03 忙しいかい
ユファス・ムール青年はこれまでいろいろな形で「死ぬような目」に遭ってきたが、いちばん命が危うかったのは、実はこのときだったかもしれない。
「……これはないんじゃないの、これは」
言いながら白い調理着を身につけた彼は、左背後の壁に勢いよくぶち当たって落下した木じゃくしを拾い上げた。
「当たりどころが悪かったら死んだかもしれないよ。殺人だよ、料理長」
「うるさい」
アーレイドの下厨房料理長であるトルスは、罪悪感のかけらも感じさせない声音で言った。
「よくもまあ、よりによってこの時間帯に入ってきて、呑気に言えるもんだな、ああん? よりによって『忙しいかい』だと? 見て判らないなら帰れ!」
「ごめん」
ユファスは素直に謝った。確かに、いまはもっとも厨房がてんやわんやになる、夕飯時真っ盛りの時間帯だ。
そんなときを選んでやってきた訳ではなく、むしろこの時間なら手が要るだろうと思っての顔見せだった。だが彼はそんなことで恩を着せる性格ではない。それどころか、確かにトルスの言う通りだ、殺されかけるのも無理はない――などと納得をしたくらいである。
「腕を鈍らせてなきゃ、とっとと位置につけ! 復帰訓練が要るなら、ディレントの指示に従え。話はあとだ!」
「了解、トルス」
ユファスは懐かしい料理長の懐かしい怒声に少し笑んで、前掛けを締め直すと歓迎する仲間たちの輪に入っていった。
久しぶりの「戦場」は、勘を取り戻すまでにかかって、ユファスは幾度となくトルスの罵声を浴びた。以前ならば神妙な顔をして素直に反省をするところだが、この日はどうにも笑みがこぼれる。
「何がおかしい!」
「ごめん」
料理長の怒声が飛ぶ。しかし謝る青年の顔からは、どうしても笑いが消えなかった。
「嬉しくてさ」
帰ってきたと思う。
アーレイドの門をくぐっても、城の門番に迎え入れられても、どうにも違和感があった。
とても奇妙な体験をしてきたあとでは、日常の暮らしに戻るのに時間がかかると思っていた。
だがとんでもない。トルスの怒声は、一気に彼をアーレイド城の下厨房に引き戻した。
ようやく、帰ってきたと思う。ユファスはそれが嬉しかった。
「……阿呆か、お前は」
戦の第二陣、つまり夕飯の支度と提供、及び片づけが終われば、そのあとは戦士たちの休息の時間である。
今宵の賄い当番は料理長自身で、帰ってきた早々にトルスの飯にありつけるというのは何とも僥倖だとユファスは思い、そう言った。それに対するトルスの台詞が、それである。
「帰ってきたばっかりだと? どこに行ってたのか知らんが、休みもしないでここまできて、それで仕事についたってのか?」
「そう」
ユファスがあっさりと言うと、厨房の仲間たちは呆れた。
「阿呆だな」
「よく保ったな」
「今日は、最近になく忙しかったのに」
「そりゃあ」
ユファスは肩をすくめた。
「ここで倒れたりしたら、本当にトルスに殺されるだろ」
「当たり前だ」
料理長は鼻を鳴らした。
「健康体ならけっこうなことだ。もし、いまは気が高ぶってるだけだなんてことで、このあとぐったりとなって……明日の朝、遅れでもしたら許さんからな」
「それじゃ」
ユファスは目をしばたたいた。
「また、雇ってくれる訳」
「さっきまでしっかり働いといて何言ってんだ、お前は」
「それを尋ねる状況じゃなかったろ。そんなこと訊いたら、今度は包丁でも飛んできたと踏んでるけど」
「馬鹿言うな」
トルスは唇を歪めた。
「さっきは悪かった。俺も驚いたし」
「驚くと人を狙ってものを投げつけたくなるのかい?」
「厨房でのほほんとしてる料理人を見たら誰だってそうしたくなる」
そんなのはトルスだけだ、という突っ込みが端々から起こる。
「お前らは料理人根性が足らん」
料理長はからかいの声をそう切って捨てると、立ち上がった。
「トルス?」
「待ってろ」
言うとトルスは食卓を離れた。懐かしい友人たちと歓談をしていると――どうしていたんだ、という問いにどう答えるかは決めていなかったので曖昧な言い方になった――戻ってきたトルスに気づいた料理人たちから歓声が上がる。
「おお、料理長、太っ腹!」
「そうだよなー、ユファスの帰還だ。祝わなけりゃな」
「一杯だけだぞ。これを理由に寝坊をした奴には、一旬連続で芋運びをやらせる」
言いながらトルスはにやりとして、葡萄酒の瓶を掲げた。
「よく帰ってきたな」
赤い液体を素朴な木の杯に注ぎながら、トルスは言った。
「生きてりゃ戻ってくるだろうと思ったが、死んだら難しいからな」
「ご信頼、有難う」
ユファスは渡された瓶を隣に回しながら答えた。
「おかげさまで生きてるよ。一度、死にかけたけど。いや、二度かな」
その言葉に仲間たちは続きを要求し、ユファスも可能な範囲で――あまりにも突飛に思えることを省いて――それに答えようとしたが、料理長が禁止の言葉を発した。
「そこまでだ。今日はやめとけ。自覚はないようだが、ユファス、お前は疲労困憊のはずだろう。それを飲んだら、まずぶっ倒れる」
「……かもね」
青年は同意した。トルスの先の指摘通り、気が高ぶっているだけなのだろう。身体は疲弊しているはずだ。
「それじゃ、葡萄酒は全部食い終わってからにしよう。トルスの料理を残すなんて、もったいない」
厨房の賄い飯など、要するに残り物だから、美しさや品には欠ける。だが、歴戦の料理長の手にかかればそれは絶品の料理となった。
ましてや、普段なら賄いには滅多に使われない鶏の卵が贅沢にもひとりにひとつ使用されている。葡萄酒以外にもこれがトルスの歓迎の証であることは、この場にいる全員が知っていた。
「倒れたら、誰が運ぶ?」
「そりゃガレンだろ。ユファスがいない間、ひとりで部屋を使ってたんだぜ。それくらいの礼はしないとな」
「男を抱きかかえるなんてぞっとしない。倒れるんじゃないぞ、ユファス」
ガレンと呼ばれた年嵩の男は、大仰に顔を歪めて言った。
「部屋だって? もうあの部屋は、僕の部屋じゃないだろう」
「いいや」
ガレンはにやりとした。
「お前は辞めたんじゃなくて、長期休職扱いなんだ」
その言葉に驚いてユファスはトルスを見た。当然だ、とばかりに料理長は肩をすくめる。
「帰ってくると思ってた、と言ったろう」
「……有難う」
どうにか、彼は言った。
改めて雇い直してくれても、特に何も変わらないだろう。王宮の使用人や侍女には細かい規定があるが、厨房の料理人の給金やら待遇やらは、料理長の采配ひとつだ。
だから、再び雇われるのであっても、形式的には何も変わらない。
しかしトルスは、ユファスが辞めてなどいないという形にしたのだ。ちょっと留守にしていただけだ、と言う。
それが、有難かった。本当に。嬉しかった。
「そんじゃ」
葡萄酒が行き渡ったことを見て取ると、副官のディレントが声を出した。
「ユファスの帰還と料理長の粋な計らいに」
「乾杯!」
ざっと木の杯が掲げられた。
ユファスもそれに応じながら、帰ってきたのだともう一度、心から思った。




