07 訊いておきたい
どうしてやろう、と思っていた訳ではない。
ただ油断なく剣をかまえ、ティルドはそこに戻った。
灰色の空間が次第に色づきだしたことなどに感心している暇はない。
どこからともなく現れたように見える少年に、兄は安堵の息をつき、青年神官は満足そうな笑みを見せた。
そこは、長い卓の置かれていた先の広間ではなかった。
広さではどちらが上かはよく判らない。先の部屋は細長く、ここは、そうではない。
ここが、かつてナリアンという名の商人が使っていた部屋であり、つい先ほどまで業火の司祭を名乗っていたドレンタル・リグリスという男が多くを過ごしていた場所であるということなど少年は知らなかったし、知っていてもどうでもいいと思っただろう。
「リエスは」
ティルドの第一声はそれだった。
「そこにいる」
ユファスは上等そうな長椅子を指した。確かにそこには、少女がつらそうに横たわっている。しかしその目はやはり安堵に満たされて、ティルドを見つめていた。
「お帰り、ティルド。次に突然消えるときは先に言ってくれないか。今度こそ心臓がとまるかと思った」
「……気を付ける」
もちろん、彼が望んでやったことではなかったが、ユファスは当然判っているだろう。
「ところで参考までに、俺が『突然消えて』からどんくらい経った」
あの空間では時間の感覚がなかった。せいぜい数カイだとは思うが、よく判らない。
「半日くらいかな」
「何ぃ!?」
思いがけない答えに少年は叫んだ。
「半日だ!?」
「いったい」
呆然とするティルドにサーヌイは不思議そうな声を出す。
「何が起きたのかお聞きしたいところですが」
「……話してやるもんか」
正直に言えば判らないことも多かったが、サーヌイに何ひとつ説明してやりたくないという気持ちは本当だった。
「そう言われるだろうと思いました。それにしてもよくお似合いですよ、〈風読みの冠〉」
「ざけんな。間抜けに見えることは承知さ」
ティルドは唇を歪めた。言われるまで、そんなものをかぶっていることは――またも大胆にも――忘れていたのだが、思い返してみれば、血や汗にまみれた質の悪い衣服を身につけ、戦いに乱れた髪の上に、とんでもなく上等な冠。ずいぶんと珍妙な格好であるはずだ。
「無事に風司を継がれたと思ってよろしいのでしょうね。おめでとうございます」
「殺す前にご丁寧なこった」
本当に丁重に礼をするサーヌイを見て、ティルドはいっそ呆れた。
「半日でも何でもいいや。まずは、約束だ。サーヌイ、てめえ、アロダみたいに口先だけだとか言ったら殺すぞ」
「とんでもない。神に誓いましたでしょう」
「それが信用ならねえんじゃねえか。とっととリエスを治せ」
「直してもよろしいですが、意味はないかもしれませんよ」
「意味なんか知るか。いいからやれ」
ほかの誰か──ラタンだの、アロダだの──であれば、「言葉の網」の類にティルドが全く引っかからないことに舌打ちをしたり、或いは拍手をしたりしてくるところだろうが、サーヌイであればあくまでも真摯だ。ティルドの反応に落胆した様子はなく、その代わり、出来の悪い教え子を見る教師のような嘆息をする。これはこれで、たいそう腹立たしい。
「よいでしょう」
言うとサーヌイは両手を合わせて祈るような仕草をした。それは本当に「祈る」と言うのに相応しいようで、ティルドは寒々しさを覚えた。
「どうだ、リエス」
サーヌイを睨みつけたままでティルドが問うと、しかしはっきりしない声が返ってくる。神官から目を離したくはなかったが、それを考えるより先に見れば、リエスはユファスの手を借りながらも立ち上がっていた。
ティルドは安堵の息を吐くとともに怒声を上げるという器用なことをした。
「無事なら無事って言いやがれ! 心配するだろっ」
何よこっちの台詞だわ、とか、余計なこと言わないで目の前に集中したら、だとか、或いは単純に、うるさいわね馬鹿、とか、何らかの返答があるべきだった。だが、言葉は返ってこない。
「リエス?……サーヌイ、てめえ、ほかにもおかしな術を!」
ティルドがぴたりとサーヌイに剣を合わせると――それは見事に隙のない姿勢だった――神官は首を振る。
「誤解です、私は何も。ですが時間が経ちましたから、私が何もしなくてもどこかが損なわれることは充分有り得ます」
損なわれるなどというのは、ラタンが幾度も言ったような「人形」という言葉を連想させた。業火の司祭が遺した言葉――死体を継ぎ合わせた、模造品――は、メギルやリグリスの死、果てはヴェルフレストとの戦いや冠の継承という目まぐるしい出来事のために少年の内には残っていない。
だがもし記憶にあったところで、ティルドはそれを気に留めなかっただろう。少年を惑わせるための意味のない台詞だと考えたはずだ。
何故ならリエスは呼吸をして鼓動をしている。それは少年にとって、生きている以外の何ものでもないからだ。
ただ、どんな理由がそこにあれど「損なわれる」などとは慈愛に欠けた言い方のようで、サーヌイらしくないような気もした。ティルドの気にかかったのはそのくらいである。しかしもちろんこれは狂信者であって本当の神官ではない――サーヌイは「本当」を主張するだろうが――のだ。
「何が時間だ。てめえらのかけた変な術のせいだろう、ちゃんとそこまで治せ」
「それが『彼女の健康状態を保つ』という意味でしたら、あなた亡きあとも引き受けましょう。勉強になりますからね」
「健康を保つ」の部分に文句はないが、亡きあとも勉強もどうにも引っかかる言い方だ。この神官は、自分が負けると言うことを少しも想像していない。
「約束と言うのでしたらこちらの方こそ」
真面目な顔つきでサーヌイは言う。
「冠を渡してください」
「渡す訳ねえだろが」
そう言ってティルドが睨み返すのは、単なる反射的反応以上のものではない。少年はそれを知っていたが――考えが足りないと自省することはなかった。
というのも、彼は気づいていたからだ。頭で考えることが必ずしも正解を導き出しはしない、こと。
言葉以外に感じ取るもの。
読むもの。
「渡してくださらない。何故です」
「俺が素直に渡すと思う方がおかしいだろうが」
「そうですか? 彼女のためでも?」
さらりと言われればぐっと返答に詰まる。彼はリエスを救うために、「継げば殺される」ものを継いできたのだ。
だいたい、渡さないと頑張ってみたところで、リエスを救いたいと思えば逆らえない。となればずっと戴いていたところで殺されて奪われるのは決まったようなもので、抵抗などはお互いに時間の無駄だとサーヌイは言いたいのだろう、とティルドは思い、神官は実際にそのようなことを言った。
「彼女のためであっても」
言葉を発したのはユファスである。
「崇高なる自己犠牲を認める訳にはいかないんだけどな、弟よ」
「俺だってそんなつもりはねえ」
「それじゃ」
どういうつもりなんだ、と兄は言った。
「俺は」
ティルドは奇妙な唸り声を上げ、自分を統一させようと意識を集中した。
冠とリエス。或いは、自分の命とリエスの無事。
それらを秤にかける? どちらか一方を選ばなくてはならないと?
(んなこと、あってたまるか)
少年は心を研ぎ澄ました。
(俺は死なない。リエスも守る。方法はある)
(いい方法だとは言えなくてもさ)
ティルドは目を閉じて深く息を吸うと、すうっと――手を差し伸べた。
それはあたかも、神意を受けた者が見えぬ道行きを指し示すかのようだった。
と言ってもその目は「神懸かり」とも「精霊憑き」と言われるものとも異なる、はっきりした意志と強い光に満ちており、その手にあるのは〈導きの采配〉ではなく中古の剣である。
「訊いておきたいことがある」
彼はゆっくりと言った。
「サーヌイ・モンド。お前は〈風読みの冠〉を手に入れてどうするんだ。前任と同じようにエディスンを焼き払う気でいるのか」
「そのようなつもりはありません」
神官は首を振った。
「言うなれば私の継承は、リグリス様のご遺志ですから」
「それだけか?」
「風の力で火を強くする。オブローンのために、それは重要なことです」
「答えになってないな」
ティルドは唇を歪めた。
「お前の、望みは」




