02 それは挑戦ね?
ともあれ、宿を取るのは一日か二日で済むかもしれない。
兄を訪れれば部屋に泊めてもらえると考えていたし、部屋の広ささえ許せばアーリが一緒でも兄は気にしないだろう。多少はからかわれるかもしれないが、そういう相手ではない、自分はスタイレン伯爵の令嬢と恋仲だと言ってやろう、と考えてにやりとする。兄は信じるだろうか。
「さっぱりしたら、ご飯にしましょ。ここにくるまでに見かけた〈幸せの黄金竜〉ってお店がいい感じだった、そこで待ってて」
「はいはい」
少年としては、飲み食いができれば――極端に不味かったり高かったりさえしなければ――どこでもいい。だがレギスでのことを思い出せば、この少女盗賊はなかなか店にうるさい。薄汚い酒場がよく似合いそうなハレサが小ぎれいな店の常連に黙ってなっていたくらいであるから、たぶん、彼女の店の選択には口出ししない方がいいのだろう。
ひとっ風呂浴びてさっぱりしてくれば、確かに程よく腹も減る。
〈幸せの黄金竜〉亭は日の沈む前から客入りはよく、ごく普通の市民たちで繁盛しているようだった。繁盛している店というのは安くて美味い食事を出すと思ってよい。通りすがりでちらりと見ただけのはずなのにアーリはなかなかの目利きだ、とティルドは思った。
旅の間は簡単な食事ばかりだし、たまの町でも屋台あたりで済ませてきたから、こういった食堂は久しぶりだった。ティルドは急激な空腹を覚えると黄金竜定食を注文した。
それはタンザ魚の黄色い鱗を竜に見立て、登り竜のように形作った揚げ魚をメインにしたセットで、添えられた野菜も色とりどり、汁ものまでつくなかなかに豪華な一皿であった。看板料理なれば味も絶品で、夢中になってがっついたティルドはやってきたアーリにしばし気づかなかったほどであった。
「やあね、よっぽど飢えてたみたい。みっともない」
「放っとけよ」
彼らの言い争いはたいていこんな調子ではじまったが、せっかく新しい街についたのだからと互いに自重をした。シザをはじめとする、ほかの誰も彼らをとめてはくれないのだ。自分たちで納めなければ一刻とかからずに喧嘩分かれをするのは目に見えており――だができることならそれはなるべく避けたいと、互いに思っていた。
アーリが「あたしの」耳飾りのためにティルドから離れまいと考えていることは明らかだったが、ティルドの方はどうだったであろうか。少なくとも自分では、連れがいないよりはいた方がいい、くらいのつもりであった。
「揚げ魚、うまいぞ」
「そう? 一口ちょうだい。……あ、美味しい」
少女は考えるように壁の菜譜を見た。
「揚げ鶏は気になるわね。でも揚げものはちょっと避けたい気分。豚のキイリア酒煮込みなんてどうかしら。ご飯に合いそう」
何やら方針を定めると少女はよし、と呟いて給仕を呼んだ。
ティルドにはぴんとこない細かい注文をいろいろとつけた少女は満足そうに琥珀色の液体を揺らした。
「んなもん頼んで酔い潰れても、介抱なんかしてやらねえぞ」
ティルドの傍らにあるライファム酒と違って、少女の手にするキイリア酒はなかなかに強い。
「あーら、それは聞き捨てならないわ、ティルド。あたしが潰れるですって? それは挑戦ね?」
「……いや、違う」
彼の遠慮がちな返答は少女の耳には、もしかしたら意図的に、届かない。
アーリはにやっと笑うとアスト酒――これも強い酒だ――の瓶を一本注文し、小さな杯をいくつも持ってこさせる。
「おい」
「ささ、やりましょ、飲み比べ」
「お前は阿呆かっ、俺はそんなことやらな」
「何よう、意気地なし」
簡単な挑発は、しかし少年の負けん気を刺激するのに十二分だ。ティルドはむっとした顔をすると、アーリがアスト酒を縁まで注いだ杯に手を伸ばした。それぞれの前に親指と人差し指で輪を作った程度の大きさの杯が五つずつ、並べられている。
「いーい? 飲みきれなかったらそこで負け、多少遅れても飲みきれば第二陣だからね」
「判ったよ」
ティルドはむっつりと言った。
「ようし、それじゃ行くわよ、せーの!」
少年少女はばっと酒杯をあおりだした。周辺の客たちは面白そうにそれを見ている。大人の男たちの大人げない勝負はたまに見られるが、若い男女のこういう行為は珍しい。女の子を酔い潰そうという男の悪だくみならば眉をひそめる者もいるが、少女の方が言い出したこととなれば、純粋に身体を案じる一部の識者を除いた誰もが見物と思って彼らの卓を眺めた。
「なかなかやるじゃない、ティルド」
「これくらい、どうってことない」
かかった時間はアーリの方が短かったものの、ティルドも危なげなく五杯のアスト酒を飲み干して見せた。軍にいれば、この手の手荒い勝負は日常茶飯事だ。明らかに酒豪と判っている軍曹には簡単に負けるけれど、カマリとは四勝五敗三引き分けである。
「言っとくけど、あたしはハレサにも勝つんだからね。引き下がるんならいまのうち」
「馬鹿言うな。どうせ、おっさんが既にしこたま飲んでるとこに勝負吹っかけたんだろう」
ハレサはいくら飲んでも顔色ひとつ変えなかったから、かなりの酒飲みであることが窺えた。アーリの方は軽いライファム酒の一杯でも陽気になっていたように見えたが、しかしこうして見ればそれは酒に酔ったのではなく、かと言って酔ったふりをしたのでもなく、「酒を飲んでいる雰囲気」に酔っていたとでも言うことになろうか。
「後悔しないわね? じゃ、次行くわよ」
かけ声とともに杯をあおりだし、ティルドはくらりとくるものを覚えた。この手の飲み比べに充分経験があるとは言え、やったのはけっこう前だし、それに旅に疲れた身体でやったことなどはもちろんない。だが疲れている度合いならばアーリも同じ、いや上かもしれない。そう思って少年は次に手を伸ばし、だが理性がそれを拒否するのを感じた。
「ええい」
無理矢理に脳の指令を無視して七杯目に口をつければ、金色の液体はうまく喉を通らない。ティルドはむせ、アーリがにやりとするのを見た。
「降参なら早めの方がいいわよ」
「馬鹿」
言うな、と続けるのも惜しくて、少年は残った酒を意地で飲み下し――覚えているのは、そこまでだった。




