11 死の宣告
「忌々しい魔術師に、魔女よ。そして王子。――人間か」
それでも、魔物は笑った。
「人間に、遅れを取るとはな! これが学ばぬということか、ローデン。蟻とて象を倒す、それを認めよと? くだらぬ、蟻は蟻だ」
「黙れ」
ヴェルフレストは低く言った。
「魔物とは、よく言った! 忌まわしいものを……よくも」
彼はそのまま強く踏み込み、剣を根元までグルスの身体に差し込むと、下方に体重をかけて斬りつけながら、刃を引き抜いた。おびただしい血が――魔物でも、それは赤かった――異界の存在から噴出した。たとえ人間と同じところに急所がなかったとしても、致命傷であることは疑い得なかった。
「驚愕と恐怖と……捻れた怒り」
どう、と床に倒れ込むグルスの口から言葉が洩れた。
「美味であったぞ、ヴェルフレスト殿下」
血を吐く唇を大きく笑みの形にして、トバイ・グルスと名乗った〈欲喰らい〉は、魔女を永い間に渡って脅かしていた姿を古い小屋の床に横たえた。
ヴェルフレストは息を切らしながらそれを見る。
驚愕。恐怖。そしてそれを与えたグルスへの捻れた怒り。
それらが一気に彼の体力を奪った。もう、剣を持っているのも億劫だ、そんなふうに思った。
「ヴェル様、とどめを」
「――何」
「早く。逃がさぬよう」
逃げる? この状態でそのようなことが可能だと言うのか?
ヴェルフレストが働かぬ頭でもう一度グルスを見た、とき。
その目前で、音もなく、魔物の身体が消えていった。まるでそれこそ、幻であったかのように。
彼が反射的に剣を握り直したときにはもう、その大量の血痕以外に、そこに何ものかがいたという痕跡はなくなっていた。
「これは……」
「致し方がない」
ローデンは静かに言った。
「少なくとも、瀕死です。ふらつくあやつを風神が崖から突き落としてくれることでも祈りましょう」
「逃げた……逃がした、のか?」
「お忘れなさい。死ぬでしょう。多少の時間はかかるやもしれませんが、その分苦しませてやったと思えばよい」
「だが」
「よいのです。剣を置きなさい。手についた血を拭って。ここへ」
その声音に何かを聞き取って、ヴェルフレストは振り返った。
「――アドレア?」
魔女は、魔術師の腕に抱かれ、身を崩した、ままだった。彼ははっとなって剣を投げ捨て、血を拭うなどと言う悠長な動作を忘れてそこに駆け寄った。
「アドレア、アディ、どうした、何故そのように苦しそうな顔をしている」
ヴェルフレストは魔術師の手から女をひったくるようにしてその腕に抱えた。赤い瞳が弱々しく王子を見る。
「当然、だ。私は、トバイの妖力で……生きている。いや、生きていたと言うべきであろう、な」
「何、だと」
「トバイが死なずとも、あれだけの傷を負えば、ほかの術を続けていることなど……できなかろう」
その言葉の意味はじわじわと王子の身体にしみこんだ。
では、グルスが死ねば、アドレアは、死ぬのか。
いや、あれが生き延びても、彼女は――死ぬのか。
「馬鹿な。おかしなことを言うな。お前は生きる、そうだろう、ローデン。お前ならどうにかできるな!?」
宮廷魔術師は無言で、アドレアの右手を取った。まるで医師が患者の脈を計るようにその袖をめくり、わずかに息を吐くと王子とアドレア自身に見せた。
「――傷が」
「消えている」
「そう。アドレアの言う通り、グルスは契約を続ける力を失った。アドレアは解放されました、ヴェル様。あなたのお望み通り」
「そのようなことを聞きたいのではない、解放されたとて、死んでしまえば何になる! ローデン!」
「魔物の術は、私の編むものとは違う。どれだけ近しくても」
何もできぬと、魔術師は言った。それは、死の宣告だった。
「知っていたのか」
「ええ」
ローデンは認めた。ヴェルフレストはかっとなる。
「知っていて、俺にグルスを殺させたか! アドレアが死ぬことになると――知っていて」
「ヴェルフレスト」
力ない手が懸命に上げられた。王子はそれを取る。
「私が、望んだのだ。これ以上、トバイの術下で生きることなど、意味はない。お前が術を破ってくれた。感謝を……している」
「そのようなものは要らぬ! 俺に感謝をするのなら、生きろ! 生きて――生きてくれ、アドレア。俺は、お前のために」
「有難う。私のために、トバイと戦ったのだな。このように、愚かで、お前を惑わし続けた魔女の、ために」
「そうだ! お前のためだ、アディ。不吉な姿で俺の前に現れ、意味の判らぬ言葉を告げ、俺を惑わせたお前のためだ。アドレア、しっかりしろ!」
「ああ……」
苦しそうな吐息が洩れた。ヴェルフレストはその身体をしっかりと支える。
「大丈夫だ、しっかりしろ、アドレア。俺がついている」
その言葉に何の意味もないことは、承知だった。
「アドレア。アディ、大丈夫だ」
ただ、彼は繰り返した。意味のない言葉を。
「ああ……ヴェル」
弱々しい声がその唇から息とともに吐かれた。
「ずっと……」
「よせ、喋るな」
「言わせて、ヴェル……私は、ずっと」
白い顔が苦痛に歪んだ。
「アドレア!」
「愛していた……ヴェル、ずっと」
「何――」
「初めて……会ったときから、ずっと、いまでも――変わる、こと――」
すうっとその赤い瞳から光が消えた。
「――逝くな、アドレア!」
抱きかかえる魔女の赤い瞳は、王子に馴染んだそれから見知らぬ穏やかな茶色のものになった。だが、ヴェルフレストがそれに驚く間もない。
命を失った女の身体は、不意に軽くなった。
人が死ねばその魂が失われ、その分軽くなると言うがそうではない。王子もこのとき、そんな話を思い出しはしなかった。
アドレアの身体は、長きに生きた時間を一瞬で得たかのように――何ひとつ、髪の毛一筋残すことなく、さらりとした砂と化したのである。
「アドレア!」
ヴェルフレストは叫んだ。
だが、その声は死者の耳には届かない。
死者は生者の声を聞けぬものだが、届いたと幻惑を抱かせてくれる肉体でさえ、砂と消え去ったのだ。
ヴェルフレストは、愛しく思った女の遺骸を抱き締めることさえ、できなかった。




