03 災い
そのまま、何も考えることのできぬまま、どれだけそこに座り込んでいたのか判らない。
見知らぬ制服――肩からすり切れ、そこから血がにじんでいる――姿の少年を目にした人々は、奇妙に思いながら通り過ぎたり、心配をして声をかけることもあったが、少年は聞こえているのかいないのか、まともに返答をする様子もなかった。そして人々は結局、彼をそのままにして通り過ぎていく。
そのうちにどこかの誰かが不審に思ってか、それとも親切心なのか、町憲兵を呼んだ。やってきた町憲兵の呼びかけにも彼は無反応のままであり、町憲兵は仕方なく彼を保護することになる。
いったい、自分が誰によってどこへ何のために連れて行かれようとしているのか見当もつかず、つけようとする気もないままで、ティルド・ムールは引かれた手に従っていた。
ただ、呆然としていた。
何が起きたのか、判らなかった。
いや、判りすぎるほど、判っていた。
アーリは死に、彼は生きている。
まるでそれは悪夢のよう。
恋人を得た喜びと、それを失うことへの怖れが、彼の母を焼いた火という形で彼女を失わせる不安を顕した――そんな悪夢のような。
夢であればどんなによいか。
目を覚ませば、隣にはアーリがいて、飛び起きる彼を驚いて見るのだ。
彼は彼女を抱き締めて、馬鹿な夢を見たことを彼女に話す。そうしたら、きっとアーリはティルドをからかうだろう。急に情熱的になったじゃない?――なんて。
夢であれば、どんなにか。
どこかの建物のなかに入れられ、椅子に座らされ、水の入った杯を渡され、何度話しかけられても、ティルドは一言も口をきかないままだった。
話すまいと思っているのではない。
ただ、彼には全てがぼんやりとしていて、耳に聞こえるのは昨夜に抱いた少女の声だけ。
(ティルド!)
(言ってなかったっけ? あたしの本名、アイリエルって言うの)
(ねえ、ティルド)
(これは、きっかけって――言うのよ)
(ティルド)
(じゃあティルドは、あたしの初恋の――人だ)
「――ティルド!」
ようやく、彼はゆっくりと――それはずいぶん、のったりとしていた――顔を上げる。
よく知る声に何度か瞬きをして、彼はどうにか焦点を合わせた。
「……ユファス?」
そこにあるのは、紛う方なき兄の姿。だがそれが何を意味するのか、少年にはよく判らなかった。
「どうしたんだ、その、怪我」
「……怪我?」
見れば、いったいいつの間に治療をされたものか、彼の右肩には包帯が当てられていた。何か言われたような気はするが、言われるままに制服を脱いだ記憶も、ない。
「怪我自体は擦り傷だが、様子がおかしいのでどうしたものかと思っていた。使者殿の任務についても判然としない故、定時の報告を兼ねて城に報告をしたが」
町憲兵隊長が困ったような口調で言った。
「有難うございます。近衛隊長から連絡をいただきました」
兄の声を聞きながら、ティルドは軽く頭を振った。この場所には見覚えがある。ほんの数刻かそれくらい前に、彼が訪れた場所だ。
(何のためにきたんだっけ)
(〈燕の森〉亭の家族の……遺品について尋ねに)
(そうだ……腕輪)
(あんなものを手に、しなければ)
翡翠が魔除けだって? どこが魔除けだ? 災いを――呼んだだけではないか!
(災難が避けられるならそれに越したこと、ないんだしね)
明るく言った少女の声。避けられなかった災難。
いや、腕輪の力は真実だった。彼だけが災いを避けたのだ!
「どうしたんだ、何があった?」
「ユファス――アーリが……」
その先は、言葉にならなかった。不意に、少年の瞳に涙が溜まった。それがまっすぐにこぼれ落ちるまで、一秒とかからない。
「アーリ? 一緒にいる女の子だな? その子はどうしたんだ」
(死んだ)
(殺された)
(魔術師に――燃やされた!)
ティルドは首を振った。
言えない。言いたくない。言えば、真実になってしまうようで。
それが既に起きた現実だと判っていながら、ティルドはそれを口にしたくなかった。
「ティルド」
兄は戸惑ったように弟を見、答えが返ってこないことを知ると町憲兵隊長に向き直った。
「隊長。彼と一緒にいた娘に会いましたか? 何かあったのかもしれない。探していただけますか」
「いや、彼は今朝、ひとりでここへきた。オード町憲兵が連れてきた先ほども、連れなかったようだ」
ユファスは、アーリという娘が盗賊であるという弟の説明を思い出した。ならば町憲兵隊にやってくるのはもちろん、探されることも好まないだろう。彼は捜索依頼を取り消し、弟とふたりだけにしてもらえるよう頼んだ。隊長はうなずいて部屋をあとにした。
ユファスは、こんなティルドを見たことが一度だけある。
両親が死んだあとだ。
その死を理解したあと、もう二度と父と母が帰ってこないのだと知ったあと、幼かった少年は外界からの呼びかけに全く反応を見せず、食事も摂ろうとしなかった。
もしやアーリという娘が死んだのか、とも彼は思ったが、それはティルドが街なかでひとりで座り込んでいたことの説明にはならないように思った。
少なくとも、それだけでは説明は足りないように思った。
「ティルド」
彼は涙を流し続ける弟の名をゆっくりと呼んだ。
「いいか。僕は、ここにいるからな」
そう言って隣の椅子を引き、腰を下ろす。
本当ならば、いまは夕飯の支度で彼の仕事場は大忙しだ。もちろん、実際の夕飯刻の方が忙しいが、人手が減れば厨房がてんやわんやになることは目に見えている。
しかし料理長のトルスは躊躇いなく、弟の負傷の報に驚くユファスを「戦場」から放り出した。今日は戻ってこなくていいと言われた。死ぬような怪我でもない限りそこまでの必要はないだろうと思っていたが──これは、時間がかかるかもしれない。
ユファス・ムールは、じっと待った。
少年の瞳から流れた涙は頬を伝い、顎から落ちて、彼自身の下衣に染みを作っていく。少しするとティルドは、自分が泣いているのだと不意に気づいたように、嗚咽を洩らしはじめた。顔をうつむかせ、肩を揺らすまいと全身に力を入れている。
兄がそっとその肩に触れると、彼は堰を切ったように大声を上げて泣き出した。ユファスは弟を抱きしめるようにする。弟は、幼子が母にするようにそれにすがりついた。




