14 何も、ないように
重厚な大理石の卓はひんやりと冷たい。
その温度などは気にならぬものか、それともそれを心地よいと感じているものか、男は卓に手をついたままで書をめくった。
季節は夏から秋へと向かっている。窓を開けていれば、爽やかな空気が室内を駆け抜けて男の手元に悪戯をする。めくれ上がったページに苛ついた表情を浮かべて、男はそこに重しを置いた。
礼儀正しく叩かれた戸の音に、男は書から顔を上げる。
「入れ」
かちゃり、と開かれた扉から姿を現したのは三十歳ほどの美女だった。眩いばかりの金髪は肩まで届き、濃い青い目が印象的だ。薄黄に黄金の線が入った上衣は女の身体にぴったりとしていて、豊かな胸の形をはっきりと見せる。膝上までの明灰色の下衣からは、二本の白い足が伸びていた。
「メギルか」
「ただいま戻りました、リグリス様」
「いま、ではなかろう」
リグリスと呼ばれた男は言った。
「戻ってきてから風呂を使い、仕立てたばかりの服を身につけ、化粧をし、香水を振りまいてからこの部屋へやってきたという訳だろうに?」
「無論です」
メギルと言われた美女は穏やかに笑んだ。
「リグリス様に、旅で汚れた格好などお目にかけられませんわ」
「どうであった?」
リグリスは書の上の重しを外し、代わりに栞を挟み込むとそれを閉じた。
「見つかったのか」
「ええ。ですが、逃しました」
メギルは目を伏せた。リグリスは眉をひそめる。
「逃した、とは?」
「カトライ・エディスンの出した使者が、思わぬ力を持っておりました」
「使者? ただの子供ではないのか」
「そう思っておりましたが、間違いでした。彼はレギスからまっすぐにアーレイドへたどり着き、私よりも先に〈風食みの腕輪〉を手にしたのです」
「お前が、それを取り返せなかったと?」
「――ご存じの通り」
メギルはそっと言った。
「〈風食み〉は、業火の力を弱めます」
リグリスの目が細められた。
「では発動させたのか。その子供が」
「そのようです」
魔女は嘆息した。
「私がその在処を確定できたのは、彼がその力を得たからということになりそうです。魔術師でないことはもちろん、風司とも関係のない子供に思えたのですが」
「エイファム・ローデン」
リグリスは苦々しくその名を口にした。
「あの男が手をこまねいているはずはないと思っていた。だが、はじめから私の動きを見越して、そのような潜在力のある子供を使者に立てたのだとすれば、面倒だ」
男はじっと考えるようにした。女は所在なげに、手を口元に運んだ。それは何とも色気を感じさせる仕草であった。しかしそれを目にしたリグリスが、女の美しさを讃えることはない。
「失態だな、メギル」
冷たい声に、女魔術師は目を伏せた。
「申し訳ございません」
伏せられたまつげは長く、愁いを秘めるような切なげな表情は、まるで男の誘いに躊躇うかのような奇妙な色香を伴った。
「腕輪は、私が必ず取り戻します」
メギルは言った。リグリスはじっと彼女を見る。
「――信用しよう」
その言葉に魔女の顔には笑みが広がった。男なら誰でも心をどきりとさせ、それを美しいと讃えるだろう。彼女の目前にいるリグリスという男と、ティルド・ムール少年を除いては。
「風読み、風聞き、そして風食み。在処が特定できていたのはその三つだけだ。あとは」
「風謡いと風見」
女があとを次いだ。男はうなずく。
「カトライが――いや、エディスン王家が愚かで助かった。〈風神祭〉を単なる形式としてのみとどめてくれたおかげで、風司の力を我がものとできる。そうすれば」
男はすっと奇妙な形の印を切った。
「オブローンは必ずや、力を得る」
女は黙ったまま、ただ礼をした。
「メギル」
リグリスはふと口調を変えて魔術師を見た。
「旅は、疲れたか」
「いいえ、決して」
「では、床の支度をさせるとよい。今宵は久方ぶりにお前と過ごそう」
「――はい、ドレンタル様」
再び礼をして答えたメギルの瞳は、魔女とは見えぬただの女のように潤み、満足の色を伴った。
ドレンタル・リグリスはしばらくそれを見ていたあと、話は終わりだというように書に挟んだ栞に手を伸ばした。メギルは礼をして部屋を去る。
部屋に、初秋の風が流れた。
悲劇など何も、ないように。
 




