第十話
ヴェル=ミラの奥。
地図には存在しない領域。
古代語で「記憶の残響域」と呼ばれた地に、
アストレイア文書の魔導座標が示す最深層が眠っていた。
一面に広がる濃霧。
だがその中には、確かに門があった。
無数の言語が刻まれた石門。
誰もが読めぬはずの文字列が、
二人の目には自然に意味を結ぶ。
セシリアが呟く。
「これは……語り手にしか読めない言葉」
エヴァンは剣に手を添えながら問う。
「開くか?」
「ええ。私たちは、もう語る資格を持っているから」
門が音もなく開いた。
中には、世界のどの風景とも似ていない空間――
まるで語る前の世界が、静かに広がっていた。
最深層への歩み
足元は紙のような質感。
だが踏めば音が鳴る。
空には文字ではない意志の残響が、
静かに浮かんでいる。
セシリアの声が震える。
「……この場所。書き始めの場所よ。世界が、語りによって形を得る以前の――最初の言葉が置かれていた場所」
そこに、
声が届いた。
「――我ら、語りしものなり」
「語りを始め、語りを終えぬ者なり」
霧の中から現れたのは――
六体の半実体存在。
人でも、神でも、魔でもない。
だがその声には、
「最初の語り」を始めた者だけが持つ記録の律動があった。
セシリアとエヴァンは、思わず一歩下がる。
だが相手は穏やかだった。
「選ばれし語り手たちよ。汝らに問う」
「語るとは、何か」
セシリアは静かに答える。
「……誰かの存在を、この世界に残すこと。たとえ記録から消えても、誰かの語りの中で、生き続けること」
エヴァンもまた、剣をゆっくり構えた。
「俺にとっての語りは、斬って、守って、残すこと。だから剣で語る。それだけだ」
六体の語り手が、声を重ねた。
「ならば証明せよ。汝らの語りが、この語りの原初を越えるに足るものかを」
霧の空間が崩れ、
語りの審判戦が幕を開ける。
これは、ただの魔法でも剣でもない。
語りという行為そのものが、武器であり、裁きであり、救済でもある。
その一つひとつを越えてこそ、アストレイア文書の真実に至る資格を得る。
第一の語り手が問うのは、「存在と忘却」。
語られなければ存在しなかった命の重さ――その根源。
語りの空間。
霧が静かに晴れ、そこに現れたのは――
ひとりの少女の姿をした語りの存在。
身を包むのは古びた羊皮紙のローブ、
頭上には文字ではなく空白の環が浮いている。
その声はかすれていた。だが、確かに響いた。
「私は、語られなかった者たちの代理」
「名を持たず、記録されず、誰の物語にもならなかった命の残響」
対話の開始。
セシリアが、静かに一歩進み出た。
「私たちはあなたを否定しに来たのではない。存在しなかったはずの命もまた、語られる価値があると示したいの」
少女の姿の語り手は、ほんの少しだけ首を傾げる。
「ならば問う。語り手よ。語られなかった命に、なぜ語りを与えるのか。誰にも望まれなかった祈り、見捨てられた声に、なぜ意味を与える?」
セシリアは、まっすぐにその問いを受け止める。
「それが誰かの物語にならなかったとしても……語られることで、初めてその命が在ったと知ることができるから。語られない限り、世界はなかったことにしてしまう。だから、私は語り続けたい」
語り手が微かに動いた。
「ならば、証明せよ。汝が語る者であるならば、名もなく消えた者たちの記録を、この場に紡ぎなおしてみせよ――!」
記憶なき魂たちの奔流。
次の瞬間、空間が反転。
霧のなかから、
無数の顔を持たぬ存在が現れる。
手も、声も、記憶もない。
ただ、誰にも語られなかった魂のかたまり。
セシリアが息を呑む。
「これは……名前のない記録。誰にも覚えられなかった命そのもの!」
セシリアは高位詠唱を始める。
《補記詠唱・命名の環》
消えかけた魂に、仮の名を与え、
一時的に語られし存在として呼び戻す魔術。
一体の影に、名が与えられる。
「……名は、マリエ。幼くして、疫病で消えた少女。語られることなく」
光が宿り、その魂が安らかに昇天していく。
セシリアは次々と名を与え、記録を呼び戻していく。
それはまるで祈りの連続のようだった。
語り手の少女が呟く。
「……涙を流すのか」
セシリアは震えながら言った。
「ええ……どれも語られるべき命だった。忘れ去られるには、あまりに……悲しすぎる」
記録の承認。
最後の魂が光の粒となって消えたとき、
語り手の少女は静かに手を合わせた。
「汝の語り、確かに届いた」
「記録を与えられずに消えた者たちが、初めて、名を得て――存在になった」
そして、少女は微笑んだ。
「私は、もう無ではない。あなたに語られた、一つの語りとなれた」
少女の姿が消えたあと、
空中に一文字だけが刻まれた。
「始」
セシリアはそっと目を閉じ、
その言葉を心に刻んだ。
「……これが、語りの始まり――」
ここから、残る五体との対話と戦いが待っている。
第二の語り手「破綻した未来の語り」
エヴァンとの存在しない英雄譚にまつわる対話と剣の試練。
未来に語られるはずだった物語を守りきれなかった語り手。
「完成しなかった英雄譚」、
「誰にも語られず、未完のまま終わった希望」を象徴する存在。
今回、挑むのは――エヴァン。
剣と語りの間で、
霧の空間が再び震え、
白銀の鎧をまとった長身の戦士が現れた。
その姿は英雄のそれ。
だが、腰の剣は半ばで折れ、
背中には未開封の書が背負われていた。
声は低く、確信に満ちていた。
「私は、未完の語り。かつて未来に語られるはずだった、数多の理想の物語」
セシリアが小声で呟く。
「……予言、希望、憧憬、計画……誰かが語られることを信じて生きた物語……でも、決して語られなかった物語」
語り手は、ゆっくりと剣を構える。
その刃は途中で砕けていたが、威圧感は濃密だった。
「問う。戦士よ。語られることが約束された物語が、実現しないまま消えたとき――その希望に、意味はあるのか?」
エヴァンが一歩前に出る。
背にある剣を抜きながら、答えた。
「あるさ。叶わなかったからって、無意味だったなんて、誰にも言わせない。語られなかった希望も、誰かが抱いた時点で――もう語りの一部なんだよ」
戦士は静かにうなずく。
「ならば証明せよ。汝の剣が、語り得なかった未来の断章を、真に越えるに足るかを――!」
空が割れ、
無数の未完の物語が剣となって降り注ぐ。
「かつて国を救うはずだった王子」
「戦火を止めるはずだった少女」
「誰にも呼ばれなかった勇者の名」
それらの幻影が、エヴァンの周囲を取り囲んだ。
だが彼は構えたまま、一歩も退かない。
「――来いよ。どんなに眩しい理想でも、斬って受け止めて、ちゃんと語り直してやるからさ」
一体、二体と襲いかかる幻影。
エヴァンはすべてを、
ただの敵としてではなく――
物語の断片として受け止めて、斬った。
《語刃・未章剣斬》
それは、語られなかった物語に対してだけ有効な、
語り手の剣。
斬ることで、未完の語りを終わらせるのではなく――
閉じるに値する言葉を与える技。
最後の一振りが、
戦士の胸元に届く。
白銀の鎧が砕け、
中から、どこかエヴァンに似た面差しの青年が現れる。
微笑みながら、こう言った。
「……ありがとう。お前の語りが、俺を終わらせてくれた」
彼の姿が風に溶け、
空中に残ったのは、たった一文字。
「希」
エヴァンは静かにその文字を見上げた。
「未完の物語は、誰かに語られるまで、ずっと生きてるんだよ」
第三の語り手「真実と虚偽の境界」。
語るとは、真実を伝えることなのか。
嘘や虚構に意味はないのか。
それとも、たとえ嘘であっても語られることそのものに価値があるのか?
この問いに立ち向かうのは、セシリア。
周囲の空気がぐにゃりと歪んだ。
次に現れた語り手は、はっきりとした輪郭を持たなかった。
男にも女にも見え、
子どもにも老人にも見える。
声もまた、低くも高くもあり――
ただひとつ確かなのは、定まっていないということだった。
「私は、真実でも虚偽でもない」
「私は、語りの揺らぎ」
「問う。語り手よ」
「語られたことが嘘だったなら――それは存在しなかったことになるのか?」
セシリアは立ち止まり、息を整える。
「……それは、難しい問いね。けれど――嘘が誰かを生かしたことも、誰かの支えになったこともある。嘘であっても、信じたその記憶が、誰かの人生の一部になるなら――それはもう、語る意味のあるものだわ」
語り手は微かに笑った。
「ならば見せよう。語られたはずの真実が歪み、嘘のほうが美しいとされた、そんな世界を」
空間が反転し、
セシリアの足元に無数の記録の写しが広がった。
歴史の教科書。
王国の年表。
民間伝承。
魔導学院の研究記録。
だが、すべてに微細な虚偽が混じっていた。
・偉大な王は、他人の業績を盗んだだけの男だった。
・聖女と呼ばれた者は、実は処刑を逃れた魔女だった。
・伝説の大魔導士の論文は、すべて別人の代筆だった。
セシリアの周囲に歪められた真実が形をとって襲いかかる。
セシリアは震える声で呟く。
「……たしかに、これは嘘。でも――それだけじゃない」
彼女は詠唱を始める。
《真偽交響・選記の詩》
この術式は、嘘と真実の重なりを精査し、
本当に語るべき核だけを残す選定魔法。
歪んだ語りが、歌のような魔法で次々に解体されていく。
彼女は一つひとつの嘘に問いかける。
「あなたは、本当に嘘だったの?。誰かが信じて、それで救われたなら――その記憶は嘘じゃない」
記録が静かに光を取り戻し、
歴史が、少しずつ整っていく。
最後に残った一冊。
セシリア自身が卒業時に書いた架空の論文。
少女の頃の妄想に満ちた物語だった。
セシリアはその一冊を、優しく抱きしめた。
「たとえ妄想でも。誰かがそれを美しいと思ったなら――それも、世界の一部よ」
語り手が静かに近づく。
そして、まっすぐにセシリアの目を見て言った。
「汝の語り、確かに届いた」
「嘘は、罪ではない。語りのなかで意味を持ったならば、それは生きる力となる」
そして、語り手の姿が霞のなかに消える。
空中に、淡い銀の光で一文字が浮かび上がる。
「想」
セシリアは目を閉じて呟いた。
「……語りとは、真実の外側にも咲くものなのね」
これまでの語りは、語られなかったもの、未完のもの、虚偽と真実のあわい――
そして今、対峙するのはそのどれとも異なる存在。
それは、「語られることすら許されなかった記録」
意図的に封じられ、消され、封印された沈黙の語り。
語りが封印されるとき、そこに宿るのは忘却ではなく、痛みと怒りだ。
墓標の空間。
空間が黒く沈む。
文字も音もない。
空は灰色、地は煤けたように焦げている。
そこに立つのは、まるで石碑のような存在。
顔も、腕も、輪郭すら曖昧な、記録を失った塊。
だが、その身の内からは確かな叫びが満ちていた。
「我は、語られなかったのではない」
「語ることを、許されなかった」
「世界の都合で、語りは奪われた」
「問う。語り手たちよ――お前たちの語りに、誰かの痛みを載せる覚悟はあるか?」
セシリアが一歩踏み出しかけるが、それをエヴァンが制す。
「……ここは、俺が行く」
セシリアが小声で呟く。
「……語れなかった記憶は、剣でしか語れないときもある」
封じられし語り手は、ゆっくりと語りを放つ。
「私は、反逆者だった。書物に残すことも、碑文に刻むことも許されなかった。誰にも語られぬまま、我が国も、名も、魂も、消された。それでも、私はここにいる」
エヴァンは剣を肩に担いだまま、低く言う。
「消されたものには、語り直すって選択肢がある。お前が斬ってくれっていうなら、俺の剣でもう一度、世界に存在させてやる」
「ならば――来い。私を、本当に語るに足る存在にできるか――その刃で試せ」
空間が波打ち、エヴァンの記憶すら曖昧になる。
目の前にいる敵の姿がぼやける。
剣を振れば斬れるはず――だが、
相手が記録されていないため、斬撃が通らない。
エヴァンは剣を止める。
「……違うな。これは、斬るんじゃない。記すんだ。俺の語りで」
彼は足元を踏みしめ、剣の先端を地面に立てた。
静かに、呼吸を合わせる。
一閃ではない。これは――名付けるための剣舞。
《命名剣舞・一条の証》
剣が地をなぞり、風が形を与え、
闇に沈んだ存在に、かつての名を与える技。
「……お前の名は、ティラ。帝国史から消された将。語られるべきだった忠義の剣」
暗黒の塊が、一瞬だけ人の姿を取り戻す。
その顔は、涙を流していた。
「……私は、いたのだな。誰にも語られなかった私が――今、誰かに名前をもらえた」
ティラの姿は風へ還り、
空中に一文字が刻まれた。
「証」
エヴァンは剣を収めたまま言う。
「……語られるってのは、存在の証明だ。忘れてくれとは、言わせないよ」
第五の語り手。
ここで対峙するのは、語り手そのものが堕落し、語ることを制御できなくなった存在。
それは、「語りの暴走」、
すなわち、記すことそのものが目的化し、
やがて世界を侵食し始めた【記述の病】。
語る者が語りに呑まれ、
記録者が記すために生きるだけの存在となった末路――
その歪みと対峙する。
無限の書斎。
空間が閉じた。
セシリアとエヴァンの目の前に広がるのは、
天井も床も壁も書物で埋め尽くされた、果てなき書斎。
ペンが勝手に走り、
紙が自ら語りを生み出す。
そこにいたのは――
衣も皮膚も、全身が言葉で構成された語り手。
「語り手よ。記す者たちよ。お前たちは語りを用い、存在を定義する」
「だが、問う――語ることに終わりを設ける覚悟はあるか?」
「記録は続く。永遠に。やがて真実を歪め、世界を侵し、語りが生命を喰らうようになるのだ」
セシリアが、沈黙のまま歩を進めた。
「……それでも、語るわ。私たちが語るのは、終わりなき記録じゃない。終わらせることを含んだ、生きた語りよ」
言葉の語り手が、ページの嵐を巻き起こした。
「ならば見せよう――語りが際限なく続き、記すことそのものが呪いと化した世界を!」
空間が悲鳴を上げる。
あらゆるものに注釈が現れる。
人の動きに脚注が付き、風にまで脚本が貼り付く。
それは語られ過ぎた世界。
記録されること自体が、意味を失っていく風景。
セシリアは術式を展開。
《詠破・無限語抑制》
無秩序に生成される記述を黙らせる禁忌の抑制術。
記録者としての権限を一時的に停止し、世界に静けさを取り戻す魔法。
ページが破れ、文字の嵐が止まる。
だが、語り手は止まらない。
「語りを止めることは、死と同義。それでも、お前は止めるというのか?」
セシリアは目を閉じ、
少女時代に記した空想のノートを思い出していた。
あの頃、言葉にすることだけが、彼女にとっての生だった。
だからこそ、彼女は答えた。
「語ることが生ならば――語り切って終えることもまた、生きることよ」
彼女は詠唱する。
《終結詠唱・物語の句点》
無限に綴られる語りに終止符を打つ、
記述者だけに許された終末詠唱。
光が文字を包み、
書物が静かに閉じられていく。
空間が沈黙し、
語り手もまた――静かに書を閉じた。
「……ありがとう」
「私たちは、止めることを忘れていた」
「お前の語りに、終わりがあった。だからこそ、美しかった」
言葉でできた身体が崩れ、
空に残されたのはただ一文字。
「静」
セシリアは、深く息を吐いた。
「……書き続けるだけじゃ、命は語れない。だからこそ、止めることも、語りの一部なのよ」
残るは――
第六の語り手。最終の語り。
いよいよ、最後の語り手。
アストレイア文書の最深層――第六の語り手との対話と対決。
この存在は他の語り手たちとは根本的に異なる。
語られなかったのでもなく、
封じられたのでもなく、
歪められたのでもなく、
もはや、語る必要を超えてしまった者。
それは、語りの限界の先にある沈黙。
言葉でも記録でもなく、ただ在るという存在のかたち。
語りの終わりにある、語りを超えた問いが、
最後に二人に投げかけられる。
語りの尽きた空間
空はない。地もない。
音もなく、色もなく、重力も感触もない。
そこは、語られたことのない世界ではない。
もはや語ることを拒絶した空間だった。
セシリアは足元を見る。だが、そこに足元は存在しない。
エヴァンは剣を握るが、剣が定義されていない。
そして、現れたのはただ一つの座。
無数の物語を象嵌された玉座。
だが、そこに座る者の姿は、空虚そのもの。
「我は語らぬ者。名もなく、記録もなく、声も持たず――されど存在する」
「お前たちに問う」
「語ることで何を得た? 語ったことで、誰かを救えたか? 語らなければ、苦しみも、生も、必要なかったのではないか?」
セシリアとエヴァンは、
言葉を持つことすら躊躇するほどの圧のなかに立っていた。
だがセシリアは、震える声で答えた。
「語ったことで、傷ついたわ。語ったことで、届かなかったこともあった。それでも――語らずには、生きられなかったの」
エヴァンも続けた。
「語ることで誰かが死んだとしても、語らなければ、そもそもその誰かはこの世界にすらいなかった。語られたから、いたんだ。いたなら、そこに剣を振るう意味も生まれるんだよ」
試練なき最終審判。
座は何も語らない。
だが空間に――一つの句が浮かぶ。
「語りの果てに残るものとは、何か」
答えるのは、二人の語り手自身。
セシリアは静かに目を閉じ、詠唱ではなく――
自身の声で語った。
「私は語り続けてきた。名前を持たなかった魂に。語られなかった未来に。偽られた歴史に。閉じ込められた沈黙に。そして、自らを語りきれぬ者たちに。だから、語りの果てに残るのは――赦しだと思うの」
エヴァンは剣を抜き、
その刃を何もない空にそっと振った。
「語りの果てに残るもんか……そうだな――もう一度、生きてみようと思える瞬間だろ」
沈黙が続いた。
空間の奥、王座がかすかに光を帯びる。
そして、そこにひとつの拍手が響いた。
「――それで、いい」
声が、王座の中から、確かに届いた。
「お前たちの語りは、生きることそのものだった」
王座が崩れ、空が色を取り戻す。
空中に現れたのは、六つ目の文字。
「生」
セシリアは涙をこらえきれず、
エヴァンは静かにそれを見守った。
こうして、語りの六試練はすべて突破された。
そして待ち受けるはアストレイア文書・本体解放と真の開示、世界そのものの語り直し。
六人の語り手との対話と戦いを経て、
セシリアとエヴァンは語りの本質に触れた。
彼らが示したのは、
語りとは真実か虚構かという問いを超え、
「存在することそのものを受け止める行為」であるということ。
そして今――
語られることを望まなかった者たちも含め、
世界のあらゆる声に対して語り得る力を得た二人は、
アストレイア文書・本体の最終頁へと到達する。
文書の最奥。
王立魔導図書館、封印層。
そこに浮かぶアストレイア文書・本体。
書物の周囲に、六つの光の環が回っている。
それぞれが語り手たちの遺した言葉。
「始」
「希」
「想」
「証」
「静」
「生」
すべてが揃ったとき、
文書の中央がゆっくりと開き始めた。
セシリアが深く息を吸い、手をかざす。
「いくわ。……これが、語りの核心」
エヴァンはただ一言、
「ああ」と頷く。
最終頁の出現。
書物は一度、すべての頁を自動的にめくり、
最奥――白紙の一枚をゆっくりと開く。
だがその頁は、空白ではなかった。
インクも魔力も用いず、
意志そのもので綴られた言葉が、確かにあった。
「この世界に、語られる価値のない命など存在しない」
「語りとは、終わるためにあるのではない」
「次の語りへと、手渡すためにある」
「ならば今――お前たちに、この世界の記録の続きを、託す」
書物が光に包まれ、
封印された記録が解き放たれていく。
それは、世界中の語られなかった出来事を解きほぐし、
忘れられていた声に、再び命を与えていく儀式。
世界の語り直し。
大陸の各地で――
沈黙していた村が、自分たちの歴史を思い出す。
記録から消えた勇者の名が、碑文に甦る。
語ることを拒んでいた魔導師が、再び筆を取る。
王都フェル=グレイ上空。
魔法陣のような光が空に現れ、
「語り直し」が始まったことを告げる印が灯る。
そして、アストレイア文書の中心から――
新たなる第一頁が書き始められる。
新たなる記述
セシリアは震える手で、
文書の新たな冒頭に一文を記す。
「ここに、語りを継ぐ者たちの物語を記す」
「彼らは語りの苦しみも、光も、沈黙も、すべて受け入れた」
「その名は、エヴァンとセシリア」
エヴァンは、照れ隠しのように笑いながら肩をすくめる。
「……自分の名前が語られるってのは、悪くねぇもんだな」
セシリアも、静かに笑った。
「私たちは、ただ記しただけ。この語りが、いつか誰かを生かすなら――それが、いちばん嬉しいこと」
終わり、そして――始まり
アストレイア文書は、
その最後の封印を解かれたまま、静かに閉じられる。
もう封じられることはない。
これからは、誰もが語ることを選べるようになる。
書の表紙には、かつて存在しなかった、
たった一行のタイトルが刻まれていた。
『語られざるものたちの書』
物語は、終わらない。
それは、いつだって誰かの語りで続いていくから。
戦いは終わり、語ることを巡る六つの問いは越えられた。
けれど、「語り」は今も続いている。
記録とは剣よりも長く生きるもの。
声なき者の命に、語る者がいれば――
そこに新しい命の灯が灯る。
これは、そんな語りの火を絶やさぬ人々の、静かな物語。
王都フェル=グレイ、春
魔導図書館の奥庭に、花が咲いていた。
淡い色のアザリアと、白銀のカーネーション。
風がそっと香りを揺らす。
石造りの噴水の前。
セシリアは一冊のノートを膝に、静かにペンを走らせていた。
「……アストレイア文書・解放以降の世界状況」
「偽りの語りの減少。断片的記録の再構築。各地での証言者の語り直し……」
その向かい、ベンチに寝転がっていたエヴァンが欠伸をかみ殺す。
「なあ、なぜ俺まで報告書を書かされるんだ?」
セシリアは顔を上げずに答える。
「あなたが語られた存在になっちゃったからよ。世間が知りたがってるの、語りの剣士の考え方」
「だからって……俺の剣技を文章化って、どう書くんだよ……バッと行って、ザッと斬るとか?」
二人の会話に、すれ違う見習い研究官たちが目を細めた。
「あれが、語りを継いだ二人か」
「なんか普通……いや、逆に普通だからすごいのかも」
正式任命。
その日、王国評議会にて。
セシリアとエヴァンは、
記録官特使および語りの再定義使に任命された。
職務は――
失われた語りを探し、
誤った語りを正し、
世界各地で新たに語られる声に耳を傾けること。
任命式を終え、外に出た二人。
春の光のなか、セシリアがふと立ち止まった。
「ねえ、エヴァン」
「ん?」
「……語りって、まだ私たちにできると思う?」
エヴァンは一瞬考えて、ぽつりと言った。
「俺はたぶん、お前が語る限り、斬れる」
「だから、まだいける。いや、これからが本番かもな」
セシリアは笑った。
それはかつて語ることに怯えていた少女の面影とは、
まったく別の、誇り高き語り手の笑みだった。
後日談 記される前の日々
ある日の夕暮れ。
市場通りの一角にある小さな書店の奥、
セシリアが子どもたちに物語を読み聞かせていた。
それは、かつて語られなかった戦わなかった英雄の話。
誰も知らない、名もない老騎士の物語。
「でもね、この人は……最後に、自分を語るの」
「私はこうして、誰も殺さずに生き延びたって」
子どもたちは口々に言った。
「それ、かっこいい!」
「僕も語られるような人になりたい!」
店の外で、それを聞いていたエヴァンが笑った。
「……語られてんな、ちゃんと」
セシリアが彼を見て微笑み返す。
「ええ。きっと、この語りも、誰かを生かしてる」




