05 おかしなこと
「よせ、ヴェル」
ぴたりとヴェルフレストの手がとまった。王子はティルドを見たが、少年は考えの淵に沈み込むように下を向いていて、強い制止の言葉を発したようには見えなかった。
いや、ヴェルフレストは気づいていた。いまのは、ティルドの声ではない。
「お前の周りに風は集まる、そうだったな。だがいつだったか言った言葉を思い出せ。お前には追うべき風とそうでない風がある。お前はそう言ったのだ。冠は、どちらだ。本当に、それはお前に必要か」
「――俺の決めることには従うのではなかったのか、カリ=ス」
それは砂漠の男の声だった。ヴェルフレストは、姿の見えぬ連れに唇を歪めて返した。
「お前は私の主だ。だがお前の選ぶ道がお前を危険に導くとなれば、黙って従いはしない」
「俺の危険などはどうでもいい。問題は」
「アドレアか。彼女のためにそれが要るのだと、そう言うのだな。そうではない、ヴェル。お前の屈服は、お前の敵に力を与える。お前が戦ってこそ、彼女を救えるのではないのか」
「戦えば、ほかの者たちが傷つけられる!」
「それで屈服するのか? それで、よいのか」
カリ=スの声は淡々としていた。ヴェルフレストは唇を噛みしめる。
「――面白くは、ないな」
「だろう」
カリ=スの声は笑った。
「もう一度、よく考えろ。それを手にする前に」
「いいこと言うわ、カリ=ス」
感心するような安心したような声がした。
「リエス」
顔を上げたのはティルドである。
「お前、大丈夫か。あれ以上変な術、かけられてないか」
「ちょっと、心配するのはあたしの方でしょ。何よ、だらしない。負けちゃってさ。王子様の方が五十倍は格好いいわね」
「あのなあっ、言っとくが俺は」
「何よ? ほらほら、言ったんさい。あたしを助けようとしたんだとか言わないでよね。冗談じゃないわ、押しつけがましいもいいところよ。あたしをかばってティルドが死んだりしたら、寝覚めが悪くて仕方ないじゃない」
「死なねえよっ」
「何の計画もないくせに、気合いばっか充分なんだから。でもその気合いもなくして負けたのよね? 怖くなっちゃって。ああ、情けないわ、どうしてこんなの選んだのかしら、あたし」
「うるせえ、俺は」
ティルドは立ち上がった。そこで、言葉をとめた。
選んだ?
「――リエス? それとも、まさか……」
「ほら」
姿は見えないのに、少女が皮肉っぽく唇を歪めた気がした。
「白詰草と蓮華の見分けもつかない。情けないわ」
「アーリ……なのか?」
少年は声が喉に張り付く感じがした。
「どっちだっていいわ」
それが少女の返答だった。
「好きに呼んだら。あたしは彼女で彼女はあたしかもしれない。でも、同じじゃないわ、全然違う。当たり前。あたしはあたしよ。彼女じゃない。よく見て。決めるのは、ティルドだから」
「俺が……決める?」
「そうよ。しっかりしてよ、風読みの継承者。ティルドにはちゃんと、見えるものがあるはずなんだから」
そこで声は途絶えたが、まるでぐいと首を掴まれてそちらに向けられたように、少年の視線はそこに向けられた。
無造作に落ちたままでも誇り高い――冠に。
(あれはお前の、声なのか?)
奇妙な考え。だが不思議と、腑に落ちるものもあった。
「……ヴェル」
「何だ、ムール」
「俺、さ」
少年は考えながら話し、ヴェルフレストの方に歩を進めた。
「何て言うか、おかしなこと考えた。いや、俺が考えた訳じゃないと思う。変な言い方だけど」
言いながら彼は王子の目前までやってくると、すとんと腰を下ろした。ふたりの若者は、冠を間に向かい合う形になる。
「それはもしかすると、俺も同じやもしれん」
王子は肩をすくめて言った。少年から――或いは父から冠を奪う? 本当に、それが彼の考えだったろうか。
「だがいまでも、明確に何かが見えたとは言い難い」
「そうなんだ」
ティルドは同意した。
「ちょっと思ったんだけど、ヴェル、お前さ。〈風見の指輪〉見つけたのか。お前、風司になったのか?」
「何?」
全く思いもかけない話――ティルドにしてみれば同じ話の続きなのだが――を口にされてヴェルフレストは瞬時、戸惑った。
「確かに指輪は見つけ、手にした。だが風司たる地位は父上のものだ。俺は継承者ではあるかもしれぬが、イルサラであるのは父上だ。指輪も、彼のもとにある」
「……おい」
ティルドは眉をひそめた。
「騙す気か」
「何だと?」
「だって、そうだろ」
「何がだ」
「本気で言ってんのか?……俺、お前が鈍いんじゃないかと思ったことがあったけど、本当にそうなのかよ? 俺だって感じ取れるのに」
何とも無礼なことを言われた王子殿下は唇を歪める。殊、ティルドに言われると面白くないというところか、はたまたやはり、面白いのか。
「何の話だ。ちゃんと言え」
「『命令』か?」
今度はティルドが唇を歪めたが、これは間違いなく「気に入らない」である。
「あのな。ごまかす気でも本気で知らないでも指摘するけどな。〈風見の指輪〉はお前の右の隠しに入ってるぞ」
ティルドにはそれがはっきりと感じられていた。ヴェルフレストは軽く目を見開き、何度か瞬きをしてからティルドの言葉の意味を理解しようとした。表面的な意味以外に何も思いつかなかった彼は、疑わしそうな目つきをしながら――そんなところにあるはずはないのだ――隠しに手を入れ、呆然とすることになる。
「馬鹿な。俺はこれを父上にお渡ししたのだ」
ヴェルフレストはゆっくりと紅石の指輪を取り出した。
〈風見の指輪〉。
古くには出航する船に向けて風を呼んだと言う。




