07 心楽しいことなんて
鮮血が散る。
女の左肩から胸部にかけて、屈強な戦士が鎧を身につけていても傷を負わせたであろう力強い若者の一撃は、薄いローブ一枚しかまとわぬ魔女の身体に違いようのない致命傷を――与えた。
「メギル様……メギル様!」
「な」
ティルドは立ちつくした。
女はかつて、少年の拳を受け入れた。
それと同じように、少年の剣を。
「何、考えてんだっ。いったい、何で……っ!」
返り血を浴びた少年は、恐慌に陥りかけた。
これは彼の望むことだった。そのはずだ。アーリを殺した女を叩き斬る。〈風読みの冠〉の奪還よりも、それはティルドの望みであったはずだ。
「メギル様、どうか……ああ、何てことだ!」
女の背後に守られた形となったサーヌイは、後方に崩れるメギルを抱きかかえ、剣を持った「敵」が目前にいることなど忘れたように女の名を叫んだ。
「何で……」
ティルドは、メギルが彼に黙って殴られたときと同じように、いや、それ以上に呆然とした。
「ちょっとティルド! ぼんやりしてる場合じゃないわよっ!」
後ろにいたと思っていたリエスの声が前方からするので、少年ははっとなると同時に目をしばたたいた。
「あんたがやらないならあたしがやるから!」
叫んだ少女の手には短剣が握られている。先にユファスが落としたそれであるとティルドが気づく間もなく、リエスは全速力でユファスとリグリスの攻防戦に向けて駆けた。
「駄目だ、リエスっ」
「リグリス様っ」
少年と神官は、同時に集中力を取り戻した。
ティルドは少女をとめようと、瞬発してほとんど飛び込むようになりながら、リエスの手首を掴んだ。
そのとき。彼をあの感覚が襲った。
一度目はアーレイドで。
二度目はピラータで。
火の魔法が彼をくぐり抜け、その背後にあるものを燃やした、あの感覚。
もわりとしたものが彼を包み、その、向こうにあるものを――。
「させねえ!」
「ちょ、ティルドっ」
少年は少女の手首を引くと、思い切り抱き締めた。それでどうにかなるのかは、判らなかった。ただ、そうしなければならないと思った。それだけ。
無理なことなんて、ない。
ただ、そう思っただけ。
ぼわり――と炎に包まれた。
包まれたのは、紫色をした聖衣だった。
業火の司祭は目を見開いて振り返り、その先に風読みの継承者と、風聞きの司と、火の魔女と風の精霊師を見た。
術の出もとがメギルとサーヌイのふたりであることが、果たして司祭に見て取れたものかどうか。
リグリスはユファスの首にかけていた両腕を放し、自身の衣に燃え盛る火を消すべく立ち上がって手をかざそうとした。その隙だらけの足元をユファスは蹴りつけ、術の完成を妨害した。
「リ、リグリスさ」
「サーヌイ」
か細い声が少年の耳に届いたが、本当に魔女が神官に向けて何かを言ったのか、言うだけの気力と体力が残っているのかは判然としなかった。
「ティルド! 風よっ」
少年の腕のなかで少女が叫んだ。
「何」
「風は火を煽る、あなたならできるでしょ、いまよっ」
少年はその意味をちゃんと納得したとは言い難く、口に出した少女の方ですら、完璧に理解していたとは言えなかった。
だができるのだ。
彼らには。
ティルドはリエスを片手に抱いたままで、片手をかざした。
瞳の奥に映ったのは、彼の見たことのない情景。
その、景観は知っている。
北方に拡がる大海原は、エディスンでは見慣れた景色だ。
見覚えがないのは、数え切れぬほどの白い帆を掲げた大きな船と、それに向けて差し出される手にはまった紅玉の指輪。
遠い過去に、エディスンの司が船団の帆に風をはらませた、その儀式。
見知らぬ手が振り下ろされるのが合図であるように、ティルドもまたその手を振り下ろした。
リグリスの衣が、身体が、手足が、頭部が、火に舐められていく。
業火神オブローンの司祭を名乗った男が聖なるものと語った精霊師の炎と、所詮は魔女の火だと嘲笑った魔術師の炎が、その男の全身をくまなく埋め尽くしていく。
風読みの継承者と魔除けを持たされた娘の身体を越え、力を増した炎は風の力を受け、業火と言うが相応しいうねりを見せた。
ドレンタルと名付けられ、リグリスの名を受け継いだ業火の司祭は、もはやその顔に驚愕を浮かべているのか恐怖を浮かべているのか、はたまた悦びを浮かべてでもいるのか――判らぬまま、どさりと崩れ落ちた。
「ああ……」
何が起きたのか、それともどうしていいのか判断のつけられぬままに意味のない呟きを上げたのは、誰であったか。
業火は、その司祭の身体と命という供物を受け取り、その喜びに踊り狂うようだった。
手はじめとばかりに卓の敷き布を喰らいだした炎は流れるように卓上を踊り、その卓や椅子を食べ出して行く。
「――ちょっと!」
最初に我を取り戻したのは、やはりと言おうか、リエスであった。
「あんたたち、何を見とれてんのよっ。消すか、逃げるか、どっちか決めて!」
ムール兄弟は顔を見合わせた。
消す。
確かに彼らにはそれができる。
獄界神を崇める神官たちが暮らす館など燃やし尽くしてしまってもよかったが、そこまで育てたものをほかの建物に燃え移らないうちに消してしまえるかどうかは、怪しい。
ユファスはそれに気づいて、ティルドは炎の乱舞を見守っているのも悔しくて、消すべきだと考えた。
ふたりは、血の為せる業かそれとも風の道具がもたらすつながりのためか、計ったように同じタイミングで両手を炎に向け、瞳を閉じた。誰にも習ったことのない印を同時に切る様は、よくできた見せ物のようでさえあった。
リエスがそれに感心したような視線を送ったとき、放っておけば一カイとかからずに屋敷を全て飲みこんだであろう炎の子供は、まるで幻であったかのように――ふいっと消えた。
「ティルド」
「ユファス、俺……」
だん、と何かが落ちるような音がした。兄弟と少女が視線を向ければ、血塗れになった男女が床に座り込んでいるのが目に入る。
何か考えるより先にティルドはそこに駆け寄り、死に行こうとしている女に手をかざした。一度、火を放たれたカリ=スの腕にそうしたように。
だが――。
少年には判った。
自分が癒したのは、火傷だ。
剣で切られた傷口などは、癒せない。
たとえできたとしても、もう、無理だ。
ここまで流れ出た血と命は、どんな医師も神官も、癒せない。
「ちくしょう」
知らず、彼は呟いた。自分にそんな力はない。判っていた。そして、それでも女の傷口に手をかざした。
「ちくしょう、無理なことなんてあるか」
あるのだと知ってそう呟くことは、心を重くした。
「死ぬな……死ぬなよ。俺がお前を殺すのは、ちゃんと戦って、それで、アーリの仇を取るんだって思って、そして剣を振り下ろすときだったはずなんだ。こんな……」
こんな、混乱のなかで。
戦いの混乱と、メギルという女の、心の混乱のなかで。
こんなふうに、殺すことになるなんて。
「……ティルド」
メギルの口からかすかな声が洩れた。
「てめっ、ちくしょう、死ぬなっ! こんなこと、俺に言わせんなっ」
少年は滅茶苦茶なことを言いながら、メギルの肩に手をかざし続けた。
「ああ……何だか少し、楽ね。もう、言いたいことも言えずに死ぬと……思ったのに」
傷口を癒すことはなくともその痛みが和らげられたと言うように、メギルは声を出した。
「メギル様、喋っては駄目です、どうか」
「いいの、サーヌイ。もう……無理。こうして……言葉を残せるだけでも」
女の目が少年を見た。そして、背後に立つその兄を。
「ティルド、ユファス……あなたたちの言う、通り」
メギルは咳き込んだ。誰も、もう何も言わなかった。
「そうね。そうだったんだわ。誰かが死ぬことに心楽しいことなんて……なかった」
女の視線が神官に向いた。サーヌイは、真っ白な顔で恋しい魔女を見つめ、力のない彼女の手を握りしめていた。
「サーヌイ、生きて。あなたは……」
「メギル様、どうか……」
「ああ……私、それでもやっぱり、ドレンタル様の、こと――」
すう――っと、その青い瞳から光が消えた。豪奢な金色の髪が、暗く茶色いものに変わる。魔女が自身をきらびやかに見せようとかけていた魔法は解けた。
それでも女は、充分に美しかった。
頑としてそれを否定してきたティルドですら、認めざるを得なかった。
この女は、美しい顔をしていた。
作り物めいた感じがなくなる、本当の姿の方が。
「メギル、様……」
サーヌイは頭を垂れた。ティルドはかざしていた手を引き戻し、拳を作ってそれを震わせた。リエスは追悼の印を切り、ユファスは瞳を閉ざした。
業火の司祭が倒れ、火の魔女が逝った。
そこに心楽しいことは、かけらも、なかった。




