3.白銀の世界にミルクを添えて
カーテンを開けてみると、外の景色が昨日とは変わっていた。
昨夜から降り始めた雪が積もりに積もって、辺り一面を白く染めている。
雪は少し苦手だった。
魔女の屋敷は田舎の牧草地にあり、周囲に民家はない。誰も踏みしめていない雪は無垢で美しく、まるで檻に閉じ込められているような焦燥が、胸の奥をちりちりと焼くのだ。
「どうりで寒いと思ったら」
肩に掛けている厚手のショールを胸元に引き寄せ、シレネは身体を震わせた。
年々寒いのが苦手になってきている。家の中でも吐く息が白くなり、こういうとき広い屋敷は寒くて困ってしまう。
「シレネ……なに見てんの?」
背後から裸足で床をぺたぺたと歩く音が聞こえると、腰付近の服を掴まれた。寝ていたアズライトが起きてきたのだ。
寝ぼけ眼を擦りながら、髪に寝癖を付けたアズライトが窓の外を覗き見る。
「……雪だ!」
一面の白銀世界に、ぱっと顔が明るくなった。琥珀色の瞳が輝いて、今にも駆け出す勢いで足踏みを始める。
アズライトは雪が好きだ。寒さにも強く、どちらかと言うと人間より狼の血が濃いのかもしれない。
「アズ、遊ぶのは朝ごはんを食べてからに……」
しなさい、とは最後まで言わせてもらえなかった。
アズライトは話を聞くことなく窓を開けると、ぴょんと外に飛び出した。彼の着ていた服がはらりとシレネの足元に散らばる。
窓の外を見れば、雪の積もった庭を一匹の狼が駆け回っていた。興奮したようにあっちへ行ったりこっちへ来たり。鼻先を柔らかい雪に埋めては、体をぶるぶる震わせて雪をはらい、思い出したようにまた走り出す。
「朝から元気ねえ……」
開いた窓から冷気が押し寄せ、シレネは腕を摩った。
人狼のアズライトは、人の姿を持ちながらその身を狼にも変えることができる人ならざる者。まだ七歳の幼い少年は、狼になってもせいぜい狐ぐらいの大きさでしかない。
狼であれば一年もすれば成体と変わらない大きさになるが、人狼は人間と同じように成長がゆっくりなのだ。
「アズ、遠くまで行かないでね。満足したら帰ってくるのよ」
雪の上を転がっていたアズライトは、シレネの声に顔を上げてこちらを見ると、再び嬉しそうに駆け出した。
「ちゃんと聞いているのかしら」
まあ聞いていなくても、お腹が空けば帰ってくるだろう。何よりも食べることが好きなのだから。
シレネはそっと窓を閉めて散らばったアズライトの服を拾うと、ソファに置いた。リビングの暖炉に新しい薪をくべ、暖炉に向かって小さく囁く。
「火をお願い。あと、お風呂のお湯もね」
火の気のなかった暖炉に、ぼっと火が灯った。薪が静かに燃えはじめるのを確認して、シレネはキッチンへ向かう。
「ご主人様、お食事の準備をいたしましょうか」
誰もいなかったはずのキッチンから女性の抑揚のない声がすると、シレネは振り返った。
どこから現れたのか、壁際にメイド服姿の少女が佇んでいた。足首まである黒のワンピースに白いフリルエプロンを身につけ、艶のある黒髪は肩に掛からない長さで綺麗に切り揃えられている。
澄んだ少女の瞳を見返し、シレネは微笑んだ。
「ビオラ、食事は自分で用意するから大丈夫よ。寝室を片付けておいてくれないかしら」
「かしこまりました、ご主人様」
使用人のビオラは表情を変えることなく返事をすると、足から床に沈み込み、その姿を消してしまった。
魔女の棲家は魔法の屋敷。屋敷自体が意思を持ち、主人と認めた者の言うことだけを聞き入れる。
ビオラは屋敷そのものであり、敷地内であればどこにだって現れる。アズライトとも仲良くしてくれているので、シレネはとても助かっていた。
昨晩仕込んで置いたパン生地を冷蔵庫から取り出し、アズライトが戻ってくるまでの間室温で置いておく。
お気に入りの青いポットを火にかけ、棚から紅茶の茶葉を取ると、ティーポットの中へ。沸かしたお湯をティーポットに注いで、温めたカップと一緒にリビングのテーブルに持っていった。
本を片手にゆったりと朝のティータイムを過ごしていると、窓の外からシレネを呼ぶ吠え声が聞こえる。アズライトだ。
前脚を窓辺に乗り上げ、舌を垂らしてこちらを見ている。さんざんはしゃぎ回ったのだろう、雪で銀灰色の毛が濡れていた。
「おかえりなさい、私のアズライト。満足したのかしら?」
シレネは口元を緩めると、窓を開けてアズライトを迎え入れた。温かい室内に入るなりぶるぶると大きく体を震わせて水しぶきを飛ばす。そういうことは外でやってくれればいいものを、シレネが顔に飛んできた水を拭っている間にもう一度水しぶきが飛んでくる。
「もー、アズ。床がびしょ濡れよ」
シレネは文句を言いながらも、満足そうな顔で息をしているアズライトの体をタオルで包み込み、わしゃわしゃと体を拭いてあげた。濡れた頭の毛がつんと立っているのが愛おしい。
「寒いでしょう? ご飯の前にお風呂に入って温まりなさい」
アズライトの呼吸がぴたりと止んで、次の瞬間にはシレネの手を振り解いて駆け出していた。
「寒くない!」
狼が消えたかと思うとリビングには裸の男の子が現れ、ソファに飛び乗ったところだった。
「……またそうやって逃げ回る。お風呂に入らないと風邪引いちゃうわよ」
「風邪引かない! 俺、あの泡嫌い」
「あら、石鹸が嫌なのね。目に入って沁みたから。それじゃあ、沁みない石鹸を用意してあげる」
「ほんと?」
「ええ、もちろん」
目を輝かせたアズライトはソファから飛び降りると、シレネの前にやってくる。外で冷たい空気を浴びたからか、頬が赤く染まって林檎のようだ。
「何飲んでたの?」
「紅茶よ」
「俺も飲む」
「いいわよ、美味しい紅茶を淹れてあげる。お風呂に入っている間にパンも焼けるわよ」
そう言って裸の身体をタオルで包むと、アズライトは牙を見せて笑った。
シレネの元に来る前のアズライトは狼の姿で過ごすことが多かったのか、まだ少し言葉が拙い。両親を探しているが見つからず、野生の狼の群れに混じっていたところを魔女協会に保護された。
狼の群れに馴染めていなかったようで、保護当時は傷だらけだったらしい。
力にも心にもゆとりのあるシレネが彼を引き取り、こうして一緒に暮らしている。
「アズの紅茶には、ミルクとハチミツを入れてあげましょうね」
風呂から上がったアズライトは、乾かしてふわふわになった銀灰色の髪を揺らしながらテーブルの上を覗き込む。椅子に座ればいいものを、テーブルの端を掴んで背伸びをしているのだ。
微笑ましい姿にシレネはくすりと笑みを溢すと、琥珀色の紅茶にミルクを注いでいく。混ざり合うふたつの色が紅茶を淡い茶色に染めたら、そこにとろりとハチミツを垂らす。
「さあ、できあがり。甘くて美味しいわよ」
その場でぴょんぴょん跳ねるアズライトを椅子に座らせ、シレネも食卓についた。焼き立てのパンの香りと、ミルクで化粧をした紅茶。
窓から見える景色は白く静謐で、暖炉の火が穏やかに燃えていた。
「シレネ、これ美味しい!」
「そう、気に入ってもらえてよかったわ」
笑顔のアズライトを見れば、少し憂鬱だった朝の寒さも、少し遅くなってしまった朝の食事も、すべてが特別なものに変わっていく。
あたたかい朝だった。