07 最良の人選
アイメアは、活気のある自由都市だ。
エディスンの領地を離れてから、小さな町村を別にすればここが最初の街となる。
「やれやれ、ようやく辺りを気にせずに済むか」
ヴェルフレストはにやりとした。
まだエディスンに近い内は、通りすがりの街びとに第三王子であることを気づかれるのではないかと気遣っていたが──気づかれたからと言って特に問題はないが、騒がれても面倒だと思っていた──ここまで離れれば、彼を王子と認める者もあるまい。ヴェルフレストは気分よさそうにフードを外した。
「まずは宿を取ってひと休みといこう」
「ヴェル」
カリ=スが声を発した。はじめの頃は習慣で殿下と言いかけ、気づいて自ら直すということを繰り返していたが、彼も日々を送るうちに王子の愛称を呼ぶことに慣れたようだった。
「何だ」
「馬の調子がよくない」
カリ=スは自身の乗ってきた馬を気遣うように首を撫でた。
「そうか、ならよい馬と換えよう」
「駄目だ。この状態で売れば、役に立たないと肉にされる」
「──だが」
ヴェルフレストは眉をひそめた。
「役に立たないだろう」
「きちんと手当をして、数日休ませれば回復する。獣医師の助けが要る」
「面白いことを言うな」
王子は感心したように腕を組んだ。
「獣医師? 馬の手当をするだと? 砂漠の民というのはそういう風習を持つのか」
「当然だ。砂漠馬は強いが、馬は彼らのようにはいかない。だが弱いことは、治療もせずに殺す理由にはならない」
回復しなければ肉にするのも当然だが、と砂漠の男はつけ加えた。
「ふむ」
ヴェルフレストはじろじろとカリ=スと馬を見比べるようにした。
「馬に乗り物以上の考えを持ったことはないが、そういうのもなかなか面白いな」
「面白がることではない。手当が要る」
「それなら」
王子はぐるりと周囲を見回した。
「そこの青い扉の宿に部屋を取っておく。用件が終わったら」
「駄目だ」
「『駄目だ』?」
ヴェルフレストは繰り返す。
「何がだ」
「勝手にひとりで歩き回ること、だ。ヴェル」
「何だ」
彼はにやりとした。
「お前は、専属の護衛のつもりか」
「つもりではない」
カリ=スは首を振った。
「そのものだ」
「おいおい」
ヴェルフレストは笑った。
「いきなり何を言い出す。お前は俺の連れで、万一にも街道で魔物や賊の類に遭遇したときに――」
「違う」
砂漠の男はまた言った。
「どこであろうとお前を守るのが私の務め。これまではエディスン領だったがこれからは違う。私は陛下に約束をした」
「俺を勝手に出歩かせないとでも? 馬鹿を言うな。ここがエディスン領でないことなど承知だ。つまり、ようやく俺は気兼なく好きにできるということで」
「ヴェル」
カリ=スは彼の主人の両肩を掴んだ。ヴェルフレストはどちらかと言えば長身であったが、細身だ。歴戦の兵であるカリ=スはずっと力強い身体と、十ファイン近く高い身長を持つ。こうされれば自分は子供のようだな、とヴェルフレストは思った。ティルドのように腹を立てることはなかったが。
「私はカトライ様にご恩がある。砂の神の名にかけても、彼の息子を危ない目には遭わせない」
カリ=スはじっとヴェルフレストを見た。ヴェルフレストも、また。
「いいだろう」
王子はふっと笑うと、肩の手をゆっくり払うようにした。
「成程、最良の人選という訳だな。父にどんな恩がある」
「我が命と我が部族を救っていただいた」
「それはまた」
カトライ王の息子は軽く目をみはる。
「大恩だな」
「その通りだ」
ヴェルフレストは特に茶化したのではなかったが、もしそうであってもカリ=スは同じように淡々と応答しただろう。
「よし、獣医師か。探してみよう。そのあとで」
王子はにやりとした。
「お前と父上の話でも聞かせてもらおう」
それは、なかなかに目立つ二人組であった。
アイメアくらいまで内陸に入れば船乗りもいないから、まずカリ=スの黒い肌は比較的目立つ。
それだけでじろじろと見られるようなことはないものの、その隣を行くヴェルフレストの肌色は淡く、なおかつ明るい金髪に碧眼。当人はうまく隠しているつもりでもどうしても出る育ちのよさは、最低でも下級貴族の息子を思わせた。
いいところの息子ならば護衛を従えていてもおかしくはないが、それが海の男だの砂漠の男だというのは奇妙な話で、彼らが自由都市を連れ歩くと、彼ら自身が思っている以上にふたりは目立った。
だがそれでも、ひとりでヴェルフレストを放り出すよりは厄介が少なかったかもしれない。
多少の面倒ごとならば、王子にしては世慣れた彼は切り抜けるかもしれない。たとえば、掏摸にでも狙われればヴェルフレストは気づくだろう。だが、それは次なる面倒を招くことになる。盗ったの盗っていないのと騒動になれば、盗賊たちにも、場合によっては町憲兵たちにも余計な目もつけられるし、ことに前者に気に入られでもすれば、夜道を気軽に歩けまい。
ヴェルフレストがどう言おうとそれらがカリ=スの心配の種であり、いくら奇妙なふたり連れに見えたとしても、男は恩人の息子から離れまいと考えていた。
かと言ってその代わりに自身の意思を曲げることはしない。まだ働ける馬を飢えてもいないのに肉にすると言うのは、砂漠の民である彼の感覚では有り得ないことだった。
「獣医師だって?」
だが――そのあたりの街びとを捕まえて適当に尋ねてみても、反応ははかばかしくなかった。
「このあたりじゃ聞かないな」
幾人かに尋ねても答えは変わらない。つまり、ここは「西の地」で、ヴェルフレストの感覚の方がまかり通るのだ。馬が使えなくなれば、買い換えればいい。
「お前の馬はどういう症状なんだ?」
ヴェルフレストは砂漠の男に尋ねた。
「熱がある。疲労からきているだけかもしれない。休めば治るとは思うが、薬があればもっとよい」
「薬、ねえ」
王子は顎を掻いた。従僕と鏡のない生活は、そこに王子殿下らしくないものを与えていた。髪と同じ色のそれはあまり目立たないが、無精髭、というやつだ。この慣れぬものの感覚は王子にとってなかなか面白かった。




