13 火の柱
ティルドは冷たいものが背中を流れ落ちるのを感じた。アーリが背後からきゅっと彼の腕を掴む。
「何の、ことだよ」
「恍けないで。お互いに時間の無駄よ」
そう言うと女は一歩、彼らに近づく。ティルドは本能的に下がろうとして、背後にいる守りたい存在を思い、その場に踏みとどまった。
「坊やが大事にしまいこんだ翡翠の腕輪。どうしてそれのことを知ったのかしら? いえ、経緯はどうでもいいからお渡しなさい。私はそれを探してもう充分に余計な時間を使ってしまったの。これ以上、無駄にする気はないのだから」
「何の……話だよ」
ティルドは言い続けた。この女が何者であれ、腕輪のことを知っている。そしてそれを〈風食みの腕輪〉と呼び、ティルドが手にしたことも知っている。それを隠してもおそらく、意味はないのだろう。
だから少年が言うのは、ごまかしではなかった。
「お前、誰だ。何が腕輪だ。そいじゃまさか俺たちの追ってるもんを持ってるのはお前か。それでついでに、火付けもお前の仕業か」
「おや、驚いたわね」
女は軽く目を瞠る。
「では坊やは、カトライ王の使者なの。そう言えば、それは確かにあの街の制服ね」
女はティルドの全身をくまなく見るようにした。少年はまるで、温い湯を浴びせられたあとで風に晒されたかのような、ぞっとする感じを味わった。
「知っているのか」
「もちろん。あの王と魔術師は邪魔。いずれどうにかしなければ」
「何だと」
ティルドは思わず、剣の柄に手をかけた。
だが街なかで剣を抜くことは禁じられている。魔術も同じだ。相手を傷つけたり脅す目的で、刃物であろうと魔法であろうと武器を振るえば、たいていの街においては刑罰の対象となった。許されるのは自衛のため、つまり、先に武器を振るわれた、という状況においてのみである。
たとえ王の兵であっても、権限を持たない限りは同じだ。警護の任の類に就いていれば別だが、街なかで抜剣を許されるのは街の平和を護るために存在する町憲兵だけである。こうしてエディスン王を害すようなことを口にしたものが相手でも、彼は先に剣を抜く訳にはいかなかった。ましてここはエディスンではないのだ。
「おやめ」
女は静かに言った。
「無駄よ。時間の無駄は好まないと、何度言えばよいかしら」
そう言って女は手を差し出す。
「さあ、腕輪を」
「ふざけるな。渡すもんか。この、人殺しめ」
女は、否定しなかった。冠と耳飾りを持つことも、ポージル邸と〈燕の森〉亭に火を放ったことも。
「人殺し?」
アーリの声がした。ティルドは、やめろというように少女をとどめるが、彼女は聞かなかった。
「つまりあんたが、あたしの父さんと母さんを燃やしてくれたって訳? ご丁寧に、灰にまで」
「だったら、どうするの?」
女は何事もないように言った。
「町憲兵でも呼ぶ? それとも、仇討ちをしたい?」
嘲笑うような声に少女がかっとしたのが判った。両親の死など何でもないと言いながら、それでもこのような態度を取られれば頭に血が上るのだろう。
「よくも!」
「よせ」
ばっと短剣を抜いて前に出ようとする少女をティルドは強く掴んで引き戻した。
「放してよ!」
「馬鹿、そんなもん、しまえ!」
「だって、ティルド! こいつは」
「判ってる、でもお前は下がってろ、やるなら」
ティルドは小さく、戦いの守り神にして〈裁き手〉とされるラ・ザイン神に祈りを捧げると――その剣を抜いた。
「俺だ」
女はくすりと笑った。
剣を抜くなどご法度だ。判っている。
だが彼は危険を感じた。女ひとりを相手に、どんな危険を?
もちろん、目前の女が疑う通りの存在なら、それは何十人をも焼き殺すことを躊躇わない魔術師であるからだ!
「正義感。怒り? その子を守るためかしら? いいえ、恐怖ね、坊や。ティルドと言ったかしら。お前は私が怖くて剣を向けるのだわ」
「どうとでも言え」
ティルドはきっと女を――魔女を睨んで一歩を出た。
「訊きたいことならこっちにだってたくさんある。お前は誰だ? 何故、腕輪を狙う。渡せ、と言うのならそれは俺の台詞だね。冠と耳飾りを返してもらう」
「そうする必要は、もちろんないわね」
女はすっと片手を上げた。ティルドもまた、剣を上げる。背後でアーリもまた短剣をかまえるのが判った。女は笑みの表情を見せたままである。そこに何の感情も見つけられなくても。
「逃げる気はないようだな」
「逃げる? 何故、私が逃げなければならないの?」
女はむしろ、また一歩近寄った。ティルドはやはりアーリをかばうように、少女を改めて背後に回す。
「もう一度だけ言いましょうか。〈風食みの腕輪〉をお渡しなさい、ティルド。素直に言うことを聞けば命だけは助けてやってもいいわ」
「大した脅し文句だな」
少年はアーリが飛び出さないようにと抑えながら剣を握り直した。
「馬鹿な子ね。カトライ王にそれほど忠誠心があるの? 命を賭けてまで、冠を取り返そうというような?」
「関係、ねえだろ」
ティルドは冷や汗が流れるのを感じた。
命を賭ける? そんなことは――考えたことがない。
彼が軍籍に身を置くのは飯を食うためにすぎず、王の身辺に身を置き、その安全を守る責務を負う近衛兵では、少なくともまだ、ない。
それでも、それでは命ばかりはお助けをと腕輪を差し出すという選択肢は、若い少年の内には浮かばぬものだった。
目前の女が魔女であると理解し、聞くも怖しい魔法の炎を操って多くの人間を――アーリの両親も含めて――焼き殺したのだということも判っている。
同時に、判っていない。
彼はこれまで、不幸な出来事に遭ったことはある。両親の死などはそのひとつだ。だが彼は、はっきりとした意図を持って他者の命を奪おうとするような悪意に出会ったことはなかったのだ。
女が不可思議な形に手を振ると、そこに長さ四十ファインに満ちるか否かとほどの短杖が現れた。黒檀は濡れたように鈍く光っており、柄の部分にはそれによく似た色の黒い石がはめ込まれている。
「馬鹿な子。生まれ変わったら、次は魔術師に近寄らないようになさい」
女の口から奇妙な響きの詠唱が洩れ、不吉なものを感じたティルドは胃の腑がきゅっとなる痛みを無視して剣を振り上げた。
「さよなら、ティルドに、お嬢ちゃん」
女は、ティルドがそこに届くよりも早く、杖を振り下ろした。その瞬間、少年の周囲を何かが撫でていく。それは、生温かくぬるりとした感触で、ティルドは泥の風呂にでも入れられたような気になった。
何らかの魔術――だが、どんな魔術だというのだろうか?
警戒をしたティルドは、しかし剣を握り直すよりも、その悲鳴に心を凍らせた。
「アーリ!」
彼は目にしたものが信じられなかった。
反射的に振り返った背後にあるものが「何」なのか、彼はその名を呼びながらも信じられなかった。
「アーリ!」
少年は叫んで手を伸ばそうとした。だが本能的な恐怖はその意志に逆らおうとする。
一瞬で炎に包まれた少女の身体は火の柱となり、耳をつんざく怖ろしい叫び声はどんな刃よりも少年の心を貫いた。
「アーリ、アーリ!」
ティルドは絶対的な本能の指示を強引に無視した。自分自身を護るため、燃え盛る熱の塊から遠ざかれという命令を打ち破ろうと、大きく、意味のない叫び声を上げた。
だが、彼が炎のなかの少女――であったもの――に手を伸ばすことこそ、既に意味のないことだった。
彼が必死で伸ばした腕を取ろうとするかのように、少女は微かに両腕を彼の方に向けたようだった。だが、互いにそれに行き着く前に、その腕は指先から――掌、肘の先、いや腕のみならずその全身、ほんの一分前まで「それ」が少女の形を取っていたことなど嘘のように、焼け、燃え、焦げて、崩れ――落ちていった。
「あ……」
少年の全身ががくがくと震えた。
「アーリ!」
彼は叫んだ。何度も名を呼んだ。もう、そこにあるのは散らばった黒い灰と――不吉な煙と、肉の焦げた、臭い。
そのときにはもう、ティルドがアーリと呼んだ一夜の恋人が存在したという証は、どこにもなかった。
「何故、お前は無事なの?」
不思議そうな声がした。ティルドはばっと魔術師を振り返り、瞳を燃え立たせてそれを睨み付ける。
「――てめえ!」
ティルドは喚くと剣を振り仰ぎ、兵となってから培ってきた剣技の基本すら忘れたような無茶苦茶な体勢で女に斬りかかった。女魔術師はさっと身を引きながら杖を振り、少年は顔面を殴られたかのような衝撃を感じる。
「さては、〈風食み〉か」
女は呟くように言った。
「成程。それだけ力を持つものとは。これは簡単に行かないわね」
ティルドはまた、剣を振りかざした。魔女はするりとそれをかわす。
「ただの使者に風具を目覚めさせる力があるとは、誤算だったわ。今日は退散と行きましょう。また会うときまでそれを大事に持っていなさい、坊や」
「待ちやがれ!」
はっとなった少年が叫ぶと同時に、女は杖を持ったまま不可思議な印を結んだ。
「逃がさねえ!」
彼はその手に馴染んだ剣を三度振りかざし、魔女を肩から叩き斬った――その、つもりだった。
だが、そのときには女魔術師の姿は煙のようにかき消え、攻撃対象を失った彼の剣は空を切る。全身の力を武器に乗せていた少年はそのまま前方に転げるように倒れ込む。ざざっと鈍い音がして、彼は肩から背を石畳に滑らせるような形になった。
魔女の姿は、ない。
アーリの姿も――ない。
起きたことが信じられなかった。信じたくなかった。
(これは、大した前進ね!)
陽気にはしゃいだ白詰草の声だけが、ティルド・ムールの脳裏に意味のない木霊を繰り返した。




