02 笑わせてくれる
ぐいと胸ぐらを掴まれても、抵抗はできなかった。
彼女はこの男に、従わされている。
「面白い真似をしてくれたではないか、我が魔女よ。私は王子の言葉を手にしたことに油断をしたと言う訳か。王子を何処へやった」
「私の技ではないわ」
アドレアはようよう言った。
「ほう、では誰だ? ヴェルフレスト王子殿下ご自身か? ふざけたことを言うな」
トバイ・グルスは、ほとんど床から離れんばかりに持ち上げていたアドレアの身体を放した。結果として、女は床にくずおれる。
「口も達者になったという訳か? いや、変わらぬ愚か者まま。私を謀ることができると思っているのならば、な」
「嘘など……つけないと承知でしょう」
「ほう。ならばあれは何だ。かの王子が連れ去られた空間」
「冠を作った者の、仕掛け」
「創り手の、仕掛けだと?」
「私も知っている訳ではないわ。ただ、そうではないかと思うだけ。風読みはほかの風具の力を借り受けるのだから、継承にはほかの風具の承認が要ると」
「王子は風司ではない。風具を持ってはおらぬのにか?」
「そこは判らない。風具が未来の司を遣わしたのは、いまの司よりも力を持つためか、単純にもカトライが床についているからか」
「或いは、ヴェルフレストが冠を望んだからか――」
グルスは言い、アドレアははっとなって〈欲食らい〉を見た。
「ふむ、そうか。ではあれは継承の間という訳だ。ならば、悪くない」
「どういう、意味なの」
「教えてやる必要はないな」
「何かに気づく手がかりを私がもたらしたのならば、知る権利はあるわ」
アドレアが床に座り込んだまま言えば、トバイは笑った。
「私を怖れ、王子を案ずるか。あの日と変わらぬな、アドレア。あの小僧はお前の王子ではないぞ。忌々しいほどよく似ているがな」
「そう。彼は私の愛した人ではない。けれど彼の血を受け継ぐ者。私は彼を守る」
「心がけは褒めよう。口にすれば言霊も力を貸す。だが、山に水は登らぬ。この傷が」
トバイはアドレアの右手首を掴んで引っ張り上げた。
「ある限り」
アドレアは自身の手とトバイから顔を背けるようにした。目に入れなかったからと言って、なくなる訳ではないものを。
「それでも白くありたいか、〈白きアディ〉。私の魔女として王子を籠絡し、その腕にかき抱かれ、王子がますますお前を愛することを悦びながら、自分のせいではないと、自分の意志ではないのだと、王子を愛し、その身を案ずる。高貴なる身体はそんなによいか、アドレアよ?」
「我が――」
女は、男をきっと睨んだ。
「我が心まで好きにできると思うな! どれだけ身体を知り、我が魔力を思い通りに操ったところで、私の思いはお前の術下に非ず! それすら手にしていると言うか? 思い通りだと? 斯様なことは決してない、トバイ・リグリス。お前が、いかにそれを真の私だと言おうと、我が真実は我のみが知る!」
「可愛らしくも、愚かしい」
トバイは冷たい笑みを浮かべ、アドレアの腕を引き寄せた。
「お前の心は自由だと? 我が虜ではないと。それは何故だ? ああ、そうだ、もちろん。お前の心を好きにしてしまえば、妙なる美食は味わえぬ」
満足そうに言うその顔に向けて、アドレアは思い切り左手を振った。だが打つこと叶わず、空いていた片手もトバイに掴まれるに終わる。
「私を殴ろうとしたのか」
楽しそうにさえ、トバイは言った。
「面白い。変わらぬと言った、その言葉は撤回しよう。あの日よりも強くなったようだな、アドレア。だが、蟻が少しばかり強くなったところで、どうにかなるか?」
「何とでも言うがいい。いつまでもお前の思うようには」
「はっ!」
トバイは声を上げて笑った。
「いつまでも、だ。お前はいつまでも私のもの。はじまりの契約は、時間が経てば薄れたやもしれぬ。だがその傷とともに植え付けたものは決して消えぬ。お前の心は王子のものか? それでも同じこと、お前は、私のもの」
聞き分けのない子供に諭すように、トバイはゆっくりと繰り返した。それは呪術のようでもあったが、事実でもあった。アドレアはそれを知っていた。知っていて逆らうことの無意味さも。
「さあ、アドレアよ。ではお前の王子の無事を祈ろうではないか。王の継承の儀に異を唱える臣下――王たる役割がただの子供で、臣下の役割が王子だというのも皮肉だが、ヴェルフレストはその皮肉をひっくり返せるかな? うまく行けば王位簒奪者ということだ。一度それをこなせば、二度目は容易。父親から風司を奪うも」
「成程」
低い声がした。
「そうやってひとつずつ理をねじ曲げさせるという訳か。私もかつてはよくやった手法だ。近頃はとんと、真っ当に生きてきたがな」
「これは、ようこそ。公爵閣下」
トバイ・グルスは平然と、階級が上の者に対してやる神殿長の仕草を取ってみせた。その場に不意に姿を見せたローデンはわずかに眉を上げたが、礼を返しはしなかった。
「このような郊外のぼろ小屋にわざわざお出ましとは。岬の魔女にご用事ですかな、それとも私に?」
「どちらでもあり、どちらでもない」
「魔術師の返答だな」
グルスはふっと笑った。
「なかなかの力を持つようだが、〈混沌の術師〉よ。アロダを絡め取ったとて、私とアドレアに敵うとは思うまい?」
「さて、どうか」
ローデンは短く言った。
「私はお前に決闘を申し込みにきた訳ではない、〈欲喰らい〉」
「人間の分際で魔族に関わればどうなるか。お前は判っているようだな、金の瞳を持つ者よ」
「知っている。何かを代償にして得る力の強さも、ねじ曲げた理に対して負う責も」
言いながら魔術師は片目に手をやった。
「これではアドレアの赤い瞳よりも魔物のようだな。これで公務にでも出れば、騒ぎだ」
「異界に近づき、力を得たか。人間にしては大したものだと言おう。だがアドレアにも教え諭していたところだ。――所詮、蟻は蟻だと」
「爪先ほどもない蟻にでも、噛まれれば痛みを覚えるもの。そのようなちっぽけな存在に傷を付けられたことに腹を立て、指先で潰してでもみれば、それは触れただけでも死に至る猛毒を持つ毒蟻やもしれぬな」
「魔族をも殺す毒か? やってみるか、エイファム・ローデン」
「殺せるかどうかも判らぬままで潰されてみるというのはいささか、無謀だな」
「若造であっても、アドレアよりは賢いようだ」
グルスは口の端を上げた。
「長年を生きてみたところで、逃げ隠れをしていただけでは何も学ばぬ。学ばれては、面白くないが」
「ほう、そこな魔女は何も学ばなかったか。それは気の毒なことだ」
ローデンの視線がアドレアに向き、再びグルスに戻った。
「人間という生き物はな、どんなことからも学ぶものだ。学んだことを活かせるかどうかは別の話だが、それでも、学ぶのだよ――グルス」
「私に言霊の網は効かぬぞ、術師。第一、そのような悠長な話をしていたいのか? お前がやってきたのは、王子を救うためであろう」
「救う? 私が、ヴェル様を?」
ローデンは笑った。
「星読みの術師には制約がある。多くは、自ら課すもの。予言の力を持つ者に似ている。未来を教えても変えられぬ運命に、決して動かせぬ星巡り。ヴェル様の星は私の手の届くところにはない」
「ただ、読むだけか」
「そうだ。ただ、読むだけ」
小馬鹿にしたような魔物の台詞を星読みの術師は繰り返した。
「では何をしにきたのだ。私と決闘でもなければ、王子の救出でもない。よもやアドレアを救いにきたなどと、まるであの愚かな王子のようなことを言うのか?」
「まさか」
ローデンは一蹴した。
「私はこの女に何の魅力も覚えない。この魔女に固執しているのは私ではなく、ヴェル様でもなく、お前だろう」
「固執か」
グルスはアドレアを見下ろした。
「初めは、ただの愚かな処女。次は、王子を籠絡するために都合のよい手駒。そのあとは、我が手を逃れた裏切り者となった。そうだな、この女が長いこと私を怖れていた間、私もずっとこの女のことを考えていたのかもしれん。だが、時はきた」
グルスはわずかに首を引いた。
「時はきた。何とも皮肉な偶然か、それとも星巡りか、術師? そう、まさしく星巡り。今日この日、天空の神々と呼ばれる〈偉大なる星〉たちはあの日と同じ位置を迎えている。あの日に逃したものが今日こそこの手に入ることあらば、我が完全なる勝利」
「それはまた」
ローデンは肩をすくめた。
「笑わせてくれる」
「何だと」
「同じ星巡りなどはない、魔物。見えぬものを語るのはよすのだな。言っておこう、流れた時が戻ることはなく、消えることもない。星は動いている。お前には感じ取れぬ。よく似た星巡り、同じ配置、いいや、決して同じものではないのだ」
「それが何だ」
グルスは唇を歪めた。
「星を読む者の拘りか。くだらぬ。お前の興味に合わせた話をしてやっただけのこと。私は星になど影響は受けぬ」
「であろうな。指輪を逃した星の日に、冠を手に入れる? それとも、冠と指輪と両方のつもりか。教え子であれば、教書で頭を殴ってやるところだ」
「同じ星の日とて同じ流れなどは起こらぬぞ、術師よ。私は魔女を二度も逃しはせぬ」
「繰り返し言わせるな。同じ星巡りなどは、やってこない」
「ローデン」
ようようと言った調子で声を出したのはアドレアであった。
「トバイは星を読まぬ。私も、それは同じ。ではお前はこの日に何を見る。ヴェルフレストの星は輝いているか。ねじ曲げられた理に、弱められ、消えは、せぬか」
「それを決めるのは私ではない」
魔術師は言った。
「決めることができるのは、ヴェル様とティルドだ」




