05 東の男
初秋になり始めたとは言え、北方のエディスンではいつでも太陽が力を持っており、中庭に設えられた白い卓と椅子の上には陽射しを避ける天幕が張られていた。
その下で、リーケルは顔を曇らせる。
「中心部、と仰るのですか」
心配そうに声は繰り返した。
「まあ、それではヴェル様も遠くへ行ってしまわれますのね」
「寂しいですか」
ヴェルフレストは、彼ができるうちで最高級に魅力的に見える笑顔を浮かべた。たいていの姫ならば、彼の身分がもたらす相乗効果でうっとりとなるか顔を赤くでもするところだが、リーケル・スタイレンはそうならなかった代わりに真顔でうなずいた。
「ティルド様がおでかけになってからもう、ひと月以上。ヴェル様がこうして時折訪れてくださらなかったら、寂しさのあまり床についていたかもしれませんわ」
「それはいけませんね」
ヴェルフレストも真顔で返した。
「私は、彼が帰ってくるまであなたを守ると約束したのだが」
「お仕事ですものね。長くなりますの?」
「とても」
ヴェルフレストはうなずいた。
「歩を進めるほどにあなたから遠ざかるとなればたとえミセイが目的地でも我が心には長すぎますが」
王子は、エディスンから徒歩でも一日かからずたどり着ける隣町の名を口にした。ティルドが聞いたら大爆笑か、よくもまあこんなことが言えるものだと顔をしかめるかしそうな台詞を口にした王子は、芝居がかってため息をついた。中庭の端で控える侍女ファーラに声が届いていれば、彼女は笑いと――突っ込みをこらえることに全精力を傾けなければならなかったであろう。
「ええ、中心部を越え、南方まで旅をします。おそらく、〈風神祭〉に戻ってくることも難しいかと」
「まあ」
リーケルは驚きに目を見開く。
「殿下が祭事にご出席されないなどとは、不吉ではありませんの?」
「父はそう思わなかったようですね」
ヴェルフレストは小さく息を吐いた。
「リーケル。あなたに会えぬ日が続くと思えば、明日も灰色のようだ。その代わり、あなたの周辺は明るくあってほしい。毎日、花を贈りましょう。あなたが私のことを忘れてしまわないように」
言いながらヴェルフレストはリーケルの手を取った。
「お忘れするはずがございませんわ」
リーケルもその手を握り返すが、第三王子はティルドと違って、この姫君が、よく言えば天真爛漫、言うなればちょっとばかりずれていることを理解していたから、握り返された手に必要以上の期待はしない。彼にとってこういった行為は、女性を口説くためと言うより一種の通過儀礼だった。
侍女ファーラが指摘するように、放っておいても女が寄ってくる身分に生まれた彼は、誰かを思って身を焦がすような経験をしたことはない。そのような感情は王族たる身には厄介なだけだと知っていたこともあるが、そうと知りながら苦しむというような段階にも心をさまよわせたことはなかった。
リーケルに対しても、同じである。
好みの顔と声だから贔屓にするが、彼女に異性として惹かれている度合いを言うならばティルドの「ほのかな憧れ」の方がずっと強いくらいだ。
とは言ってもかの少年が王子殿下に対抗心を抱くのは、恋心の果てと言うよりもおそらく男としての対抗意識、平民の意地、そう言ったものの方が大きかったかもしれない。
ティルド自身はもとより、ヴェルフレストもそんなふうに思ってはいなかったが、彼らは互いの敵愾心をこそ楽しんでいたかもしれなかった。
少なくともヴェルフレストの方は、ティルドがリーケルに憧れるのを面白がっている節がある。それは、その身分において圧倒的に優位にある者の余裕であったかもしれないが。
「では、ヴェル様もティルド様のように、ひとりで旅をされるのですか?」
「私としては望むところでありますが、さすがにそれはならぬと」
ヴェルフレストは少し笑うようにして言った。
「王妃様はご心配なのですわ」
リーケルが言うのに、軽くうなずく。
カトライ王と魔術師ローデンは、彼が血を分けた息子であろうと第三王子であろうとひとりで放り出すつもりでいたが、王妃サラターラがそれを非難したと言う。
彼は、三兄弟のなかでいちばん王妃に受けがいいと言うことになっている。と言うのも、サラターラは兄ふたりよりもヴェルフレストを呼び出して茶をしたり、食事を取ったりすることが多いからだ。ヴェルフレストが旅に出されることすら得心しない王妃サラターラが、エディスンでいちばんの剣士を息子につけることを了承の条件にしたと言う。――と言うことに、なっていたのだ。
実際のところは、違う。
王妃は第三王子に特別の愛情を抱いているのではなく、夫である王に複雑な感情を抱いている。
王であるサラターラの夫は公務に忙しく、決してよき家庭人ではない。
これはカトライ王に限った話ではなく、余程の熱愛の末に結ばれたのでもない限り、高位の貴族の夫婦関係というのは、形式的なものになることが多かった。
カトライは、王位にあるにしては妻を気遣い、常に優しく接していたから、傍目には夫婦仲はとてもよいように見える。
だが息子たちは知っていた。
母が望むような形では、父はよい夫ではないのだ。
ヴェルフレストがサラターラによく呼び出されるのは、彼がいちばん若い頃の父に似ているせいである。
もちろん母は息子と夫を取り違えたり、息子に対してその父親であり王である夫への不満を直接にぶつけることはなかったが、何気なく洩れる言葉の端々から伝わるものはあった。
たとえば、やはり母は息子の向こうに夫の姿を見ているだけで、この三男にだけ深い愛情を抱いている訳ではないこと。それどころか、もしかしたら、カトライに似ているからこそ本当は気に入ってなどいないこと。
しかし、ヴェルフレストはどうでもよかった。
母に愛されていようがいまいが、彼は別に気にしなかった。ただ、女と言うのはややこしいな、と思うくらいのものである。
それよりも現実的に、気になるのはこちらだ。
「エディスンでいちばんの剣士」を彼につけることにしたのが本当に王妃の希望であるかどうかはともかく、父とローデンは決して彼をひとりで立たせようとはしていなかった。ローデンは、誰とは言わなかったが、供をひとりつけると言ったのだ。となると、もしかしたら「王妃の希望」などというのは噂にすぎず、本当にそうしようと考えているのは彼らなのではないか。
ならば気になるのは、何故その男なのかということ。
「異論は、出なかったのか」
「何についてでございますか、殿下」
「まずは、いちばんの剣士とやらを第三王子ごときの外交訓練につけることについて」
「王妃様のご希望でございます」
「では、その次に。カリ=ス、お前が都市いちばんの剣士だということには?」
「その二点をおっしゃるならお判りでしょうに」
浅黒い色の肌と黒い髪を持つ三十歳前後の男は淡々と言った。
「第一には信頼されていないから都市から放り出せる。第二には、信頼されているから殿下の護衛の任を託されるのです」
「ふん」
北の海に面するエディスンは陽射しが強く、その住民の肌は日に焼けていることが多かった。だが王宮に暮らす類の人種は日焼けとは縁遠く、王も王子も抜けるような、とまではいかないが明るい色の肌をしていた。
ティルドの肌は生来それほど黒くはないものの、決して上等とは言えない暮らしと二年の軍隊生活は、少年の肌を健康的に小麦色に焼けていた。一方でヴェルフレストの肌色は薄いものだ。
そしてカリ=スはと言えば、どちらとも異なった。
エディスンのように海岸線にある街では海の男は珍しくないどころか、住民の半数近くはその関係の仕事に携わる。西海岸あたりでは船乗りだろうと予測されそうな黒い肌は、だがどこか趣きを異にした。生来の船乗りが多いこの土地なればこそ、彼が海の男でないことは明らかだった。
カリ=スの出身は東、大砂漠にほど近い辺りとされている。
正確なところを言えば――「ほど近い」ではなく、大砂漠そのものだった。
交易の盛んなこの街は余所者と言って遠来者を敬遠するようなことはないが、正直な言い方をすれば砂漠の人間と言うのは物珍しい。突然に現れて王に剣を捧げると言ったカリ=スが城に雇われた理由は、珍しさからと言ってもよかった。
実際のところを見れば確かになかなかの剣士であるが、その評判よりも「東の男」という評価が先行する。
ヴェルフレストはカリ=スの剣技を認めていたが、街いちばんの使い手を誰か挙げよと言われたらエディスンの人間のなかから選ぶだろう。言うなれば、カリ=スという「東の男」は、「第三王子」がそうであるように、何とも微妙な位置にいる兵士なのだ。
「お前とふたり旅か」
ヴェルフレストはにやりとした。
「いいだろう。お前は、ファーラと同じ匂いがする」
「何ですと?」
第三王子の侍女の名など知らない戦士は片眉を上げた。知っていれば、もっと困惑しただろうが。
「つまり、俺の身分に必要以上の気を回さんと言うことだ。それは悪くない」
「無礼を働いてもお許しいただけると」
「バルトがついてくるとさえ言い出さなければな」
厳格な侍従長の名を口にして王子はにやりとした。
 




