1.宵空のガラスペン
「あら、これはいったいどうしてかしら」
透き通る青が暗くなる前の宵空のように綺麗で、特別な誰かに送る手紙をしたためる時に使っていたガラスペン。
真ん中の辺りから無惨にぽっきりと折れて床に転がるガラスペンは、確かにシレネが大切にしていたもので間違いないようだ。
つい一時間くらい前に友人の魔女に手紙を書いて、うっかり机に置いたまま席を外してしまったのだ。
「困ったわね」
ふうっと大袈裟に息を吐いて机を見れば、青のインクの蓋が開いている。確かに閉めたはずなのに。点々と机に垂れたインクが向かう先は、シレネが手紙を書く時に使っていた便箋だ。紙には少し歪んだ丸、丸、丸。何かの暗号か。
「あ」
机に転がるガラスペンの先。書く時に力を入れすぎて、これまたぽっきりいってしまったようだ。
「妖精の悪戯かしら」
シレネは困ったように肩を竦めて、机の下から椅子を引き出した。
「なんて──さあ、私の可愛い妖精さん。出てきなさい、悪戯っ子ね」
机の下を覗き込むと、銀灰色の毛の塊がびくっと震えた。ぷるぷると小刻みに震える背中は丸まって、尻尾はお尻の下に隠れている。いつもぴんと尖った耳は、今は頭の後ろに寝かせてどこへやら。
「アズ、私のアズライト。怒らないから、出ておいで」
机の下に潜り込んでいるまだ子どもの狼は、ちらりとシレネの方へと顔を向ける。こちらの様子を窺う琥珀色の瞳は不安げだ。
「怪我はしていない? 確かめさせて」
シレネがしゃがみ込んで微笑むと、アズライトは頭を低くしてそろりと机の下から顔を覗かせた。
「まあ! やだ、アズったら! ふふふ、その顔!」
不思議そうに上目でシレネを見つめるアズライトの顔は、青のインクでいろんなところが染まっていた。鼻の頭に目の回り、前脚にはべったりインクが付いて、よく見ると机の下には肉球印の足跡が。
「ずいぶん楽しかったのね」
くすくすと笑っているシレネを見て安心したのか、小さく鼻を鳴らしてアズライトが近付いてきた。
シレネは反省した様子のアズライトの顔を両手で包み込むと、柔らかな頬を揉み込んだ。
「いいのよ、貴方の手の届くところに置いていた私がいけないの。大丈夫、私は魔女だから。綺麗に直せてしまうのよ」
そう言ってシレネがアズライトの額に額を擦り付けると、ぱたぱたと銀灰色の尻尾が揺れた。シレネの唇を舐めるアズライトは、もうすっかり元気を取り戻したようだ。
「それじゃあ、アズ。お風呂に入りましょうか。そのインクを綺麗に落とさなくちゃ」
シレネの言葉を聞いた瞬間、アズライトは顔を上げた。持ち上がっていた尻尾がだらんと垂れ下がる。
アズライトは慌ててシレネの腕の中から抜け出すと、転がるように駆け出した。
「アズ!」
「風呂は嫌だ!」
子どもの高い声が聞こえたかと思うと、十にも満たない裸の男の子が部屋の扉を開けるところだった。寝癖のついた銀灰色の髪が、ふわふわと揺れている。
廊下を駆けていく大きな足音を聞きながら、シレネは呆れたように肩を竦めた。
「まったく、困った子ね」
言いつつも、口角が上がってしまう。あんなに反省した素振りを見せていたのに、風呂と聞いただけでこの変わり身の速さ。
「ふふふ、笑っちゃうわ」
シレネは笑いながら散らかった机を見ると、人差し指を軽く振った。
折れたガラスペンの先が浮き上がり、床に落ちていた残りの破片の元へ飛ぶ。吸い寄せられるように折れたガラスペンが繋がって、ぴたりとくっついた。
宵空のような青に、星屑を見立てて散りばめられた銀の粒。美しいガラスペンは箱の中へ戻っていくと、最初からずっとそこにあったかのように艶めいた。
「ありがとう、ごめんなさいね。これからは気を付けるわ」
シレネの言葉を合図に箱の蓋は閉じられ、勝手に開いた机の引き出しに入り込む。
「さあ、あの悪戯っ子をお風呂に入れなくちゃ」
ふんと気合いを入れて、シレネは扉の方へと歩き出した。