02 知らずに済むなら
ティルドはぽかんと口を開けた。
「何だって?」
聞き返したが、聞き取れなかった訳ではない。
「辞めた!?」
「そう」
スタイレン伯爵家の使用人は、肩をすくめて言った。
「い、いつ」
「つい昨日のことだよ。ほら、ティルド。あんたがリエスに恋文を持ってきて」
「違えよっ」
ティルドはまず、即答した。
「あれは俺からじゃないし、恋文でもない。たぶんな」
万一にもそうだったら面白いことだ、と思っていたが、この状況はあまり面白いとは言えない。
「何でもいいけど」
使用人を仕切る役割も負っていると見える年嵩の女性は手を振って続けた。
「あのあと、早引けをしてね、どこかに行っていた」
魔術師協会だろう、とティルドは思った。ローデンの予測通り、少女は文字を読めなかったのだ。
ティルドは簡単な読み書きなら問題なくできるが、ローデンの言葉は難しそうだ。第一、宮廷魔術師は、彼女が読めないようなら代わりに読んでやれとは言わなかった。協会に行かせろと言ったのだ。
手紙の内容は気になったものの、魔術師の要望、或いは命令に逆らうというのはあまりわくわくする冒険譚ではない。
それに、ティルドが知っていいことかどうかはリエスが決めること――らしい。
「彼女、てきぱきしていい娘だったけど、決まりごとを守るのは苦手だったみたいだね。騒ぎも何度か引き起こした。同年代の娘と大喧嘩だよ、たいていの娘なら口先の応酬だけど、彼女は手が出るのも早いね。あの娘はこういう勤めに向かないよ、いい即断をしたんじゃないかな」
女はそんなことを言い、ティルドはつい、短剣ではなく手で済んだのなら幸いだ、などと思った。
「辞めた理由にも、いろいろな噂が立ってるよ。あんたが結婚を申し込んだんだとか」
「冗談っ」
「それとも、可愛い顔してほかにも男がいて、そっちを選んで駆け落ちするんだとかね」
「それも……面白い冗談じゃないな」
ティルドは唇を歪めた。
「じゃあどこへ行くかとか何にも言ってないのか? この先どうするとかって」
「伝言ならちゃんとあるさ、近衛兵」
女は片目をつむった。
「〈海竜の洞窟〉亭であんたを待ってるって。早く行ってやんな」
「ありがとなっ」
言うなりティルドは踵を返し、城下への最短距離を駆け抜けた。
風が気持ちいい。
〈風神祭〉の余波はまだいたるところに残っていたが、街は少しずつ日常を取り戻そうとしていた。
祭りは、祭り。十年に一度の大々的な――そしてちょっとした、楽しみだ。
風具も風司も街びとたちには関係がない。〈風司〉と呼ばれる地位を第三王子が継ぐというのも、発表された当初は少しばかり騒ぎになったものの、いまでは「お偉い人たちがそれがいいと考えたんだからそれでいいんだろう」という程度に落ち着いている。
年若いとは言え、明らかに城の制服を身につけた少年が街並みを走ってくると、人々は何だろうというようにティルドを見つめた。近衛の制服は軍兵のそれよりも目立つ、ということをまだ実感できていない少年はその視線を無視して、何度かリエスと食事をした――逢い引き、では決してない――食事処兼酒場へと駆け込む。
「リエスっ」
「ティルド、遅ーいっ」
不満そうな声にがっくりと肩を落とした。これでは本当にラウンに待ち合わせた恋人同士で、遅刻を怒られたかのようである。
「お前なあ、何だよ、辞めたってどういうことだ。ローデン様に何言われたんだ。いや、言った訳じゃないだろうけども」
「落ち着きなさいよ、みっともない。制服くらい着替えてくればいいのに。……あ、もしかして仕事中なのに抜け出してきた?」
「そうだよ」
ティルドはむっつりと言った。
「ちょっと様子を見に行くだけのつもりだったのに、辞めたとか聞いたからさ」
「あら」
リエスの指摘は冗談であったらしく、少女は目をしばたたく。
「別に、上がってからでよかったのに」
「そうしたら、仕事くらい抜け出してこいって言うんだろうが」
「そんなこと。言うかも」
少女は澄まして言うとにやりとした。
「でもまあ、会えてよかったわ。あたし、行くから」
「はあっ?」
ティルドは叫ぶようにする。
「行くって、何だよ。どこに」
「やだ、ローデン様から何も聞いてないの?」
「お前から聞けって言われた」
ようやくティルドは椅子を引くことを思いつき、背もたれのないそれに座り込むと向かいのリエスを睨みつけた。
「で、何なんだよ、ローデン様の『重要な話』ってのはさ」
「あたしに仕事、見つけてくれたのよ」
「はあっ!?」
ティルドはまた叫んだ。
「そりゃ、お前は伯爵家には向かなかったかもしれないけどさ」
「どういう意味よっ。ちゃんと立派に仕事してたわよっ」
「喧嘩騒ぎも起こしたって聞いたけど?」
「あれは向こうが悪いのよ。新人だからって素直にいびられると思ったら大間違いなんだから」
「いびるって、お前を?……性質の悪い獲物を見つけたもんだなあ」
「失敬ね。言っとくけどティルドのせいだからね」
「何でだよっ」
「当たり前でしょ。風具――祭りのための冠を盗賊から取り戻し、近衛兵に抜擢された若き兵士。何と伯爵令嬢と仲良しという『掘り出し物』で、素性も知れない小娘をスタイレン家の使用人にするだけの力も持っている。いったいどうやってそんな上玉をたらし込んだんだとか、散々言われたんだから」
「上……たらし……」
繰り返してティルドは目をしばたたいた。スタイレン家の使用人たちは礼儀正しくて、とてもそんなことを言うようには見えなかった。と言ってもリエスが嘘をついていると思うのではない。多少の言葉尻は違うとしても、実際にそのようなことは言われたのだろう。
となれば、自分はリーケルの客人だったから丁重にされていたのだな、と彼はいまさらのように気づいた。
「給金はよかったけど、未練はないわ。生きる手段なんてどうとでもなるもんだし」
「まさか」
ティルドは顔をしかめた。
「盗みに手を染めたりは」
「馬鹿っ、そんなことしないわよっ」
少女盗賊と同じ顔をした娘が今度は顔をしかめた。
「ちゃんとローデン様にいい職場をもらったって言ってるでしょ」
「それだ」
ティルドは身を乗り出した。
「どういうことだよ。ローデン様に再就職相談でもしたのか、お前」
「公爵閣下にそんな相談、できる訳ないでしょうが。だいたい閣下とはエディスンにきて一度、ティルドと一緒にお会いしたきりよ」
「なら何で」
「理由は知らないわよ。〈星巡り〉じゃないの」
少女の言い様にティルドは苦笑した。リエスはほとんどローデンを知らないも同然なのに、彼がいろいろと――主には文句を――言っていたせいか、宮廷魔術師に対する印象はティルドのそれに近いようだ。
「何でもねえ、ほら、ティルドが風具の力なくしてくれたでしょ。あれで、声の問題はなくなったんだけどさ」
「ヒサラの薬、飲まずに済んでるのか」
「飲んでるの」
「……ん?」
ティルドは首を捻った。
「飲んでるんなら、問題がなくなったかどうか判らねえじゃねえか」
「違うのよ。ヒサラは飲みやめちゃ駄目だって言ったけど、試しに一日、やめたの。そしたら、声は出てたけどさ、体調おかしくしちゃってたいへんよ」
「……変な成分入ってんじゃねえのか」
「ちょっと。ヒサラはいい人よ。おかしな薬なんか持ってこないわ。アロダさんじゃあるまいし」
その名にティルドは、ほとんど反射的に呪いの言葉を吐いた。
「問題があるのはあたしの身体って訳。やっぱ、例の神官たちにかけられてた術の影響が残ってるんですって」
ローデンは少女自身に対しても、ティルドに説明したのと同じような話をしていた。――知らずに済むなら、それに越したことはない。
だが、ティルドの内にふと蘇った言葉がある。
作り物。
(馬鹿げてる)
ティルドは浮かんだ単語を頭のなかで蹴り飛ばした。
(ローデン様は言った、こういうのは、呪いみたいなもんだって)
(そう、実際の魔術じゃなくても、俺が気にするようなことを言って俺が気にすれば、リグリスの呪いの完成)
(冗談じゃねえ。負けねえぞ)
死体。
(生きてるじゃねえか)
模造品。
(似てるだけだ)
「どしたの?」
「どうもしねえよ」
ティルドは唇を歪めると、暗い思いを振り払うようにそっと厄除けの印を切った。




