08 珍しい物語でもない
〈女神の盃〉亭は、大地の女神神殿のお膝元だけあって、何とも品のよい酒場であった。
中心部のまっただなかにあるこのミクランの街は、ヴェルフレストとカリ=スがあとにしてきたアイメアや〈ビナレスの臍〉フラスの街と同じような自由都市である。ここを越えて南下していけば、ウェレス王の治める街町が姿を見せ始める。
王城都市ウェレスにある程度まで近づけば、彼は第三王子としての仕事を開始しなければならなくなる。それが嫌だというのではないが、ただの旅人――アイメアの料理人アクラスが指摘したように、よいところの坊っちゃんだと見抜かれたとしても――である気楽さはいったん、脇に置かなければならない。
「もちろん、責務は重々承知だが」
ヴェルフレストはにやりとした。
「奇妙な歌を追う、これもまた責務だというのは悪い話ではないな」
「本当にそう思っているのなら、けっこうなことだ」
店内にぱらぱらと拍手が湧いた。この店はどうやら吟遊詩人がよく訪れる場所であるらしく、客席の正面にある小さな舞台状の設えの上で詩人たちが代わる代わる演奏をした。たったいま演奏を終えたのは中年の男で、決して下手ではなかったが、曲に聴き入ると言うよりは背後で流れていてちょうどいいという感じであった。拍手がなければヴェルフレストは終わったことにも気づかなかっただろう。
見れば、舞台を降りる男に次のフィエテが何か話しかけ、お互いに肩などたたき合っているところだ。ヴェルフレストは何となく、舞台に注意を移した。
次なる弾き手は若い男で、客がほとんど注目していなくてもがっかりすることなく、椅子に腰を下ろすと調弦をはじめた。何度かしつこく同じ音を鳴らし、気に入らないと言うように首を振る。
「――弦が弱っているな」
「何?」
「吟遊詩人だ。彼の弦楽器の弦が一本、弱っている。あれで演奏をすれば、途中で切れるかもしれん」
「お前も何か楽器をやるのか?」
意外そうにカリ=スは問うた。嗜みだ、と王子は答えた。
「こちらだがな」
そう言って左手を軽く伸ばし、何かを掴む格好をしながら、やはり右手も何かを持つように軽く握ってその上を滑らす。成程、とカリ=スは言った。
弦楽器には撥弦楽器と擦弦楽器があり、旅の詩人が使うのはたいてい前者だが、後者もたまにいる。ただ、楽器自体が高級なものになり、それを奏でるのに必要な弓の管理も面倒なので、どちらかというと「貴族の嗜み」的な印象が強い。
「どうやらあの男は弦が切れそうなことに気づいているな。それでも奏でるか、引っ込むのかな」
ヴェルフレストは演奏自体よりも、詩人がどうするのかと思って二十代後半くらいの若者をじっと見ていた。詩人はひとつうなずくと、心を決めたように弦を弾き出す。
「――ほう」
それは、彼が耳にしたことのない曲だったが、特に顔を上げる客がいないところを見ればとても一般的な曲か、或いは逆に、ほとんど人に知られない曲ということになるだろう。だがヴェルフレストが感心したのはその選曲に関してだった。
「どうした?」
「いや、大したものだと思ってな。旅の詩人というのは、あれだけの技量を持つのか」
カリ=スが首を傾げると、ヴェルフレストは連れの方に視線を戻した。
「問題のある弦を使わぬ曲を弾いている。即興ならば、もっと大したものだ」
王子はすっかり興がり、詩人がそう長くはない曲を終えると拍手をして、給仕を呼んで詩人に心付けを託した。彼としてはその技への感嘆を示した、それだけのことであり、もうすぐにその詩人のことなど忘れてしまうところだった。当の吟遊詩人が、彼の席にやってこなければ。
「こんばんは」
「――何だ。先ほどのフィエテか」
ヴェルフレストは少し驚いてそれを見た。心付けを出す客は別に珍しくないだろうし、彼はそう大金を出した訳でもない。
「礼なら別に、要らんが」
「そう言わないで、お礼を言わせてくれないかな。あなたの顔を見るのははじめてだ」
詩人はそう言った。初めての客などもっと珍しくもないだろう、とヴェルフレストが首を傾げると、詩人は笑った。
「正直に言うとね、初対面のお客さんがラルをくれるときは僕の歌より僕の春が目当てのことが多いんだ。そうでなくても、酒の相手をしてほしいとか、旅の話を聞きたいとかね。だけどあなたは、それっきり僕の方を見ないだろう。ということは本当に歌を気に入ってくれたんだと思って、お礼を言いにきたんだけど」
「成程」
彼は改めて吟遊詩人を見た。「吟遊詩人」という職業がよく似合う優しい顔をしている。旅の詩人は春をひさぐこともあるという話は知っていたし、女詩人ならば彼も考えないではなかったけれど、彼にはクジナの趣味はない。
「歌、と言っても歌ってはいなかっただろう」
いい声をしているのに勿体ない、と思ったが、そのようなことを言えばまるで口説くかのようだったのでやめた。
「そうだね。だからなおさら訊いてもみたいのさ。あの曲のどこがお気に召したのかと」
「曲というより、技だな」
ヴェルフレストはそう言って、先に気づいたことを指摘した。詩人は目を見開く。
「驚いたなあ、気づく人がいるなんて。もしかして、楽器をやる?」
「多少な」
「やっぱり」
そうでないと判らないよね、と詩人は言った。
「ところで、吟遊詩人」
ヴェルフレストははたと思って声を出した。
「お前、この店にはよくくるのか」
「まあね。この街へきたのは一旬ほど前だけど、ほとんど毎日きてるよ」
「それじゃ、〈風謡いの首飾り〉の歌を歌う詩人を知らないか」
彼がそう言うと、詩人はふっと笑った。
「どこで聞いたの? それ、僕のことだと思うけど」
「お前が?」
ヴェルフレストはじろじろと詩人を見た。彼を買う気ではないらしいから気になった、と詩人は言ったが、この男がヴェルフレストを金持ちと見抜いて逆に陥としにきている可能性を少し考えたのだ。
「どこぞの酒場の娘に聞いた。題材が気になってな、聞いてみたいと思ったんだが」
「申し訳ないけど、弦を換えないとあれは弾けないなあ」
「詩人に対してこう言うのも気が引けるが、どんな物語なのか教えてもらえればそれでいい」
大して気が引けているとは思えない口調でヴェルフレストは言った。詩人はまた笑う。
「はっきりしているね。面白い人だな」
「話してくれるつもりがあるなら、座ってくれ」
彼が卓に招くと、詩人はうなずいた。
「いいよ。でも別に、珍しい物語でもないけれど」
「かまわん」
その返答に詩人は椅子を引いた。
「俺はヴェル。こっちはカリ=スだ」
「僕は」
詩人はほんの一瞬間をおいた。それは躊躇うようだったが、ヴェルフレストが特に不自然さを覚えない程度の間であった。
「リーン」
「よし、リーン。一杯奢ろう。ライファムでいいか」
やはりヴェルフレストは何も不審を覚えず、給仕を呼ぶ。ティルド少年を宝玉〈涙石〉と呼んだ吟遊詩人はうなずいた。
「どうってことない、恋歌だよ」
やってきた杯の中身をひとすすりしてから、リーンははじめた。
「恋する娘のために〈風謡い〉と呼ばれる首飾りを手に入れようとする若者の話さ。ありふれてるよ。〈風謡い〉じゃなくたって、何だっていいさ。ただ、きれいな言葉だから僕が気に入っただけ」
「古い歌か?」
カリ=スが問うた。リーンは首を振る。
「着想を得たのは、だいぶ前だけど、完成させたのはここ二、三年かな」
「――お前の創作か?」
「そう。……何? いけなかった?」
ヴェルフレストがわずかに息を吐いたのを見逃さず、リーンは言った。
「いや、何でもない」
彼は手を振った。まさかここで神秘的な予言が聞けるとも思っていなかったが、少しばかり落胆したことは隠せなかった。
「着想、と言ったな?」
その代わりに口を開いたのはカリ=スである。
「では、お前はそう言う首飾りが存在すると聞いたことがあるのだな」
「ああ、そういうこと」
質問の意味が判った、とリーン。
「君たちはそれを探してでもいるの? そう言う意味なら、僕の答えは南になる」
「南」
「レンディアル王陛下の王宮で歌ったことがあるんだけどね、そこで何とかって貴族に聞いたのさ。名前は忘れちゃったなあ」
「レンディアル?」
ヴェルフレストは眉をひそめた。
「レンディアル――ウェレス王、か?」
「そう。ウェレスの陛下だよ」
「はっ」
ヴェルフレストは皮肉げに笑った。
「けっこうなことだ。行き先が一本化した」




