01 お前次第だ
手入れの行き届いた石だたみを腕のよい御者が操る上等の馬車が行けば、揺れはほとんど感じられない。
ヴェルフレストは掛け布を下ろしたままの窓枠に肘をつき、むっつりと黙っている。傍から見ればそれは、ずいぶんと虫の居所でも悪いかのようで、たいていの者なら〈神様の不興を買わないためには興味を引くことを避けろ〉とばかりに近寄らないだろう。
だが第三王子の護衛剣士となった砂漠の男は、「近寄らない」という訳にはいかない。いや、カリ=スはヴェルフレストの不興を怖れることはないが、そもそもヴェルフレストは不機嫌になどなっていなかった。
「考え込むほど興味深かったのか」
カリ=スは声をかけ、王子は振り向いた。
「まあ、そうだな。そういうことになるのかもしれん」
珍しく曖昧な返答に、カリ=スは首を傾げた。
「以前、俺がライティアに用意した花を見ただろう」
「珍しい花だということだったな」
「そうだ」
ヴェルフレストはうなずいた。
心を入れ替えた──という訳ではないが、高位の貴族の姫と結婚をするのも彼の仕事のひとつだ。父の決めることに逆らうつもりは以前からなく、婚約準備も順調だ。
もう少し努力をして婚約者予定殿に歩み寄っておくべきだと二番目の兄に散々言われた彼は仕方なく花など抱えて訪問し、少しばかり語らって帰るところであった。
「彼女が夜会でよく身につけるような、淡い紫色をした花だ。シリナールと言ったか。滅多に手に入らない貴重で高価な花だと言うから、贈るにもちょうどいいだろうとあれにした」
「喜ばれなかったのか」
「そんなに自分が嫌いなのかというようなことを言われた」
ヴェルフレストは首を振って答えた。
「何でも、シリナールは花にこそ害がないものの、球根にはシリンアントルという猛毒が含まれているそうだ。そんなものを贈るのは嫌がらせだろうということだな。花売りはそんなことを言わなかったし、そのようなつもりはないと言ったら、無知というのは時に罪悪だとまで言われた」
「博学な姫君なのだな」
「そうだ」
ヴェルフレストは天を仰いだ。
「博士と言われるだけの学識を持っている。どうにも、話が通じぬことが多い」
「もともとはデルカード殿下の婚約者として教育を受けられたという話を聞いた」
「よく知っているな」
ヴェルフレストは片眉を上げた。
ライティア・ワーカスは第一王子の花嫁候補、つまりは王妃候補のひとりだった。
だが兄王子は五年ほど前、ファンリオ第二王女レイアナと熱烈な恋に落ちた。
それはよい結びつきで、ワーカス侯爵も渋々とそれを受け入れた。その後はもちろん第二王子の妻にという話になったのだが、ウォール伯爵に出し抜かれ、キエネラ・ウォールがミラオレスの妻に決まった。
ワーカス侯爵としてはあとがない。第三王子の権力などたかが知れているが、こうなると意地のようなものだろう。こうして三番目に順番が回ってきたというところだ。
ライティア自身はどうでもよいと考えているところがあるようで、王妃になり損なっただの、第三王子の妻などという微妙な座など欲しくないだの、そういった愚痴は――ヴェルフレストの前だからではなく、悪い噂を流したがる宮廷雀たちからさえ――出ていないようだった。
それは重畳と言ってよかったが、仮に文句を言われたところでヴェルフレストのせいではない。
「彼女が得たのは王妃に必要な知識にとどまらない。俺が訪れたときは、何とか言う数学者の素晴らしい本を読んでいたところだったらしい」
「お前の訪問は邪魔だとでも言われたか」
「はっきりとは言われなかったが、そのようなところだろう」
どうでもいい、とばかりにヴェルフレストは言った。彼はライティアと仲良くしたい訳ではないし、べたべたと媚びるように寄ってこられるよりは余程ましだ。
以前にはヴェルフレストは気軽に女遊びをしたものだが、このところはずっと影をひそめている。周辺には、それは婚約を控えてふらつくのをやめたのだと思われていたが、そうではないことをカリ=スは知っていた。
「ライティアに小難しい話を聞かされるより、リーケル辺りと気軽な話をしている方が楽だと思っていたが、いまではどちらも同じようなものだ」
ならば、相手はひとりでいい、などとヴェルフレストは呟いた。
「ライティア姫は、賢いお方だ」
カリ=スは言った。
「お前の訪問が嫌々ながらであることをお気づきなのだ。それならば無理に訪れる必要はないと、そう仰っているのではないか」
その言葉にヴェルフレストはにやりとした。
「まるで彼女を知っているようだな?」
「少しならば」
やってきたのは意外な返答だ。ヴェルフレストは目を見開いた。
「先日、侯爵閣下とともに王宮にいらっしゃっただろう。お前が陛下や閣下と語らっている間、姫君は私に話しかけられた」
「……それは」
ヴェルフレストは目をしばたたいた。
「いささか、想定外だ」
貴族の姫君というのは貴族だけが人間だと思っているところがあって、王子の護衛剣士などが口を利くこともあるとは考えないものだ。ライティアが型通りの姫君でないことは知っているが、わざわざ話しかけるというのはどうにも予想の範囲外だった。
「何を話した。あの知識神の申し子のような姫が、まさか大砂漠の神秘的な物語を聞きたがったとも思えぬが」
ヴェルフレストの護衛について以来、カリ=スは妙に侍女たちに人気がある。神秘的だ、というのがその大きな理由のひとつらしい。いまでも亡き妻を愛するラスルの男がそれにだらしなく喜ぶようなことはなかったが、真面目な気質から真面目に応対し、いっそう人気を得ているというあたりだ。
王子としては、自身の護衛がその場にいないかのように無視されるよりも、多少の心得違いがあろうと人気を博している方が喜ばしいと思うところがある。しかしライティアが神秘を喜ぶとは思えなかった。
「民の暮らし、長の話、砂漠の天候、魔物の生態、お話ししたのはそのようなことだ」
「成程」
文化学、政治学、気象学に生物学という訳だ。ヴェルフレストは納得した。
「姫が仰るには、砂漠が神秘であるのは未知ゆえであり、現実を知れば現実になると」
カリ=スは言い、ヴェルフレストは片眉を上げる。
「意外だな」
「何がだ」
「お前だ。ライティアにそう言われて、嬉しかったんだろう」
今度は砂漠の男が片眉を上げる番だった。
「そうかもしれぬな。私にとっては砂漠は現実で、伝説ではない。不思議な物語だと言われて喜ばれるよりも、ちゃんと地に足がつく気持ちになった」
「地に足――か」
ヴェルフレストはふと、見えぬ外を見るようにした。
「俺はときどき、足元が覚束ない感じがする」
どこか遠くを見たままで王子は言った。
「ライティアとの婚約の話も進めば、いずれ俺がどこかの領地を継ぐために覚えねばならぬことも山のようだ。嫌だと言うのではないぞ。責務だ。以前から判っていること」
ヴェルフレストは続けた。
「いままで兄上だけに任されていた〈風司〉に関する勉学や本格的な外交に関わる学問。これらは、新しいことだ。父上に認められたということでもある。悪い気はしない。だが」
そこで、彼は言葉を切る。カリ=スは黙って続きを待った。
「覚束ない。慣れぬ足が砂地を踏みしめた、あのときのようだ。帰ってきた日常と現実に生きていると、ふと……彼女のことが夢だったのかと思う」
誰のことであるのかは、名を出さずともよかった。
「カリ=ス。俺はいつか――忘れてしまうだろうか」
白い髪に赤い瞳をした不吉な魔女。彼の心を掴んだ不思議な女。彼の、神秘。
現実に生き続ける内、いつかは忘れるのだろうか。奇妙な思い出だったと、たまに思い出すくらいで。
「お前次第だ」
砂漠の男は短く、言った。
「私は、死んだ妻を忘れていない。だが、そのぬくもりは忘れてしまった。彼女を思えば、変わらぬ愛と変わらぬ痛みを覚える。忘れたいとは思わない。忘れる日がくるとも。ただ、私の心がどうあっても、事実は変わらぬ。彼女は去り、私は生きている」
その口調はいつも通りに淡々としていた。
「私は妻を愛している。いつか、違う女を愛することがあるかもしれない。それでも、妻への愛は変わらないだろう」
「――そう思えるようになったのは、いつだ」
「――さあ。いつだったろうかな」
砂漠の男はそこで口を閉ざした。王子も、問うことをやめた。
伝説のような砂漠の土地。そこで、カリ=スという男がひとりの女を愛し、失った現実。
非日常に彩られた旅路。そこでヴェルフレストが出会い、失った女。神秘で、そして現実。
「忘れぬな」
その呟きは、カリ=スにさえ聞こえなかった。
馬車は、石畳を行く。




