第一話
剣と魔法の世は、定めなき風に吹かれて移ろいゆく。
ノヴィウスの大地に王の威光はすでになく、貴族どもは牙を研ぎ、血をもって境を定めんと欲す。
城は焼け、民は泣き、覇を唱える旗はひとたび上がればまた墜ちる。
昨日の主は今日の屍、勝者はつかの間にして敗者となり、乱世の名は風に消える。
然れど、その風のなかに、名もなき者たちの歩む道あり。
剣を携え、魔を操り、定めなき大地を往く流れ者たち。
彼らを、冒険者と呼ぶ。
その日、灰色の雲が陽を隠し、街路にささやかな陰を落としていた。
石畳に踏みしめられた無数の靴音の中、乾いた足音がふたつ、確かに響いていた。
西の門より現れたのは、旅装を纏う二つの影。
一人は長き黒髪を後ろで束ねた青年。陽に焼けた肌に無駄な贅を持たぬ革のコートを纏い、背には鍛え抜かれた鋼の剣を負っている。
その名を、エヴァン・クロスフィールド。かつて名門騎士家に連なる家系の末裔とも囁かれるが、本人は語らず、噂だけがひとり歩く。
隣を歩むは、一振りの杖を手にした女。
紫紺のローブは塵を嫌うように清らかで、瞳は夜空のごとく深い。
その名を、セシリア・ヴァレンタイン。古の魔導学院で首席を飾ったとも、神秘の地サマリスで星の言葉を学んだとも言われる。
二人は言葉少なに、だが確かな歩調で、冒険者ギルドの門をくぐる。
錆びた風鈴のように、ギルドの鐘が微かに鳴った。
「……今日も何か面白い仕事があるといいけど」
セシリアがふと空を仰ぎ、憂い混じりに呟く。
「面白いより、払ってくれる方がいいな」
エヴァンは肩をすくめ、壁に貼られた依頼書に目をやった。
「おや、またお二人で?」
受付に立っていたのは、ギルドの看板娘こと、サリーナ・クレイン。
明るい栗色の髪と快活な声を持つ、冒険者たちに人気の受付嬢だが、目端の鋭さは本物である。
セシリアが手にした依頼書を一目見るなり、眉がピクリと動いた。
「ノルテ侯爵家からのご依頼、でしたか。ええと……アストレイア文書の回収。場所は、廃村になったグラン=エリスの森の奥、か……」
「あら、ご存じ?」
セシリアがにこやかに尋ねると、サリーナは少しだけ言葉を選んだ。
「……あの森は、もう何年も前に捨てられた場所です。原因不明の疫病が広まり、村は封鎖されて……生き残った者はいないと聞いています。最近では、魔物の目撃報告もちらほら。ギルドとしては探索注意区域に指定してますけど……貴族様の依頼なら、例外ってことでしょうね」
エヴァンは、面倒くさそうに頬をかいた。
「また貴族の尻拭いか。文書が欲しけりゃ自分で取りに行きゃいいんだ。疫病だの魔物だの、ついてくるものが多すぎる」
「でも、報酬は良いわ」
セシリアが、唇の端を持ち上げる。
「……それに、アストレイア文書。聞いたことあるでしょう? 古代語で書かれた禁書群。その中には、失われた術式の原典もあるって噂」
「また魔導士の悪い癖が出てるな……」
エヴァンは深くため息をつき、首を鳴らした。
「行くよ。ただし、報酬の半額を前金で。あと、引き返すタイミングは俺が決める」
「交渉はあなたに任せるわ。私は知識が得られれば満足だから」
セシリアはさらりと微笑み、依頼書をサリーナに差し出す。
「お取り次ぎ、お願いできるかしら?」
サリーナは少しのあいだ沈黙し、目を伏せてから頷いた。
「……お気をつけて。あの森は、ただの捨て村じゃありません。何か……変なんです。報告に一貫性がない。魔物の種類も、出現位置も……狂ってるとしか言いようがない。まるで……」
彼女はふと、口をつぐむ。
「まるで、何かが――まだそこにいるみたいな……」
荷を整え、馬を二頭雇い、二人は日の高いうちに都市を発った。
東にのびる街道をたどり、やがて舗装された道は土に変わり、草の香りと風の音が濃くなる。
「ノルテ侯爵家……あなた、どんな家か知ってる?」
セシリアが馬上で言った。
「名前だけなら。北部にいくつか領地を持つ中流貴族だ。貴族戦争では中立を保った、いわば現実主義の一派」
エヴァンの返答に、彼女は小さく頷く。
「だからこそ、妙なのよ。そんな堅実な家が、わざわざ禁書の回収なんて――それも、あんな場所で」
「……確かにな」
森は、もう間近だった。
空が陰り、風が止まり、草がざわめきを失う。
鳥の声すらも、いつの間にか途絶えていた。
「……見ろ」
エヴァンが手綱を引き、前方を指差す。
木々が密に茂る、その奥に、苔むした石碑が立っていた。
「グラン=エリスとあるな。ここが森の入口……か」
セシリアは馬を降り、静かに目を閉じて空気を探る。
「……何か、おかしい。魔素の流れが乱れてる。あちこちに亀裂が入ってる感じ」
「魔物か?」
「違うわ。これ……人為的なもの。何か封じたものが、内側から壊れてるような……そんな気配」
エヴァンは無言で剣の柄に手を添えた。
草の揺れすらも、何かの囁きのように聞こえる。
「引き返すなら、今だ」
「いいえ。ここまで来たんですもの、確かめなくちゃ。ねえ、エヴァン」
セシリアはくるりと振り返り、わずかに笑う。
「――面白くなってきたと思わない?」
一歩、森へ。
木々の隙間から差し込む光は鈍く、色を失った緑が空間を満たしていた。
足元には乾ききった枯葉が積もり、音もなく靴裏に潰れてゆく。
空気は冷たく、どこか鉄錆のような匂いが混じっていた。
セシリアが足を止め、首をかしげた。
「……聞こえる?」
「ああ」
風の音に混じって、音楽のようなものが聞こえる。
どこか遠くから、小さな鐘の音と、子守唄のような歌声が──だが、それはあまりにも不自然で。
「こんな場所で……歌?」
エヴァンが剣を抜く。周囲に何の気配もない。だが、音だけは確かにある。
「方向がわからない。音が、空間を這っている……まるで、森全体が歌ってるみたい」
セシリアの声が微かに震える。
そのときだった。
木の幹が一つ、ひくりと動いた。
「ッ!」
エヴァンが反射的に跳び下がり、間合いを取る。
幹が裂ける。中からぬるりと這い出てきたのは、人の顔を模した何か──
皮膚のように裂けた木の内側に、歪んだ人間の顔が浮かんでいる。
眼はなく、口だけが開いて、呻いていた。
「やっぱり、これは……」
セシリアが呪文を紡ぎ始めた。
空気が震え、杖の先に青白い魔方陣が現れる。
「動くわ、エヴァン!」
木から這い出た顔付きの木の怪物が、まるで四肢を持つかのように這い寄ってくる。
後方の木々もまた、少しずつ動いていた。
まるで森そのものが、生きているかのように。
木の怪物が吠えた。
音ではない、空気が歪むような低い振動。
それを合図にするかのように、周囲の木々が軋みを上げて揺れはじめる。
枝が腕のように伸び、幹の裂け目から人面のような影が蠢く。
「来るぞ!」
エヴァンが一歩踏み込み、低く構える。
右手に握った剣は、刃の中央に魔力の刻印が淡く輝く細剣――
見た目は細身ながら、魔力を通せば鋼より強靭にして、魔物の肉をも断つ。
怪物が一体、跳躍した。
木のくせに、動きが速い。
口を開いて伸びる蔓のような舌――そこにエヴァンの剣が閃いた。
一閃。
舌を両断し、その勢いのまま右足で地を蹴り、頭部めがけて斬り上げる。
「遅い」
木の怪物の「顔」が割れ、黒い樹液が飛び散った。
しかし倒れた一体の代わりに、奥の木々がぞろぞろと動き始める。
それらは全て、異形と化した森の住人たちだった。
「十体以上……まったく、歓迎が過ぎるわね」
セシリアが一歩下がり、詠唱に集中する。
「アルス=テネブラ」
杖の先に現れた魔法陣が、一瞬で六重に重なる。
地面が揺れ、森の空間が軋み、瞬間――
「――星喰らいの炎」
鮮烈な蒼炎が、セシリアの掌から放たれた。
火ではない。魔力の奔流が、炎の姿を借りて空間を呑み込む。
焦げる匂いはなく、ただ蒼い光が、怪物の数体を貫き、燃やし、形を消す。
「退がるぞ! これ以上ここで踏ん張ってもキリがない!」
エヴァンがセシリアの肩を引き、森の奥――依頼書に記された廃村の方角へと駆ける。
「まるで、森全体が目覚めかけてる……」
セシリアの言葉に、背後から追ってくる蠢きの音が答えた。
「これは封印が崩れてるんじゃない。もう、壊れかけてるのよ」
怪物の気配が遠のいたのは、それからしばらくしてのことだった。
二人は断続的な襲撃を受けながらも、森の奥へ奥へと踏み込み、やがて木々が途切れ、空が再び開ける場所へと出た。
廃村――グラン=エリスの跡地。
かつて百人ほどが暮らしていたという村の名残は、すでに朽ち、苔に覆われ、もはや原型を留めていない。
崩れた井戸、半ば土に呑まれた石の柵、歪んだまま倒れた木造の家屋。
だが、そこに確かにかつての生活があったことだけは、沈黙が物語っていた。
「……何も、いない」
エヴァンが静かに呟く。
空気は沈黙に満ちている。だが、それは平穏ではなかった。
不自然なほどの静けさ。魔物も、音すらも、何かを避けるように消えている。
セシリアが一軒の家屋に近づいた。
ドアの枠だけが残った入口から、慎重に中を覗く。
木の床は腐り、壁は崩れ、だが――
「これは……」
彼女の目が、かすかに見える刻印に止まった。
壁の奥に刻まれた、古代文字による紋章。
円環と四角の交差、その周囲に五つの小さな印。
「アストレイア文書を封じる術式の……断片。間違いない」
セシリアは手袋越しに壁をなぞる。魔力が反応し、わずかに温もりが返ってくる。
それは、生きている証だった。
「まだ、封印は完全に消えていない。けれど……ほら、この欠け」
紋章の一部が崩れ、剥がれ落ちていた。
そこから、黒いしみのような魔素がじわじわと滲み出ている。
「これは……瘴気だ」
エヴァンが剣を抜く。
「ただの文書なんかじゃない。封じてたのは、中身のほうだ」
その瞬間、セシリアの背後の床が軋んだ。
ぎ……ぎぎぃ……ぱきぃぃん……
崩れた床板の下から、何かが這い上がってくる。
人の形をしている。
けれどそれは、肉でも骨でもない――
まるで、紙でできた人形のようだった。
白く、薄く、裂けやすく。
しかしその紙の体に刻まれた無数の文字が、どれも古代語で構成されていた。
アストレイア文書の断片が、形を持って現れた存在――
「文書そのものが……式体に転じてる?!」
セシリアの声が震える。
「エヴァン、これは本物よ! 文書が、封印の崩壊に反応して自立を――」
「叫ぶのはあとにしろ!」
エヴァンは紙の怪物の動きを見切り、即座に切り結ぶ。
だが斬ったはずの身体は、風に舞うように再構成される。
「……こいつ、俺の魔法剣でも斬れない。紙じゃない、これ。概念そのものだ」
「くそっ、どこを斬っても、風みたいに裂けて舞いやがる!」
エヴァンの剣が紙の怪物をいくたびも斬り裂くたび、千切れた断片が空に舞い、再び合流して人の形を作る。
そのたびに、無数の古代語が彼の目に焼きついた。
一文一語にすら、意味がある。
それは知識。呪い。断片化された真理――
「エヴァン、下がって!」
セシリアの声が空間を震わせる。
彼女は魔力の奔流を己の中に呼び戻し、すでに詠唱を始めていた。
「アルス=テネブラ、ソルム=インヴォカ――これは語の怪物。ならば、言葉を封じるしかない!」
杖の先に、淡い蒼の光が重なり出す。
魔法陣が七重、八重と交差し、浮かぶ文字は一つ一つ空白に変わっていく。
「……沈黙の碑文!」
放たれた魔力は、音を持たない光の波として空間を制圧した。
紙の怪物が悲鳴を上げる――ように、文字が滲み、崩れ出す。
体の表面に記された文字が消え、意味を失い、やがて紙はただの白い皮膚へと変貌した。
「いまだ!」
エヴァンが駆ける。
意味を失った紙の怪物は、もう概念ではなく、物質に成り下がっている。
剣が閃く。
今度こそ、切断された体は再構成されなかった。
腹を裂き、胸を貫き、首を落とす。
白紙となった紙片が、無言のままふわりと宙を舞い、音もなく崩れていく。
「……やった、か」
セシリアが肩で息をしながら頷いた。
「理論上、完全な封印じゃないけど……概念の核を奪ったから、しばらくは形を保てないはず」
「言葉を封じる魔法か……相変わらず、君の引き出しは深いな」
「魔法は学びの積み重ねよ。それに比べてあなたは、いつも単純ね」
「斬るしか脳がないからな」
エヴァンはにやりと笑い、剣を納める。
二人の足元には、今やただの紙となった怪物の残骸が風に流され、
その奥にはまだ続く廃村の、地下へと続く崩れた階段が顔を覗かせていた。
崩れた床の奥に、苔と瓦礫に埋もれた階段があった。
セシリアが小さく呪文を唱えると、杖の先に淡い光が灯る。
その光に照らされて現れたのは、かつて地下室だった場所の、重い石造りの入口。
そしてその扉には、見覚えのある紋章が刻まれていた――
「アストレイア教団の印章……時代的に千年以上前ね。
この施設自体が、文書の保管庫だった可能性があるわ」
「教団の遺構か……ろくなもんじゃねぇな」
エヴァンが扉に手をかける。
石造りのそれは冷たく、指先に妙な圧を感じた。
魔力の結界だ――だが、もう機能はほとんど失われている。
軋み音とともに扉が開かれ、地下への通路が現れる。
空気はさらに重く、沈殿したような瘴気が肺を満たす。
セシリアが片手で結界を張ると、二人は足を踏み入れた。
地下の回廊は長く、そして静かだった。
石壁には封印術式の痕跡が何重にも施されていたが、その大半はひび割れ、崩壊している。
まるで、時代そのものがここを見捨てたかのように。
「これ……封印が内側から破られた跡ね」
セシリアの声が低くなる。
「外からの侵入じゃない。中にあった何かが、耐え切れずに暴れ出した……そんな感じ」
「文書の中身が、外に出ようとしてる……ってことか」
エヴァンが無意識に剣に手を添える。
闇の中に、気配がある。まだ見えないが、何かがいる。
空間の歪みが、確かに生の存在を告げていた。
やがて彼らは、地下の最奥へとたどり着く。
そこは円形の広間だった。
天井には天球儀のような魔法陣が描かれ、中央には石碑のような文書保管台が静かに立っていた。
セシリアが息を飲む。
「……これが、アストレイア文書の本体」
保管台には古びた一冊の書物が、魔法の鎖で縛られていた。
だが、その鎖はもう一部が解けている。
書のページが自ら開き、文字がわずかに浮遊していた。
それらは、読めば災いを呼ぶ言葉――禁忌の知識そのもの。
「……まずいわ。これ、完全に目覚めてる。
もう一度封じないと、あの紙の怪物みたいな奴が、もっと出てくる」
「どうやって封じる?」
セシリアは小さく笑った。
「簡単よ。読むの」
「は?」
「これは理解されることで存在する知識。ならば逆に、最後まで読みきって意味を完結させれば……暴走は止まる。誰かが最後まで理解することで、言葉は休息を得るのよ」
エヴァンが眉をひそめた。
「つまり……読む側には、何が起こるんだ?」
「……場合によっては、正気を失うかもしれない。精神が崩壊する危険性もある。でも、それを止める手段は、今のところ……私しかいない」
「……やれやれ、魔導士ってのは、どうしていつも自分を危険に晒したがるんだ」
エヴァンは後ろに立ち、剣をゆっくりと構える。
「いいさ。読め。俺は、何が出てきても全部斬ってやる」
セシリアはゆっくりと手袋を外した。
細く白い指先が、浮かび上がった書の表紙に触れる。
「……行くわよ」
呟いた瞬間、保管台の書物が震えた。
魔力の鎖が全て解け、書がひとりでに開いていく。
一ページ、また一ページと捲られ、古代語の記述が空間に浮かび始めた。
「ルカ=メルセド……アエリア=スフォニア……」
セシリアの声が重なり、響き、そして世界が二つに割れた。
空間が揺れた。
セシリアの視界から、エヴァンの姿が消える。
代わりに現れたのは、白い空。
遠くまで続く書の棚。頭上にはないはずの星空。
そこは文書の内側だった。
無数の言葉が空間を流れ、浮かび、囁き、時に叫ぶ。
それらはかつて誰かが求めた知識。呪い。嘘。真実。
セシリアは歩く。
記述の中を。思考の奔流の中を。
『なぜ読む?』
声が、問いかけてくる。
『おまえにその価値があるのか? この言葉の重みを、理解できるのか?』
「知りたいから。世界が、私たちが、どんな罪を繰り返してきたのかを」
声が笑う。
『ならば見ろ。知識の底を。おまえの心の臓が崩れるまで、刻んでやる』
文字が渦を巻き、セシリアを飲み込む。
その瞳に、古代の戦争、失われた文明、神殺しの記録――あらゆる禁忌が流れ込んでくる。
一方、現実。
セシリアの身体を中心に、空間が不安定になっていた。
封印されていた魔素が逆流し、文書から漏れた式体が再び形を成し始める。
「出たな……!」
エヴァンが剣を構える。
今度のそれは、一体だけ。だが、明らかに違う。
先ほどのような無差別な知識の塊ではない。
これは、守護者――文書を読む者を試すために生まれた、最古の式体。
「……面白くなってきた」
式体は人の姿をしていた。
仮面をつけ、黒いマントをひるがえし、手には一本の長槍。
無言のまま、静かに地を蹴り、エヴァンに迫る。
鋭い槍先が空を裂く。
エヴァンは間一髪でかわし、剣を走らせる――が、金属のような硬質な音とともに受け止められる。
互いの刃が交錯し、火花が散る。
「……こいつ、剣術を知ってやがるな」
式体は言葉を持たない。だが、確かな意志がある。
それは読む者を守るため、ではなく――
読むに値しない者を、処断するため
「……私は、読む」
セシリアの声が空間に満ちる。
全ての記述を目に焼きつけ、脳に刻み、魔力で封じる。
最後のページが捲られると同時に、彼女は短く、ひとつ呪文を唱えた。
「閉幕の詩篇フィナス=レクイエム」
禁書が震え、頁がひとりでに閉じられた。
封印の鎖が再び巻きつき、蒼い光が書物を包み込む。
同時刻。
エヴァンは最後の一撃を受け止め、踏み込み、式体の胸を貫いた。
「……あんたの主は、無事に読み終えたぜ」
式体は動きを止め、仮面がひび割れる。
音もなく、塵へと還った。
全てが静かになった。
魔力の乱流が鎮まり、文書は沈黙を取り戻した。
セシリアは目を閉じ、深く息を吐いた。
「……終わったわ」
「読めたか?」
エヴァンが近づき、彼女の手を取った。
「ええ。……でも、ひとつだけ気になることがある」
セシリアの瞳が、書の封印の奥を見つめる。
「この文書を最初に封じた者……その名前だけが、削り取られていたの。それが、どうしても、引っかかるのよ」