2.恋に溺れる魔女
月明かりに照らされて輝く長い金糸の髪が、風を受けて空に漂う。どこまでも続いていく空は果てしなく、秋の澄んだ空気に包まれていると、人生という孤独な旅路も悪くはないような気がしてしまう。
煌めく街の明かりを過ぎて、今はもう忘れ去られた石造りの古城を眼下に捉える。
シレネはエニシダの箒を緩やかに旋回させ、古城の塔へと静かに降り立った。
さまざまな移動方法があるなかで、箒に乗って空を飛ぶのが一番好きだった。
月の明かりだけを頼りに、夜の静寂を歩く。暗がりに小さな赤い火が明滅するのを見つけると、シレネは目を細めた。
「やっぱりここにいたのね、ジル」
壁に寄り掛かって煙草を吸っている黒ずくめの男に近付き、微笑みかけた。
シレネより頭ひとつ分以上は背の高い男は、漆黒の髪を額から後ろに撫で付け、闇に溶け込むように黒のスーツを身に纏う。
彼の口から吐き出された煙が、シレネの視界を白く染めた。
「……お前、獣臭いぞ」
眼光鋭い男の眉間に皺が寄ると、更に目付きが悪くなった。怖い顔で肉食獣のような威圧感を放っているが、これが彼の平常なのでシレネはまったく気にしない。
「あら、煙草を吸っていても分かるの? 貴方のそれはにおい消しの役割があると思っていたのに」
「不快なにおいはすぐに分かる」
「失礼しちゃうわ。家を出る前にアズを寝かせてきたのよ。人狼って、夜行性なのかしら? 暴れちゃって寝かせるの大変なんだから」
「引き取った人狼のガキか」
「ええ、そうよ。本当に可愛くって、貴方にも会わせてあげたいわ」
天使のような男の子の寝顔を思い出して笑うシレネに、男は返事をすることなく煙草を口元へ運んだ。
紫煙を燻らせながら遠くを見つめる男の顔は精悍で色気があり、何人もの女性をその身で虜にしてきたのだろうと分かる。無愛想な男の余裕を剥ぎ取るのは、誰であっても容易なことではない。
「ジル、煙草を吸いすぎじゃなくて? 身体に悪いわよ」
シレネは彼の口から煙草を奪うと、身の丈ほどの箒を壁に立て掛けた。
「誰の身体に悪いって?」
「貴方よ、ジル・フォード」
「……笑える冗談だな」
唇の端を僅かに吊り上げて、皮肉混じりに彼は言う。
ジル・フォードは吸血鬼だ。毒を口に含んだところで死ぬことのない身体に、煙草が害になるはずもない。
ジルから奪った煙草を口に咥えたシレネは、すうっと息を吸い込む。煙が喉を刺激して、思わず咳き込んだ。
「……美味しくないわ!」
涙目で訴えると、ジルが目を眇めた。手にしていた煙草をすんなり彼に奪われる。
「お前には必要ないだろ」
「貴方がいつも吸っているから、少し気になったの」
言いながら何回か咳き込むと、ジルの煙草を持っていない方の手が伸びてきて、シレネの腰に回る。引き寄せられるように背中が彼の身体に当たると、火のついた煙草が地面に落ちていった。
「ジル……煙草をその辺に捨ててはだめよ」
聞いているのかいないのか、ジルの手はシレネの長い髪を片側に寄せ、露わになったうなじに唇を寄せる。吸い付くような口付けを浴びてシレネが肩を震わせると、今度は耳に息がかかった。
「この後どうする」
誘うような低音が鼓膜を揺らして、仄かな熱が身体の中心を擽った。
「だめ……、帰らなくちゃ……」
シレネは理性をなんとか手繰り寄せて、ジルの腕の中で身を捩る。甘い誘惑を断わるのは、魔女であっても簡単ではない。
「貴方といると、朝になってしまうわ……アズが起きちゃう」
「……まるで子育て中の母親だな」
「同じようなものよ。家には面倒を見てくれる使用人がいるけど、アズは悪戯ばかりするから心配なの。あの子を引き取ってから、毎日楽しいわ。寂しい思いはさせたくないの」
そう言って腰に回るジルの手に触れると、頭上から深い溜め息が降ってくる。
「怒った……?」
シレネは彼の顔をそっと窺った。
「別に、怒っていない」
「それじゃあ、妬いてる?」
「……くだらん。妬くもなにも、お前は俺のものだ」
平然と言われて、シレネは瞬いた。言葉の意味を噛み締めて、顔に熱が集まる。
「そういう不意打ちは、やめてほしいわ……離れがたくなってしまうでしょ」
「少しは俺の気持ちが分かりそうか?」
口角を上げるジルをじとりと睨むと、シレネは火照る顔を手で仰いだ。
彼の前でだけ、女の顔を捨てられない。
シレネは身に付けている詰襟のワンピースのボタンを外して、首元を露出した。
「分かったから、今日はこれで我慢して。次に会う時まで、私も我慢するから」
「……ある意味、生殺しだな」
ジルは溜め息混じりに呟くと、背後からシレネの首筋に牙を突き立てた。
吸血鬼は血を吸うとある種の興奮状態に陥ることもしばしばだ。血の持ち主が好ましいほどに、吸血だけでは気が済まなくなってしまう。
(その辺は、血を吸われるほうも同じなのだけど……)
駆け巡る痛みと快感の狭間で、シレネは束の間の逢瀬に酔いしれた。
魔女だって、恋に溺れる夜もあるのだ。