04 望むなら
「初めての恋に夢中になるもよいが」
アドレアはヴェルフレストの胸を押した。冷たい声と拒絶の動作に、渋々と王子は身を離す。
「相手は選ぶのだな」
「選んでできるのならば恋ではない、と俺の侍女ならば言うところだ」
「ならば忘れろ。よく考え直せ。お前はとんでもない過ちを冒している」
「できるのならばそうする。いや、しないな。する気はない」
「お前は自らの言葉に酔っているだけだ、王子よ。魔女への恋などという、下らぬ歌物語の題材のような、自らの状況に」
「もう少し温かみを持って接してくれてもよいではないか」
彼は不満そうに言った。
「たとえ男女の意味でなくとも、お前は俺を好いてくれているのだろう。俺の心をそう無下に踏みにじらなくても」
「無論だ、ヴェルフレスト。お前は私にとって、大事な子供も同然。カトライも、デルカードもミラオレスも。子供に恋情を向けられて喜ぶ母はおらぬ。子供を傷つけ、殺したいと願う母も」
「状況によっては、そのような母親も有り得そうだが」
「子供」――幼いという意味ではなく、血を分けたという意味で――と言われることはずいぶんと気に入らなかった。ヴェルフレストは茶化そうとしたが、空気は変わらなかった。
「――俺を殺すのか」
「トバイが命じれば」
「させぬ」
短い返答に、ヴェルフレストも短く応じた。
「死にたくないということももちろんだが、俺を殺すようなことになればお前は苦しむのだろう。ならば、させぬ」
「そのようなことを言うな」
魔女は首を振った。
「グルスはいくらでも、言葉を曲げる。いまの台詞は、私が喜ぶのなら、お前は死んでもよいという返答になり得る。気をつけよ」
「魔術学を教わろうと思っている訳ではないのだが」
「いまは必要だ。思い出せ。ローデンに教わったことを全て」
「努力しよう」
彼はそう言うと、嘆息して寝台に座り込んだ。
「言葉を曲げる、か。俺はいろいろと、あやつに口走ったな」
「怖ろしいことを言った。判っているのだな」
「指輪に、冠。俺のものならばやると言った。だが俺のものではない。どちらも」
「それとて、曲げる。お前のものにすればよい」
「冗談ではない。俺は父上に剣など向けぬぞ。それに」
王子はにやりとした。
「俺の手にあろうと父上の手にあろうと、あれはお前のものだと言ったではないか」
「そのことも言うな」
アドレアは片手を上げた。
「トバイは、遠い過去に私に下した命令の端々までは覚えておらぬ。私がエディスンに指輪を返さぬままでいたことは、私がそれを欲したか、或いはトバイに見つかることを怖れてずっと隠していたと思っている」
遠い昔、トバイはアドレアに、ヴェルニールトから指輪を奪ってアドレア自身のものにするよう命じた。だから彼女はずっとそれを持ち、エディスンの子らに返すこともできぬままにいたのだ。ヴェルフレストが知らず、その言葉をすり抜けるまで。
「命令し直せばよいだけだとトバイが気づけば、どうするか。私に再びカトライを傷つけさせようとするやもしれぬ」
「それは嬉しくない。気をつける」
言ってから王子は片眉を上げた。
「お前は俺の見張りかもしれぬが、お前に見張りはついていないのか」
そのような話をしても大丈夫なのか、と彼が問えばアドレアは辺りを示すように軽く手を振った。
「ローデンが結界を強めた。人外の魔力は魔術師のものとは異なれど、そうそうに王宮のなかを感知はできぬ」
「だがお前は入ってこられたと?」
「よいところを見る」
アドレアはうなずいた。
「ローデンは、私がどこからトバイに縛られ、どうすれば抜けられるかを知っている。彼の結界は私に制限を与えるが、守ることにもなる。味方とする気は無論なく、トバイ同様の警戒を向けているが、敵と見なしてはいない」
「以前は、ローデンがお前の手を借りることなどないと言っていたようだが」
王子はアドレアを見上げた。
「だいぶ状況が変わったようだな。ローデンがお前のことを知ったというのは歓迎すべきことのはずだが、何だか気に入らぬ」
俺よりも知っているなど気に入らぬ、とヴェルフレストはつけ加えた。その物言いにアドレアの口元がわずかに緩んだが、瞳には哀しげな色が宿った。
「だが、それならばここにいれば安全か。ローデンの魔力の内ならば」
「そうはいかない。トバイもそれほどに迂闊ではない。私があまり長く留まれば、強く呼び戻すだろう」
「であろうな。判らぬが、判っていた」
王子は天を仰いだ。
「だが、いまは俺の傍にいるがいい、アドレア。お前が俺を見張ると同時に、俺がお前を見張ってやる。お前が術で簡単に姿を消せぬよう」
「寝台に女を誘う台詞ではないね、王子」
言われたヴェルフレストは片眉を上げ、自分がどこに座っていたかを思い出した。
「そのようなつもりではない。いや、それでもかまわぬがどうせ断るのだろう。お前がその誘いを受けるとしたらおそらくグルスの命令で、それは気に入らぬ。ならばこちらだ」
彼は立ち上がり、小さな卓と椅子の方に彼女を連れようと手を伸ばしたが、それは払われた。
「呑気に逢瀬を楽しんでいるときではないと忘れたか、ヴェルフレスト」
「忘れはせぬが、お前の顔を見ている以外に何ができる。父上から指輪を奪ってこいなどとは言うまいな」
「お前はそうしないだろう。だが」
アドレアは嘆息してから続けた。
「冠は」
「どこだか遠くにあるのだろう。俺の手の出せる場所ではない」
「そうかもしれぬ。だがそうではないかも」
魔女は曖昧で矛盾したことを言った。
「時は近い。お前にはそれを見て取る魔力はないが、風司の血はそれを告げぬか。お前は司を父親に託し、指輪もそれを受け入れたが、継承者であることは変わらぬ。風を見ることはなくとも、感じ取るものはないのか」
「何の話だ」
「――冠が継承者を手にしようとしている」
「……逆ではないのか、普通は」
「どちらでもよい。真実はひとつではない。お前の目に映るものと私の目に映るものは異なり、ローデンやカトライ、お前の護衛や、風読みの継承者に映るものも、また」
「……カリ=ス。ムール。彼らが、どうしたと」
「とても危険な状態にある」
「救えるか」
「彼らの運命にお前は手出しできない」
「だが危険にあると言われて、そうかと腰を落ち着けていられるか。ムールはともかく、カリ=スはどうしている」
「お前が気にしなければならないのは、ラスルの男よりも少年兵士の方だ。彼の定めはお前と交わる。望むと望まざるに関わらず」
「俺の意志とは無関係か。ではお前は」
「何?」
「お前の運命に俺は手出しできるか、という意味もあるが、お前ならば彼らの運命に手出しできるか、という意味でもある」
「どちらもできぬ。トバイが禁じる」
「禁じられたことを破るというのも楽しいものだぞ。……睨むな、そういう話で済まないのは判っている」
王子が本当に「判っている」とはアドレアには思えなかったが、それについて苦言を呈するのはやめたようだった。
「風見と風読みの継承者。見るものと読むもの。似ているが、異なる。或いは異なるが似ている。どちらでもよい」
「真実はひとつではない、と」
「そうだ」
「魔術師ではないことを呪う日がこようとは思ってもみなかった。俺にも魔術の理が判れば、少しはお前を理解できるかと思うのに」
ヴェルフレストは天を仰いでから、またアドレアに視線を戻す。
「では、ムールの定めに手出しができぬ俺と、何だか判らぬが危難にあるあやつとの道がどう交わる」
「それは」
アドレアは目を伏せた。
「お前が決めた」
「何?」
「言ったであろう。トバイは言葉を曲げるのだ。お前は私のために冠を手にする」
「それは……つまり」
「父王には無理でも」
魔女の口の端がわずかに上がった。ヴェルフレストははっとなる。
「気に入らぬ少年兵にならば、剣も向けられような?――ヴェルフレスト王子」
「――グルス。よせ! ローデン、結界とやらを強くしろ!」
「無駄だ。トバイの術は結界の外でかけられている。お前が発した言葉も同じ。トバイは既にそれを手にし、固く縛っている。〈混沌の術師〉が異界で力を得ようとも、この契約を弱めることはできぬ」
アドレアは、この部屋に現れて以来、一度もせぬことをした。ヴェルフレストに向けて一歩を近寄ったのだ。
「さあ、可愛い王子よ。手をお出し」
「……アドレア」
「何を怖れる? お前が好いたのは、この不吉な魔女だよ。魔物に操られ、簡単に自らを支配される愚かな女だ。アドレアの愛が欲しいか? 抱かれたいか? その身体を好きにしたいか。望むならお前のものだよ、ヴェルフレスト」
「これは、お前ではない、アドレア」
ヴェルフレストは、自身の声が掠れるのを感じた。アドレアは若者の目前まで歩を進め、その腕に納まる位置で、足をとめる。
「何故だい? これも私だ。お前を誘惑はしないと言ったか? どんな魔術も使わぬと? 魔女の言葉を信じるのかい、ああ、信じると言ったのだったね。だが私も言っただろう、それは――愚かだよ」
すい、とアドレアの顔がヴェルフレストに近づいた。合わせられようとする唇を王子は避けることもできた。先にアドレアがしたように。
だが彼は動けなかった。
柔らかく暖かいものが彼の口先に触れ、優しく吸った。
初めて恋をした女から受けた初めての口づけはあまりにも甘く、そして苦い。
ヴェルフレストは目眩を覚えた。
強い情熱を返したい欲求と、これはアドレアではないという惑いに挟まれたため。
それとも、魔力の気配を――覚えたためだったろうか。




