01 逃げたと思うか
宮廷魔術師はじっと座り込んでいた。
朝の挨拶をして執務室に入ってきた小姓は部屋が薄暗いことに少し驚いたようだったが、窓の掛け布がそのままであることにすぐに気づいてそれを開けた。
ローデンは不意に差し込んだ陽射しにようやく朝がきたことと、小姓の姿に気づいたようだった。
「朝食をお召し上がりになりますか、閣下」
「ああ、そうだな、頼む」
「……一晩中、こうしていらしたのですか」
小姓はそのまま部屋を出ていこうとしたが、ふと振り返って問うた。
「差し出がましいとは思いますが、お休みを取られないのは身体にも、お心にもよくないと存じます」
「そうだな」
公爵は、余計な口を利くと小姓を咎めることはせず、同意した。
「埒の明かぬことばかり考えても、何にもならん。だが、それでも考えねばならぬこともある。どちらを採るかは難しいところだ」
宮廷魔術師がいったいどんな政策で悩んでいるのかは小姓の思い至るところではなく、彼はただローデンに礼をすると今度こそ部屋をあとにした。
簡単な食事をしてから大広間に向かい、朝の謁見と会議が終われば、時刻はもう昼と言われる時間帯に近づく。
本日もエディスンの行政には目立った問題はなく、少し珍しいことと言えば町憲兵隊が人員の補充を希望してきたことくらいだ。それの是非を下すのは――最終的にはもちろん王だが――近衛隊長や軍団長ということになるだろう。彼らが必要だと思ったならば、ローデンはそれに反対を差し挟むつもりはなかった。
「陛下、よろしいですか」
広間を退出し、自身の執務室へ向かおうとするカトライに、ローデンは足早に近寄った。
「どうした。……顔色が悪いな」
「若くもないのに、夜を明かしました」
ローデンは苦笑のようなものを浮かべた。王の脇に控える近衛兵は、ローデン公爵の滅多に見せぬ笑みに少し驚いたが、そのような様子は見せなかった。
「涙石の在処がようやく知れました」
ローデンの言葉にカトライはうなずいた。王は近衛兵に視線をやると、ここはもうよいと手を振って下がらせ、ローデンを執務室に促す。
吟遊詩人の歌や芝居師の物語にある「涙石」が魔術師たちの言葉で「ティルド」と言う、という話は以前にローデンがしていた。ティルド・ムール少年が〈風読みの冠〉を受け取りに言ったことはもちろん秘密でも何でもないが、冠が十年前と同じようには簡単に使者の手に渡ることがなかったことや、その使者がエディスンとレギスの往復路以外のどこにいるかも判らないことは、王と宮廷魔術師の間だけの話であった。
「それで、脱走兵はどこにいる」
執務室に入って人払いをしたカトライはかすかに唇を歪め、本当にティルドを脱走兵と思っている訳ではないことを示した。
「彼がお前の言葉に啖呵を切って、もうひと月か?」
王は言いながら窓の近くに設えられている長椅子に腰を下ろし、ローデンを招いた。魔術師は従う。
「ええ。彼は私に腹を立てていましたから、追うのが難しかった」
「お前が苛めるからだろう」
カトライは冗談めかして言った。ローデンは肩をすくめる。
ひと月近く前、レギスで再び魔術師協会を訪れてローデンと言葉を交わした少年は、魔術師が何も明確な指針を寄越さないことに怒りを募らせたのだ。
どこかの魔術師が冠を持っていったようだというのに、魔力を持つローデンが何もせず、魔力のない彼にそのまま任せるというのはおかしい、とティルドは言った。少年にしてみればそれは当然かつ真っ当でもっともなことであったが、エイファム・ローデンにとってはそれは異なる。
だがその理屈を魔法などと全く関わりもなく暮らしてきた少年兵に伝えるのは、難を要した。
ティルドはローデンに怒り心頭、〈風読みの冠〉を取り戻したくないなら勝手にしろ、と叫んで一方的に魔術のつながりを絶ったのである。ローデンが魔術の媒介となった術師と接触し直したときには、もう彼は協会をあとにしていた。
魔術師は、たとえティルドが任務を放棄して逃げ出したとしても追ったり罰したりするつもりはなかった。と言うのも、ローデンには見えていたからだ。ティルド・ムールの道は本人の意思とは無関係に、必ず〈風読みの冠〉につながると。
だが、少年が刑罰を怖れて逃げ隠れすることにでも心を費やせば、それは時間の浪費だ。彼が少年の行方を追っていたのは、逃げる必要はないと伝えたいためもあった。
「レギスからひと月あれば、〈ビナレスの臍〉も越えられような」
カトライは中心部のほぼ中心にある街の異名を使って言った。
「彼は逃げたと思うか」
カトライの問いにローデンは首を振った。
「そうではない。いえ、彼自身は冠になど何の関わりもないと思っておりますから、どうしようもないと思えば、それとも生命の危険にでも晒されれば、任務を放り出して二度とエディスンの地を踏まぬことも彼の脳裏には浮かびましょう。ですがそれまでは、私に怒りながらも冠を探そうとするでしょうね」
魔術師は少年の心を言い当てるように言った。
「彼はどこにいる」
「西へ向かっております。私の言葉に従ったのか、何かほかに理由があるのかは判りません」
「西に、何がある」
王は問うた。魔術師は、遠く西方を眺めるように目を細めた。
「私が見たのは彼に近い血を持つ助け手。ティルドには、兵士を退いた兄がおります。そのもののことと予測しておりますが」
「兵士と? エディスンのか。何故退役した。何か問題でもあったか」
「いえ、任務時の負傷により、兵士としてのご奉仕が難しくなったと。なかなかできた若者だった故、城はほかの仕事口も提案したようですが、それを受けずに街を去りました」
ローデンの言葉を聞いたカトライは考えるようにした。
「――しばらく前に奉公を解いた若い兵がいたな。彼か」
「ええ」
老兵の任を解くことはあるが、戦時でもないエディスンで、解雇でも辞職でもなく、若い兵士が正式に任を解かれることは稀である。その出来事は王の記憶にあった。
「ふむ」
カトライは難しい表情をした。
「ではエディスンはムール兄弟の奉公を受けておきながら、ろくに報酬を返しておらんことになるか」
「兄に関しては補償金が出ております。金の問題ではないと言われるのでしたら別ですが」
ローデンはそう言ったが、王の返答を期待した訳ではなかった。
「弟については、任務の達成次第ということになります。場合によっては」
魔術師はわずかに顔を曇らせる。
「彼が望んだ近衛の任程度では、その働きに追い付かぬことになるやもしれませんが」
ティルドが聞けば、いったい何をさせる気だ、とでも怒鳴りそうな――王陛下と公爵閣下の前であったならば心のなかで、ということになろうが――ことを言う宮廷魔術師をその主人はじっと見る。
「何が問題だ」
王は言った。術師の片眉が上がる。
「彼が順調にお前の助言に従っているのなら、休憩も取らずに私を追いかけて話をするまでもあるまい」
「気になることはございます」
ローデンは、王の指摘を認めるようにうなずいた。
「彼はひとりではない」
「どういう意味だ」
「そのままです。彼には連れができた」
「それが何だ」
判らないと言うように王は言いかけ、何かに思い当たってはっとしたようだった。
「運び手はひとり、か? そうあるべきだと?」
「そうです」
ローデンはまた言った。
「だが、それに何の意味がある? だいたい、十年前は問題なかった」
「ええ。十年前は」
魔術師は繰り返す。王は唸った。十年前と今年の間にどんな差があるか、いまでは歴然としていた。十年前になかったもの。それは、儀式を妨げようとする存在。
 




