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第十話

 ヴェル=ミラの奥。

 地図には存在しない領域。

 古代語で「記憶の残響域」と呼ばれた地に、

 アストレイア文書の魔導座標が示す最深層が眠っていた。


 一面に広がる濃霧。

 だがその中には、確かに門があった。


 無数の言語が刻まれた石門。

 誰もが読めぬはずの文字列が、

 二人の目には自然に意味を結ぶ。


 セシリアが呟く。


「これは……語り手にしか読めない言葉」


 エヴァンは剣に手を添えながら問う。


「開くか?」


「ええ。私たちは、もう語る資格を持っているから」


 門が音もなく開いた。


 中には、世界のどの風景とも似ていない空間――

 まるで語る前の世界が、静かに広がっていた。


 最深層への歩み

 足元は紙のような質感。

 だが踏めば音が鳴る。


 空には文字ではない意志の残響が、

 静かに浮かんでいる。


 セシリアの声が震える。


「……この場所。書き始めの場所よ。世界が、語りによって形を得る以前の――最初の言葉が置かれていた場所」


 そこに、

 声が届いた。


「――我ら、語りしものなり」

「語りを始め、語りを終えぬ者なり」


 霧の中から現れたのは――

 六体の半実体存在。


 人でも、神でも、魔でもない。

 だがその声には、

「最初の語り」を始めた者だけが持つ記録の律動があった。


 セシリアとエヴァンは、思わず一歩下がる。

 だが相手は穏やかだった。


「選ばれし語り手たちよ。汝らに問う」


「語るとは、何か」


 セシリアは静かに答える。


「……誰かの存在を、この世界に残すこと。たとえ記録から消えても、誰かの語りの中で、生き続けること」


 エヴァンもまた、剣をゆっくり構えた。


「俺にとっての語りは、斬って、守って、残すこと。だから剣で語る。それだけだ」


 六体の語り手が、声を重ねた。


「ならば証明せよ。汝らの語りが、この語りの原初を越えるに足るものかを」


 霧の空間が崩れ、

 語りの審判戦が幕を開ける。



 これは、ただの魔法でも剣でもない。

 語りという行為そのものが、武器であり、裁きであり、救済でもある。

 その一つひとつを越えてこそ、アストレイア文書の真実に至る資格を得る。


 第一の語り手が問うのは、「存在と忘却」。

 語られなければ存在しなかった命の重さ――その根源。


 語りの空間。

 霧が静かに晴れ、そこに現れたのは――

 ひとりの少女の姿をした語りの存在。


 身を包むのは古びた羊皮紙のローブ、

 頭上には文字ではなく空白の環が浮いている。


 その声はかすれていた。だが、確かに響いた。


「私は、語られなかった者たちの代理」

「名を持たず、記録されず、誰の物語にもならなかった命の残響」


 対話の開始。

 セシリアが、静かに一歩進み出た。


「私たちはあなたを否定しに来たのではない。存在しなかったはずの命もまた、語られる価値があると示したいの」


 少女の姿の語り手は、ほんの少しだけ首を傾げる。


「ならば問う。語り手よ。語られなかった命に、なぜ語りを与えるのか。誰にも望まれなかった祈り、見捨てられた声に、なぜ意味を与える?」


 セシリアは、まっすぐにその問いを受け止める。


「それが誰かの物語にならなかったとしても……語られることで、初めてその命が在ったと知ることができるから。語られない限り、世界はなかったことにしてしまう。だから、私は語り続けたい」


 語り手が微かに動いた。


「ならば、証明せよ。汝が語る者であるならば、名もなく消えた者たちの記録を、この場に紡ぎなおしてみせよ――!」


 記憶なき魂たちの奔流。

 次の瞬間、空間が反転。


 霧のなかから、

 無数の顔を持たぬ存在が現れる。


 手も、声も、記憶もない。

 ただ、誰にも語られなかった魂のかたまり。


 セシリアが息を呑む。


「これは……名前のない記録。誰にも覚えられなかった命そのもの!」


 セシリアは高位詠唱を始める。


《補記詠唱・命名のノーミネス・オーブ


 消えかけた魂に、仮の名を与え、

 一時的に語られし存在として呼び戻す魔術。


 一体の影に、名が与えられる。


「……名は、マリエ。幼くして、疫病で消えた少女。語られることなく」


 光が宿り、その魂が安らかに昇天していく。


 セシリアは次々と名を与え、記録を呼び戻していく。

 それはまるで祈りの連続のようだった。


 語り手の少女が呟く。


「……涙を流すのか」


 セシリアは震えながら言った。


「ええ……どれも語られるべき命だった。忘れ去られるには、あまりに……悲しすぎる」


 記録の承認。

 最後の魂が光の粒となって消えたとき、

 語り手の少女は静かに手を合わせた。


「汝の語り、確かに届いた」


「記録を与えられずに消えた者たちが、初めて、名を得て――存在になった」


 そして、少女は微笑んだ。


「私は、もう無ではない。あなたに語られた、一つの語りとなれた」


 少女の姿が消えたあと、

 空中に一文字だけが刻まれた。


「始」


 セシリアはそっと目を閉じ、

 その言葉を心に刻んだ。


「……これが、語りの始まり――」


 ここから、残る五体との対話と戦いが待っている。



 第二の語り手「破綻した未来の語り」


 エヴァンとの存在しない英雄譚にまつわる対話と剣の試練。


 未来に語られるはずだった物語を守りきれなかった語り手。


「完成しなかった英雄譚」、

「誰にも語られず、未完のまま終わった希望」を象徴する存在。


 今回、挑むのは――エヴァン。


 剣と語りの間で、

 霧の空間が再び震え、

 白銀の鎧をまとった長身の戦士が現れた。


 その姿は英雄のそれ。

 だが、腰の剣は半ばで折れ、

 背中には未開封の書が背負われていた。


 声は低く、確信に満ちていた。


「私は、未完の語り。かつて未来に語られるはずだった、数多の理想の物語」


 セシリアが小声で呟く。


「……予言、希望、憧憬、計画……誰かが語られることを信じて生きた物語……でも、決して語られなかった物語」


 語り手は、ゆっくりと剣を構える。

 その刃は途中で砕けていたが、威圧感は濃密だった。


「問う。戦士よ。語られることが約束された物語が、実現しないまま消えたとき――その希望に、意味はあるのか?」


 エヴァンが一歩前に出る。

 背にある剣を抜きながら、答えた。


「あるさ。叶わなかったからって、無意味だったなんて、誰にも言わせない。語られなかった希望も、誰かが抱いた時点で――もう語りの一部なんだよ」


 戦士は静かにうなずく。


「ならば証明せよ。汝の剣が、語り得なかった未来の断章を、真に越えるに足るかを――!」


 空が割れ、

 無数の未完の物語が剣となって降り注ぐ。


「かつて国を救うはずだった王子」

「戦火を止めるはずだった少女」

「誰にも呼ばれなかった勇者の名」


 それらの幻影が、エヴァンの周囲を取り囲んだ。


 だが彼は構えたまま、一歩も退かない。


「――来いよ。どんなに眩しい理想でも、斬って受け止めて、ちゃんと語り直してやるからさ」


 一体、二体と襲いかかる幻影。


 エヴァンはすべてを、

 ただの敵としてではなく――

 物語の断片として受け止めて、斬った。


《語刃・未章剣斬エンドレス・フラグメント


 それは、語られなかった物語に対してだけ有効な、

 語り手の剣。


 斬ることで、未完の語りを終わらせるのではなく――

 閉じるに値する言葉を与える技。


 最後の一振りが、

 戦士の胸元に届く。


 白銀の鎧が砕け、

 中から、どこかエヴァンに似た面差しの青年が現れる。


 微笑みながら、こう言った。


「……ありがとう。お前の語りが、俺を終わらせてくれた」


 彼の姿が風に溶け、

 空中に残ったのは、たった一文字。


「希」


 エヴァンは静かにその文字を見上げた。


「未完の物語は、誰かに語られるまで、ずっと生きてるんだよ」



 第三の語り手「真実と虚偽の境界」。


 語るとは、真実を伝えることなのか。

 嘘や虚構に意味はないのか。

 それとも、たとえ嘘であっても語られることそのものに価値があるのか?


 この問いに立ち向かうのは、セシリア。


 周囲の空気がぐにゃりと歪んだ。


 次に現れた語り手は、はっきりとした輪郭を持たなかった。


 男にも女にも見え、

 子どもにも老人にも見える。


 声もまた、低くも高くもあり――

 ただひとつ確かなのは、定まっていないということだった。


「私は、真実でも虚偽でもない」

「私は、語りの揺らぎ」

「問う。語り手よ」

「語られたことが嘘だったなら――それは存在しなかったことになるのか?」


 セシリアは立ち止まり、息を整える。


「……それは、難しい問いね。けれど――嘘が誰かを生かしたことも、誰かの支えになったこともある。嘘であっても、信じたその記憶が、誰かの人生の一部になるなら――それはもう、語る意味のあるものだわ」


 語り手は微かに笑った。


「ならば見せよう。語られたはずの真実が歪み、嘘のほうが美しいとされた、そんな世界を」


 空間が反転し、

 セシリアの足元に無数の記録の写しが広がった。


 歴史の教科書。

 王国の年表。

 民間伝承。

 魔導学院の研究記録。


 だが、すべてに微細な虚偽が混じっていた。


・偉大な王は、他人の業績を盗んだだけの男だった。

・聖女と呼ばれた者は、実は処刑を逃れた魔女だった。

・伝説の大魔導士の論文は、すべて別人の代筆だった。


 セシリアの周囲に歪められた真実が形をとって襲いかかる。


 セシリアは震える声で呟く。


「……たしかに、これは嘘。でも――それだけじゃない」


 彼女は詠唱を始める。


《真偽交響・選記のディレクティヴ・カンタービレ


 この術式は、嘘と真実の重なりを精査し、

 本当に語るべき核だけを残す選定魔法。


 歪んだ語りが、歌のような魔法で次々に解体されていく。


 彼女は一つひとつの嘘に問いかける。


「あなたは、本当に嘘だったの?。誰かが信じて、それで救われたなら――その記憶は嘘じゃない」


 記録が静かに光を取り戻し、

 歴史が、少しずつ整っていく。


 最後に残った一冊。

 セシリア自身が卒業時に書いた架空の論文。

 少女の頃の妄想に満ちた物語だった。


 セシリアはその一冊を、優しく抱きしめた。


「たとえ妄想でも。誰かがそれを美しいと思ったなら――それも、世界の一部よ」


 語り手が静かに近づく。


 そして、まっすぐにセシリアの目を見て言った。


「汝の語り、確かに届いた」


「嘘は、罪ではない。語りのなかで意味を持ったならば、それは生きる力となる」


 そして、語り手の姿が霞のなかに消える。


 空中に、淡い銀の光で一文字が浮かび上がる。


「想」


 セシリアは目を閉じて呟いた。


「……語りとは、真実の外側にも咲くものなのね」



 これまでの語りは、語られなかったもの、未完のもの、虚偽と真実のあわい――

 そして今、対峙するのはそのどれとも異なる存在。


 それは、「語られることすら許されなかった記録」

 意図的に封じられ、消され、封印された沈黙の語り。


 語りが封印されるとき、そこに宿るのは忘却ではなく、痛みと怒りだ。


 墓標の空間。

 空間が黒く沈む。

 文字も音もない。

 空は灰色、地は煤けたように焦げている。


 そこに立つのは、まるで石碑のような存在。

 顔も、腕も、輪郭すら曖昧な、記録を失った塊。


 だが、その身の内からは確かな叫びが満ちていた。


「我は、語られなかったのではない」

「語ることを、許されなかった」

「世界の都合で、語りは奪われた」

「問う。語り手たちよ――お前たちの語りに、誰かの痛みを載せる覚悟はあるか?」


 セシリアが一歩踏み出しかけるが、それをエヴァンが制す。


「……ここは、俺が行く」


 セシリアが小声で呟く。


「……語れなかった記憶は、剣でしか語れないときもある」


 封じられし語り手は、ゆっくりと語りを放つ。


「私は、反逆者だった。書物に残すことも、碑文に刻むことも許されなかった。誰にも語られぬまま、我が国も、名も、魂も、消された。それでも、私はここにいる」


 エヴァンは剣を肩に担いだまま、低く言う。


「消されたものには、語り直すって選択肢がある。お前が斬ってくれっていうなら、俺の剣でもう一度、世界に存在させてやる」


「ならば――来い。私を、本当に語るに足る存在にできるか――その刃で試せ」


 空間が波打ち、エヴァンの記憶すら曖昧になる。

 目の前にいる敵の姿がぼやける。


 剣を振れば斬れるはず――だが、

 相手が記録されていないため、斬撃が通らない。


 エヴァンは剣を止める。


「……違うな。これは、斬るんじゃない。記すんだ。俺の語りで」


 彼は足元を踏みしめ、剣の先端を地面に立てた。


 静かに、呼吸を合わせる。

 一閃ではない。これは――名付けるための剣舞。


《命名剣舞・一条のコーリング・ネーム


 剣が地をなぞり、風が形を与え、

 闇に沈んだ存在に、かつての名を与える技。


「……お前の名は、ティラ。帝国史から消された将。語られるべきだった忠義の剣」


 暗黒の塊が、一瞬だけ人の姿を取り戻す。


 その顔は、涙を流していた。


「……私は、いたのだな。誰にも語られなかった私が――今、誰かに名前をもらえた」


 ティラの姿は風へ還り、

 空中に一文字が刻まれた。


「証」


 エヴァンは剣を収めたまま言う。


「……語られるってのは、存在の証明だ。忘れてくれとは、言わせないよ」



 第五の語り手。

 ここで対峙するのは、語り手そのものが堕落し、語ることを制御できなくなった存在。


 それは、「語りの暴走」、

 すなわち、記すことそのものが目的化し、

 やがて世界を侵食し始めた【記述の病】。


 語る者が語りに呑まれ、

 記録者が記すために生きるだけの存在となった末路――

 その歪みと対峙する。


 無限の書斎。

 空間が閉じた。

 セシリアとエヴァンの目の前に広がるのは、

 天井も床も壁も書物で埋め尽くされた、果てなき書斎。


 ペンが勝手に走り、

 紙が自ら語りを生み出す。


 そこにいたのは――

 衣も皮膚も、全身が言葉で構成された語り手。


「語り手よ。記す者たちよ。お前たちは語りを用い、存在を定義する」

「だが、問う――語ることに終わりを設ける覚悟はあるか?」

「記録は続く。永遠に。やがて真実を歪め、世界を侵し、語りが生命を喰らうようになるのだ」


 セシリアが、沈黙のまま歩を進めた。


「……それでも、語るわ。私たちが語るのは、終わりなき記録じゃない。終わらせることを含んだ、生きた語りよ」


 言葉の語り手が、ページの嵐を巻き起こした。


「ならば見せよう――語りが際限なく続き、記すことそのものが呪いと化した世界を!」


 空間が悲鳴を上げる。


 あらゆるものに注釈が現れる。

 人の動きに脚注が付き、風にまで脚本が貼り付く。


 それは語られ過ぎた世界。

 記録されること自体が、意味を失っていく風景。


 セシリアは術式を展開。


《詠破・無限語抑制エンド・オブ・ペン


 無秩序に生成される記述を黙らせる禁忌の抑制術。

 記録者としての権限を一時的に停止し、世界に静けさを取り戻す魔法。


 ページが破れ、文字の嵐が止まる。


 だが、語り手は止まらない。


「語りを止めることは、死と同義。それでも、お前は止めるというのか?」


 セシリアは目を閉じ、

 少女時代に記した空想のノートを思い出していた。


 あの頃、言葉にすることだけが、彼女にとっての生だった。


 だからこそ、彼女は答えた。


「語ることが生ならば――語り切って終えることもまた、生きることよ」


 彼女は詠唱する。


《終結詠唱・物語の句点ピリオド・オーソリティ


 無限に綴られる語りに終止符を打つ、

 記述者だけに許された終末詠唱。


 光が文字を包み、

 書物が静かに閉じられていく。


 空間が沈黙し、

 語り手もまた――静かに書を閉じた。


「……ありがとう」

「私たちは、止めることを忘れていた」

「お前の語りに、終わりがあった。だからこそ、美しかった」


 言葉でできた身体が崩れ、

 空に残されたのはただ一文字。


「静」


 セシリアは、深く息を吐いた。


「……書き続けるだけじゃ、命は語れない。だからこそ、止めることも、語りの一部なのよ」


 残るは――

 第六の語り手。最終の語り。



 いよいよ、最後の語り手。

 アストレイア文書の最深層――第六の語り手との対話と対決。


 この存在は他の語り手たちとは根本的に異なる。

 語られなかったのでもなく、

 封じられたのでもなく、

 歪められたのでもなく、

 もはや、語る必要を超えてしまった者。


 それは、語りの限界の先にある沈黙。

 言葉でも記録でもなく、ただ在るという存在のかたち。


 語りの終わりにある、語りを超えた問いが、

 最後に二人に投げかけられる。


 語りの尽きた空間

 空はない。地もない。

 音もなく、色もなく、重力も感触もない。


 そこは、語られたことのない世界ではない。

 もはや語ることを拒絶した空間だった。


 セシリアは足元を見る。だが、そこに足元は存在しない。

 エヴァンは剣を握るが、剣が定義されていない。


 そして、現れたのはただ一つの座。


 無数の物語を象嵌された玉座。

 だが、そこに座る者の姿は、空虚そのもの。


「我は語らぬ者。名もなく、記録もなく、声も持たず――されど存在する」

「お前たちに問う」

「語ることで何を得た? 語ったことで、誰かを救えたか? 語らなければ、苦しみも、生も、必要なかったのではないか?」


 セシリアとエヴァンは、

 言葉を持つことすら躊躇するほどの圧のなかに立っていた。


 だがセシリアは、震える声で答えた。


「語ったことで、傷ついたわ。語ったことで、届かなかったこともあった。それでも――語らずには、生きられなかったの」


 エヴァンも続けた。


「語ることで誰かが死んだとしても、語らなければ、そもそもその誰かはこの世界にすらいなかった。語られたから、いたんだ。いたなら、そこに剣を振るう意味も生まれるんだよ」


 試練なき最終審判。

 座は何も語らない。

 だが空間に――一つの句が浮かぶ。


「語りの果てに残るものとは、何か」


 答えるのは、二人の語り手自身。


 セシリアは静かに目を閉じ、詠唱ではなく――

 自身の声で語った。


「私は語り続けてきた。名前を持たなかった魂に。語られなかった未来に。偽られた歴史に。閉じ込められた沈黙に。そして、自らを語りきれぬ者たちに。だから、語りの果てに残るのは――赦しだと思うの」


 エヴァンは剣を抜き、

 その刃を何もない空にそっと振った。


「語りの果てに残るもんか……そうだな――もう一度、生きてみようと思える瞬間だろ」


 沈黙が続いた。

 空間の奥、王座がかすかに光を帯びる。


 そして、そこにひとつの拍手が響いた。


「――それで、いい」


 声が、王座の中から、確かに届いた。


「お前たちの語りは、生きることそのものだった」


 王座が崩れ、空が色を取り戻す。


 空中に現れたのは、六つ目の文字。


「生」


 セシリアは涙をこらえきれず、

 エヴァンは静かにそれを見守った。


 こうして、語りの六試練はすべて突破された。



 そして待ち受けるはアストレイア文書・本体解放と真の開示、世界そのものの語り直し。


 六人の語り手との対話と戦いを経て、

 セシリアとエヴァンは語りの本質に触れた。


 彼らが示したのは、

 語りとは真実か虚構かという問いを超え、

「存在することそのものを受け止める行為」であるということ。


 そして今――

 語られることを望まなかった者たちも含め、

 世界のあらゆる声に対して語り得る力を得た二人は、

 アストレイア文書・本体の最終頁へと到達する。


 文書の最奥。

 王立魔導図書館、封印層。

 そこに浮かぶアストレイア文書・本体。


 書物の周囲に、六つの光の環が回っている。

 それぞれが語り手たちの遺した言葉。


「始」

「希」

「想」

「証」

「静」

「生」


 すべてが揃ったとき、

 文書の中央がゆっくりと開き始めた。


 セシリアが深く息を吸い、手をかざす。


「いくわ。……これが、語りの核心」


 エヴァンはただ一言、

「ああ」と頷く。


 最終頁の出現。

 書物は一度、すべての頁を自動的にめくり、

 最奥――白紙の一枚をゆっくりと開く。


 だがその頁は、空白ではなかった。

 インクも魔力も用いず、

 意志そのもので綴られた言葉が、確かにあった。


「この世界に、語られる価値のない命など存在しない」

「語りとは、終わるためにあるのではない」

「次の語りへと、手渡すためにある」

「ならば今――お前たちに、この世界の記録の続きを、託す」


 書物が光に包まれ、

 封印された記録が解き放たれていく。


 それは、世界中の語られなかった出来事を解きほぐし、

 忘れられていた声に、再び命を与えていく儀式。


 世界の語り直し。

 大陸の各地で――


 沈黙していた村が、自分たちの歴史を思い出す。

 記録から消えた勇者の名が、碑文に甦る。

 語ることを拒んでいた魔導師が、再び筆を取る。


 王都フェル=グレイ上空。

 魔法陣のような光が空に現れ、

「語り直し」が始まったことを告げる印が灯る。


 そして、アストレイア文書の中心から――

 新たなる第一頁が書き始められる。


 新たなる記述

 セシリアは震える手で、

 文書の新たな冒頭に一文を記す。


「ここに、語りを継ぐ者たちの物語を記す」


「彼らは語りの苦しみも、光も、沈黙も、すべて受け入れた」


「その名は、エヴァンとセシリア」


 エヴァンは、照れ隠しのように笑いながら肩をすくめる。


「……自分の名前が語られるってのは、悪くねぇもんだな」


 セシリアも、静かに笑った。


「私たちは、ただ記しただけ。この語りが、いつか誰かを生かすなら――それが、いちばん嬉しいこと」


 終わり、そして――始まり

 アストレイア文書は、

 その最後の封印を解かれたまま、静かに閉じられる。


 もう封じられることはない。


 これからは、誰もが語ることを選べるようになる。


 書の表紙には、かつて存在しなかった、

 たった一行のタイトルが刻まれていた。


『語られざるものたちの書』


 物語は、終わらない。

 それは、いつだって誰かの語りで続いていくから。



 戦いは終わり、語ることを巡る六つの問いは越えられた。

 けれど、「語り」は今も続いている。

 記録とは剣よりも長く生きるもの。

 声なき者の命に、語る者がいれば――

 そこに新しい命の灯が灯る。


 これは、そんな語りの火を絶やさぬ人々の、静かな物語。



 王都フェル=グレイ、春

 魔導図書館の奥庭に、花が咲いていた。

 淡い色のアザリアと、白銀のカーネーション。

 風がそっと香りを揺らす。


 石造りの噴水の前。

 セシリアは一冊のノートを膝に、静かにペンを走らせていた。


「……アストレイア文書・解放以降の世界状況」

「偽りの語りの減少。断片的記録の再構築。各地での証言者の語り直し……」


 その向かい、ベンチに寝転がっていたエヴァンが欠伸をかみ殺す。


「なあ、なぜ俺まで報告書を書かされるんだ?」


 セシリアは顔を上げずに答える。


「あなたが語られた存在になっちゃったからよ。世間が知りたがってるの、語りの剣士の考え方」


「だからって……俺の剣技を文章化って、どう書くんだよ……バッと行って、ザッと斬るとか?」


 二人の会話に、すれ違う見習い研究官たちが目を細めた。


「あれが、語りを継いだ二人か」

「なんか普通……いや、逆に普通だからすごいのかも」


 正式任命。

 その日、王国評議会にて。


 セシリアとエヴァンは、

 記録官特使および語りの再定義使に任命された。


 職務は――

 失われた語りを探し、

 誤った語りを正し、

 世界各地で新たに語られる声に耳を傾けること。


 任命式を終え、外に出た二人。

 春の光のなか、セシリアがふと立ち止まった。


「ねえ、エヴァン」


「ん?」


「……語りって、まだ私たちにできると思う?」


 エヴァンは一瞬考えて、ぽつりと言った。


「俺はたぶん、お前が語る限り、斬れる」


「だから、まだいける。いや、これからが本番かもな」


 セシリアは笑った。

 それはかつて語ることに怯えていた少女の面影とは、

 まったく別の、誇り高き語り手の笑みだった。


 後日談 記される前の日々

 ある日の夕暮れ。

 市場通りの一角にある小さな書店の奥、

 セシリアが子どもたちに物語を読み聞かせていた。


 それは、かつて語られなかった戦わなかった英雄の話。

 誰も知らない、名もない老騎士の物語。


「でもね、この人は……最後に、自分を語るの」

「私はこうして、誰も殺さずに生き延びたって」


 子どもたちは口々に言った。

「それ、かっこいい!」

「僕も語られるような人になりたい!」


 店の外で、それを聞いていたエヴァンが笑った。


「……語られてんな、ちゃんと」


 セシリアが彼を見て微笑み返す。


「ええ。きっと、この語りも、誰かを生かしてる」


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