11 忘れるな
魔術師同士が戦うようなことになる場合、もっとも気遣うことは、自分の使う技を相手に気づかせないようにすることである。
戦士たちも近いものはあろう。相手がどこに打ちかかってくるのか、それは決め手となる一撃なのかはたまたこちらの失態を誘う作戦なのか。それを見極められる者が生き残り、勇士と呼ばれる。
だが戦士たちのそれが、経験や勘に頼るのに対して、魔術師たちは知識で技を知る。即ち、はっきりと印を切れば、相手に次の術を教えることになるのだ。
アロダはローデンが込めた印の意味を読み解き、対抗呪文を編み出すか、はたまた防護のものを編むか、ほんの一瞬、いやそれにも満たない時間で考えた。
それは魔術師として反射的な、言うなれば本能的なものだ。その技術に疎い術師は他者と争えば確実に命を落とす。
ここまで生き残り、ローデンと魔術師協会を謀ってみせた男は、言うまでもなくその技に堪能だった。
それ故、アロダは何かを考える前に術を編み、そうしながら驚愕の声を上げた。
「〈場〉を――壊す気か! そのようなことをすれば」
ただでさえ、使われるべきではない魔力の応酬を受けたその〈場〉は既に揺らぎ、溶けようとしている。
ローデンの術はアロダを押さえ、その自由なり命なりを奪うものではなかった。その揺らぎを増やし、〈場〉に劣化を促す反呪文だった。
床にたどりついたローデンの長杖は、倒れ込むことなく、まるで打ちつけられた杭のようにしっかりと立った。ローデンの技がそこに集中する。
アロダは気づいた。この男は、本気だと。
「死にますよ!」
「いいや、死なぬ」
ローデンの暗い瞳が金色に光った。
「私はな」
導師の道を往かなかったふたりの術師は、互いの力をぶつけ合うのではなく、〈場〉の崩壊と存続という相反する目的のために技を織った。
「私は強いてお前を殺さずともよい」
ローデンは先のアロダの言葉を使った。
「殺した術師の数を杖に刻む趣味もない。そのようなことをすれば傷だらけになってしまうからな」
「閣下、あなたは――」
はじめて、アロダの声に怖れが混じった。だがローデンの顔に悦びや満足のようなものはかけらも浮かばない。
「ラゲンドと呼ばれたければ出直すがいい、アロダ。裏切りは最後まで隠し通すものだ。覚えておけ」
金の双眸が妖しく光る。
「次に試せる機会があれば、な」
「そういう、ことなのですか。……あなたは」
「ほう? どうだと?」
「いや、違う。あなたにトバイと同じ色は感じない。人外であることを協会で隠しおおせるはずがない。だがとても……よく似ているようなのに」
「惜しい」
ローデンは言った。
「残念だ、アロダ・スーラン。此度は純粋にその見識と能力を惜しもう。生まれ変わることあらば、そのときは魔物ではなく、異界について学んでみるのだな」
光が弾けた。
それとも、闇が。
エディスン王宮の一室、宮廷魔術師と呼ばれた男がこれまでほんのささやかな術しか使ってこなかったその部屋で、類を見ない特殊な魔術が発動した。
魔術師協会はわずかな揺れを観測したが、出どころがエイファム・ローデンの関わる場所である以上、大した注意を払わなかった。
その特殊さを知るただふたりの人間と、体験させられたひとりが何も語らなければ、何かとても奇妙なことが起こったと気づく者はいない。
からん、と音を立てて倒れたのは、魔術の法則から解き放たれ、物理法則の世界に帰ってきた杖だった。
ローデンはゆっくりと足を進めるとそれを拾い上げ、簡単な仕草をして魔杖を消した。念のために振り返って、花瓶が壊れていないことを確かめた。時相のずれはもとに戻っている。
それから彼は、うずくまる姿に目をやった。
木の杖は男の足下に転がっているが、無惨にもふたつに折れている。
杖などというのは魔力の照準合わせ、なければ術を使えないと言うようなこともないし、あった方が助かるという程度だ。彼らほどの使い手になれば本来、滅多なことではそれを出さない。必要としない。
だがその分、杖を取り出しての決戦ともなれば大事であるから、事実として敗れるよりも杖が折られるという象徴の壊滅の方が衝撃を受けることもある。
「これでもまだ、私を負かすと言うか?」
「……言いませんよ」
アロダは床に腰を下ろしたままで言った。
「どうして、私まで連れ出したんです。そのまま放っておけば万々歳、裏切り者の制裁には完璧だったでしょうに」
「もちろん、お前の命を気遣った訳ではない。私は聖人ではないのだからな」
「判ってますよ。あなたは私の命の糸を持ってるも同然だ。あの縄ははずれていませんからね」
アロダは何も絡みついていない手首を掲げて、嘆息した。
「それで。助かりたければ命令を聞けとでも」
「何故、助けてやらねばならん?」
「……ですよね。気にしないで下さい、夢を見ただけです」
「私の言葉を忘れたか。私が次に何をしろと言ったか」
「何ですって? ああ、コレンズ殿の補佐ですか? あんなの性質の悪い冗談でしょう」
「いや」
ローデンは首を振った。
「本気だ。お前をここから出さぬという」
「面倒臭いことするもんですね。殺しちまえば楽でしょう」
自分の話ではないように、アロダは笑った。笑い声はいささか、乾いていたが。
「その通り。簡単で楽で、話も早い。だがお前はグルスの手駒だ」
「部下じゃないと言いましたよ」
「お前がそのつもりでも、グルスはお前を駒と思っている」
「まあそんなところでしょうね」
「駒を勝手に奪われれば、あれは相応する復讐をするだろう。グルスがどれだけお前を重要と思っているか判らぬが、お前を殺した代償に殿下を狙われでもしたら、ややこしい」
「そんなことトバイはやりませんよ。彼はヴェル殿下を苛めて楽しむ気満々ですから。……ああ、エディスンには三人ほど王子様がいましたね」
守る相手が多いとたいへんですね、とアロダはつけ加えた。
「念のために申し上げておきますが、私じゃ人質の価値なんかはありませんよ」
「そうだろう。そんなつもりはない。ただ、お前を殺して得られる爽快感と危険性を秤に掛ければ、いまは余計な悩みを増やしたくないという答えが出るだけだ」
「成程」
アロダは肩をすくめた。
「爽快感。さっきのあなたを見たあとじゃ驚きませんが」
ふう、と太めの魔術師は息を吐く。
「この場合の危険性ってのは、陛下の隣を追われることをやっぱり避けたいってお話ですよね。私を生かしておく危険性だとか言ってもらえるのであれば、少しは嬉しいんですが」
「言っただろう、裏切りは最後まで見せぬもの。顕現した反抗者には、隠れていたときのような力はない」
「そうでしたね、よい教訓です。次回に活かさせていただきます」
続けて何か言いかけたアロダは首を振ると、考え直してこう続けた。
「あなたは、何者なんです」
「よく知っているだろう、アロダ。いまではよく、な」
ローデンは瞳の真ん中に鈍い金をたたえながら言った。
「私は、エディスンの宮廷魔術師だ」
その回答にアロダは口をつぐんだ。
「では、より励んで私に従ってもらおう。おかしな真似はできまいぞ。これを」
ローデンは何かを摘み上げ、引く仕草をした。アロダは顔をしかめる。
「忘れるな」
「忘れたいですが、ここでうっかりすれば今度こそそれまでということですね」
アロダは心臓の付近に当てかけた手を無理にとめたようだった。
「怖い人だ。ますます実感しました。秘密を知った私をどう殺してやるか、あなたの算段がつく日を楽しみに待ちますよ」
「秘密」
ローデンはアロダとのこの会見中、初めて面白そうな顔をした。
「私が異界と近しいことは秘密でも何でもない。シアナラスやフェルデラはよく知っている。あの当時にエディスンで魔術師をやっていた者なら多かれ少なかれ噂を聞いたろう。いまではみな、忘れているだろうが」
「私だったら忘れやしませんよ、そんな面白そうな話。せっかくいただいた情報だ、少し調べさせてもらいましょう」
アロダもまたにやりとしたが、そこに――さすがに――不敵さはなかった。
「ではアロダ・スーラン術師」
ローデンは掴んでいたものを手放すように拳を開いた、アロダの顔に、隠しきれない安堵が浮かぶ。
「任につき給え。コレンズ導師はお前を懲らしめてやりたくて仕方ないようだから、覚悟をしておけ」
そう言うとローデンは退出を促した。
「心にとめますよ、我が敬愛なる宮廷魔術師閣下」
アロダは立ち上がって伸びなどし、そのあと完璧な礼をしてみせると、変わったことなど何もなかったように決戦の空間に背を向けた。




