02 目に見えないものであっても
風司を継いだ――と言っても、あのとき以来、何も特別なことは起きなかった。
指輪を大事に思うのは、彼に属するものだからではなく、アドレアの形見だからだ。
あの瞬間の衝撃は、ひと月以上が経ってもヴェルフレストの胸に穴を開けるようだった。
「お疲れですか」
ふわりと漂ったいい香りに、王子は片眉を上げた。
「よい香茶が入りましたわ。少しおやすみになったらどうですか」
「珍しく」
ヴェルフレストは杯を受け取りながら言った。
「真っ当なことを言うのだな、ファーラ」
「私はいつだって真っ当です」
侍女は肩をすくめた。
「少なくとも、真っ当なところのないヴェル様に言われたくはありませんわ」
「それは済まぬ」
王子は謝罪の仕草などをした。
「カラザンは、もうよいのか」
「さあ。どうでもいいです」
「おいおい」
ヴェルフレストは笑った。
「父君だろうが」
「私はあの男が嫌いですから。彼が倒れたときにおやすみをいただいたのは、死ぬようならその前に言っておかなくてはならない罵詈雑言があったためです。幸か不幸か熱病の影響は出ず、生き延びたようなので、あとは知りません」
ファーラはさらさらとそんなことを口にすると、礼をして踵を返そうとした。ヴェレフレストはその手首を掴んでとどめる。
「急ぎの仕事でもあるのか」
「ヴェル様におやすみいただくことくらいですね」
「なら、休む。お前が横に座れば」
「またですか」
侍女は呆れた。
「そんなに私の首を切りたいんですの」
「切らせん。いいからこい」
王子はこのときも強引に侍女を引き寄せた。ファーラは嘆息して座り直す。
「では、寝物語は何がよろしいですか、王子殿下」
「こんな長椅子で眠れるか。休むというのは休憩だ、わざわざ眠りはせん」
「眠れないんでしょう」
ファーラが言うと、ヴェルフレストは黙った。
「目を閉じれば彼女の姿が浮かぶという訳ですね。恋を覚えた王子様。哀しい結末でも、それは仕方がないんですよ」
「仕方がない――だと」
彼の腕のなかで息絶えたアドレア。抱き締めることも適わなかった。残されたのはただ一度の口づけ。それも彼女の意志とは言えぬ、「魔女」の意志による。
アドレアのなかの「魔女」は王子を誘惑したが、ヴェルフレストはそれに耐えた。あれはアドレアではない、真のアドレアを解放したときにこそ彼女を抱く、そう思って誘惑に応じなかった。
だが、抱いていればよかっただろうか。
そんなふうにも思った。
それはそれで、悔やんだだろうけれど。
何にしても、仕方のないこととは思えない。彼女は、捻れた運命の被害者だったのだ。
「ええ、仕方ありません」
だが侍女はもう一度言った。
「初恋というのは、実らないものですから」
その言葉に王子は片眉を上げ、それから、笑った。あの岬に向かわんとするときに出会った老婆の魔術師から同じ言葉をもらっていたことを思い出す。
「成程。真理だな」
「何か気にかかっておいでですか」
ヴェルフレストはファーラに全てを話したから、彼女は王子の受けた傷を知っていた。だが、ひとつだけ、言わなかったことがある。それがまさしく、気にかかっていることだった。
「アドレアは」
その名を呼ぶと胸が痛んだ。ヴェルフレストは瞳を閉じ、息を吐いてから開けると続けた。
「最後に俺をヴェルと――呼んだ。それまで一度もそう呼んだことはなかったのに」
白い髪をした女は、常に彼を「ヴェルフレスト」と呼んだ。或いは「王子」と。決して愛称を呼ぶことはなかった。彼はそれに気づいていた。
なのに最後には、そう呼んだ。
「あら」
ファーラは目をしばたたいた。
「簡単な話じゃありませんか。つまり」
侍女は実に簡単そうに言った。
「彼女が呼んだのはどこか別の『ヴェル』様だということですわね」
「お前な」
ヴェルフレストは侍女を睨んだ。
「そうやって、ものすごく簡単に、人の傷をえぐるのはよせ」
「あら」
ファーラは片眉を上げてまた言った。
「それじゃ、ご自身でも気づいてらしたんじゃないですか」
「──そうだな」
ヴェルフレストは認めた。
アドレアが愛を告げたのはヴェルフレストに向けてではない。彼の知らぬ、ほかの「ヴェル」。判っていた。アドレアは一度も、彼を愛したことなどなかった。
「気づいていた」
恋を知った若者は小さく言った。
「俺の知らぬ『ヴェル』、か。――ローデンは知っているのかもしれんな」
そんなふうに思った。だが、それを尋ねようとは思わなかった。知りたいとも。
「ほら、ヴェル様」
王子が茶杯を握りしめたままで身を硬くしている様子を見た侍女は、そっとその肩に手を置いた。
「しゅんとされるのはおよしなさい。皮肉が出ないのは可愛らしいですけれど、少し心配にもなります」
あまり心配しているとは思えない口調でファーラは続けた。
「それに、傷は男の勲章ですよ。目に見えないものであってもね」
ヴェルフレストはそれに言葉を返せなかった。というのは、一定の距離を保っていたファーラがよい香りを漂わせて顔を寄せ、彼の頬に口づけたからだ。
「どうしても傷口が痛むなら、お慰めしてもいいんですよ。お子様は趣味の範疇外ですが、大人になりかけている少年というのはなかなか私の好みですから」
「……お前な」
ヴェルフレストはようよう、言った。
「そんなことを口にしたとばれたら、俺がどうとめてもバルトに解雇されるぞ」
「仕方ありません。ご存知とは思いますが、私は本音しか言えない性質の女ですからね」
そう囁くと侍女は顔を離した。
「さあ、香茶をどうぞ。お望みでしたら、宮廷雀の噂話でもお聞かせしますわ。そうそう、例のティルド少年のその後なんていうのはいかがです?」




