、広間に入ったふたりの前に、ある形が残されていた。


 それは、玉座の背後に立つ、ひとつの人影――

 否、人影だった空間が、そこだけくり抜かれたようにぽっかりと空いていた。

 

「なにこれ……空間が削れてる?」


 セシリアの声に応えるように、空洞の中から、

 またも声が漏れた。


 ──「名とは、縛鎖くさりである」

 ──「我が名を知らぬ者よ。ならば、おまえの名も残させぬ」


 その瞬間、

 エヴァンの視界から――セシリアの名前がふっと消えた。

 

「……っ! おい、今お前、何て言った!?」

 

「え……? エヴァン、何よ?」

 

「……いや、なんでも……」


 だが確かに、その一瞬、彼は彼女の名前を思い出せなかった。

 ただの仲間、ただの女――そういうぼやけた認識になりかけていた。


 セシリアは、気づく。

「この空間、名前を呼ぶたびに、呼んだ側から名の痕跡を奪うのね。私たちの記憶の記述そのものを少しずつ削ってる……」

 

「ってことは、長居したら――」

 

「名前を持っていたことも、記録されたことも、全部なかったことになる」


 その時だった。


 空間の中央に、光る一行の文字が、古代文で浮かび上がる。


 > 『忘れられた王は、記されぬ名を守るため、すべてを閉じた』

 > 『名なき者が王となる時、すべての記録は開かれる』


 セシリアは呟いた。

「名を持たない者だけが、この王の真実に辿り着ける……?」


 エヴァンが剣の柄を握り直す。


「じゃあ次の試練は、自分の名前を忘れてでも進むってことか」


 ふたりは見つめ合った。


 名を忘れれば、互いを見失うかもしれない。

 だが、それでも進まねばならない。


 次なる遺構の扉には、こう記されていた。


 > 『名を捨てよ、されど歩め』

 > 『その先に、最初に記されなかった物語が待っている』

 


 名を捨てよ――


 その言葉が扉を開いたとき、

 世界がひとつ分だけ沈んだ。


 セシリアはその感覚を、自分の輪郭が薄くなるような感触と語る。

 

「……名前を口に出すだけで、自分の存在が削がれていく。この先、言葉によって己を語ることができなくなるわ」

 

「じゃあ、言葉の代わりに――目で覚えよう」

 エヴァンが言う。

「お前の立ち姿も、髪の癖も、術式を構えるときの癖も。全部、俺の中に刻み込んで進む。それでいいな」


 セシリアは笑わずに頷いた。

 

「ええ。それしかない」


 二人は、扉を越える。


 その瞬間、世界から名を呼ぶという行為が失われた。


 言葉は出せる。声も出る。

 だが、名詞が消えた。


 自分の名前。

 相手の名前。

 場所の名前。物の名前――一切の固有の音が、頭から滑り落ちていく。


「……っ……く……っ」

 エヴァンが唸る。

 だがエヴァンという名が、喉まで来て、崩れる。


 セシリアもまた、自分の名が浮かばないまま、術式を編む。

 だが魔術は名前に応じて動くため、術式構文が空白の座標として震え始めた。


 それでも進む。


 ふたりは互いの動きと視線を頼りに、

 言葉を使わずに連携をとった。 


 広間はまるで記憶の抜け殻のような空間だった。

 壁に描かれた壁画には、顔があるのに名前がない。

 碑文の文字列はすべて空欄。

 天井からは話しかけられたことのない言葉が雨のように降っている。


 そして、奥。


 名を捨てた先に現れたのは、

 形を持たぬ敵だった。


 それは、空気のような影だった。


 音もなく、姿も定かでなく、

 だがふたりに近づくたびに、

 彼らの記憶から、何かを一つずつ剥ぎ取っていった。


 エヴァンは、自分が剣を振るうときに叫ぶ言葉を――

 セシリアは、自分の魔法の名乗り口上を――


 忘れていた。


 だが、ふたりはそれでも動いた。


 剣は振るえる。

 魔法も撃てる。

 ただ、そこに名を与えられないだけだ。


 エヴァンは名のない剣を、

 セシリアは無銘の術式を、

 互いの直感と記憶だけで繋ぎながら、

 形なき影に立ち向かった。


 そして。


 影の核に、セシリアが無音の詠唱を放つ。


 その魔法は言葉を使わず――

 目で、心で、自らを証明するための一撃だった。


 彼女の掌が放つ光が、空間の中で一閃し、

 影が名前を持たぬまま霧散する。


 同時に、セシリアの記憶に微かな名の響きが戻ってきた。

 

「……エヴァ……ン……?」


 その音を聞いて、彼が振り返る。

 

「……やっと、帰ってきたか」


 名が戻る。

 輪郭が戻る。

 ふたりは、ふたたび名を呼び合える世界に帰還した。


 その奥には、もうひとつの碑文があった。


 それには、はっきりと記されていた。


 > 『王の名はまだ記されていない。

 >  だが、名を呼ばれるその日まで、

 >  存在を証明する者を待ち続けている』



 ふたりが辿り着いたのは、石の回廊に囲まれた静かな広間だった。

 吹き抜けの天井から微かな光が差し込んでいたが、明るさはない。

 ただ静かに――祈りのような気配が漂っていた。


 その中心にあったのは、巨大な封印石。

 まるで棺のような形状で、表面にはびっしりと文字が刻まれていた。


 だがその文字は、どれも消された名だった。


 読みかけた瞬間に意味を失い、

 舌に乗せた瞬間に忘れていく。

 名を持たなかった者たちの誓いが、そこに沈黙として刻まれていた。

 

「……これは、王の家臣たちの名跡。でも、誰にも呼ばれないことを条件に、忠誠を誓った……?」


 セシリアの声が、空間の沈黙を揺らす。

 その瞬間――


 声なき声が、棺から響いた。


 ──「……ここは、記録されぬ誓いの地。

 呼ばれぬ名にこそ、真の忠義が宿る」


 ふたりの前に、ひとつ、またひとつと、透明な人影が現れはじめた。


 騎士。

 術師。

 従者。

 文官。

 百の姿、百の立ち姿。だが、名を持たない。


 彼らは声を発さず、ただゆっくりとふたりを取り囲む。


 セシリアが手を止める。


「待って。……これは敵意じゃない。これは、選ばせようとしている視線」


 エヴァンは剣に手をかけたまま、緊張を解かずに訊いた。

 

「選ぶって、何を?」


 透明な家臣たちは、石棺の前へと集まった。


 そして一斉に、視線のような感覚を、セシリアに向けた。


 ──「名を与えよ」


 その言葉が、彼女の内面に直接、響いてきた。


 セシリアの手が震える。


「……名を与える? でも、それって……私たちがこの空間に、記録を持ち込むってこと。この記されざる王国に、名という呪いと力の両方を刻むことになる……」


「つまり、それをやるってことは……」

 

「――王の名を、私たちが決めるってことよ。」


 ふたりの間に、緊張の刃が走った。


 この場で名を与えることは、

 記されなかった者たちの安らぎを破ることかもしれない。


 だがそれは同時に、

 この空間にもう一度、語られる命を授けることでもある。


 セシリアは目を閉じた。


 そして静かに言う。

 

「私は、記録を操る者じゃない。でも――呼ぶことで命を宿すことを、拒む気はないわ」


 彼女の口から、ひとつの名が呼ばれる。

 

「フィルヴェイル」

 それは、書物にも記されていなかった響き。

 けれど、確かに――王たらんとした存在にふさわしい、ひとつきりの呼び声だった。


 その瞬間、石棺が砕けた。


 光と影の中から、白銀の鎧を纏った王が立ち上がる。


 だが、その瞳には、迷いと静寂が混ざっていた。

 

「……お前が、我に名を与えた者か」

 王の声は深かった。

「では、問おう。名とは、我を縛るか。解き放つか」



 玉座の前に立つ王は、

 氷のように静かな声でこう問いかけた。

 

「……我に名を与えた者よ。お前は何者だ?」


 その問いは、名乗りを求めていたわけではなかった。

 名とは何か、

 存在とは誰のものか――

 その問いを、言葉の奥に忍ばせていた。


 セシリアは一歩踏み出し、

 剣を携えたエヴァンがそれに並ぶ。

 

「私は……」

 彼女は一瞬言葉を止め、

 次に続けるときは、迷いを捨てていた。

 

「私は記録されたことに逆らった者。そしていま、あなたに語られることの重さを教えに来た者です」


 王は、玉座の横に立てかけていた槍を取る。


 刃は曇り、古い。

 だがその持ち方には確かに、

 かつて在った王の風格があった。

 

「我は、語られることを拒み、語られなかったことで永遠の静寂を得た。だが、名を得た今、我は再び存在せねばならぬ」 


 その声は、抗いにも似た諦念に染まっていた。

 

「語られた者は、いずれ忘れられる。歴史とは、語る者の都合で書き換えられるもの。我はそれを知っていた。だから、あえて記録から退いた」


 エヴァンが低く呟く。

 

「……だから、お前は無記の王として残った」

 

「否。残ったのではない。沈んだのだ。語られないことを望んだ結果、私は誰の物語にもなれなかった。だが――名を与えられた今、私は再び選ばねばならぬ」


 王の目が、まっすぐにセシリアを射抜いた。

 

「――記録に戻るか、完全に消えるか」


 セシリアは、王の眼差しに目を向けた。

 それは静かで、強く、そして誇り高い瞳だった。

 

「では、私はあなたにもう一つ贈るわ。記録ではなく、選択としての物語を」


 王の眉がわずかに動いた。

 

「……選択、だと?」


 セシリアは、魔術書の最終頁を開いた。

 その頁は、真っ白だった。

 

「記録されることで存在が確定する世界に、私たちは選んだことを書き込んで生きてきた。あなたが語られなかったのは、誰もあなたを選ばなかったから。でも私は、あなたに語られないことを選んだあなたという物語を与えたい」

 

「……語られなかったこと、それ自体が……」

 

「はい。語る価値があると、私は思います」


 沈黙が広がった。


 だがそれは静寂ではなく、

 ひとつの魂が、自らの形を取り戻すための時間だった。


 王は槍を置いた。

 玉座に背を向け、

 かつて自分が封印した棺の残骸を見下ろす。

 

「ならば、我はこの名の下に立とう。フィルヴェイル――語られなかった王として」


 その瞬間、広間の空気が震えた。

 回廊に立っていた無名の家臣たちがひとつ、またひとつとひざまずき、

 かつて果たせなかった忠誠の姿を取り戻していく。


 王は最後に、ふたりへと向き直った。

 

「汝らがこの地に来たのは、偶然か。必然か」


 エヴァンが口元を吊り上げて言う。

 

「さあな。だが、選んだのは確かだ」

 

「ならば、我も選ぼう。この名において、我は汝らに告ぐ。かつて世界を裂き、存在そのものを食らったものが、再び動き始めた」


 セシリアの目が鋭くなる。

 

「それは……語ることすらできない存在?」


 王は頷いた。

 

「その名は存在しない。だが、誰もが忘れていることが証拠になる。星刻よりも古き、記されざる災厄――《ナイレイン》。汝らの旅の先に、それが待っている」


 セシリアは一歩下がり、

 王の前に、魔術書を一冊、そっと差し出した。

 

「これに、あなたの物語を書いて」


 王はそれを受け取り、

 白紙の最初の頁に、たった一文、筆を走らせた。


 > 『私はかつて、名を持たなかった。

  だが名を得て、ようやく語ることができる他者を得た』


 玉座の間に光が差す。

 それは初めてこの地に射し込んだ、名を呼ぶ者の光だった。

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