07 本物を見せてやろう
「兄貴!」
「愚かだ。誰も彼も愚かすぎるな」
「彼女を放せ」
「放して、どうする」
リグリスは首を傾げた。
「私は、これは不要だと言った」
「リ、リグリス様、どうかおやめくださいっ」
〈風読みの冠〉を手にしたサーヌイは、青い顔のままで叫んだ。
「見誤るな、サーヌイ。これはオブローンの使いではない。ただの愚かな女だと言っただろう。火を操るとて、ただの魔火。聖なる火を持つお前が気にかける価値などかけらもないのだ」
「しかし」
「何が聖なる火だ、獄界神のどこに聖なるものがあるって!? 嘘八百もたいがいにしやがれ!」
「それに獄界神ですらない」
サーヌイの背後から、ユファスが言った。
「お前たちの火もまた、ただの火だ。業火の神なんかじゃない、ごく普通に、調理で使う火と同じさ。属するとすれば自然神、アイ・アラスの火だ。リグリス、お前は判ってるんだな、判っていて、それが気に入らない。だから僕が精霊師だと言ったときに、腹を立てたんだ」
「黙れ」
リグリスは魔女を投げ落とした。
「メギル様っ」
どん、と女が床に落ちる音がすると同時に、サーヌイが叫んだ。同じ瞬間に、ごおっという音がして炎の玉が広間の反対側に向かって飛ぶ。ティルドの前を通り過ぎ、サーヌイの脇をかすめたそれは、一直線にユファスへと向かった。
「最初から、私が試せばよかったのだ」
「ユファスっ」
ティルドは悲鳴を上げた。怖ろしい光景が蘇る。火に包まれたアーリ。彼に救いを求めるように手を伸ばしながら、黒く焦げていった娘。
バン!――と、まるで何かが爆発するような音が拡がった。
ティルドは一瞬、衝撃波のようなものを感じる。炎の玉は、消えた。ユファスを包むことなく、後方に燃え移ることもなく、跡形もなく。
「風司の力を甘く見ない方がいいんじゃないかな。と、これは僕自身への自戒なんだけど」
両手を合わせるような姿勢を取ったユファスは、手が痺れたというようにそれを開くと、ふっと息を吹きかけた。
「こんなことができるとはね。ああ、びっくりした」
「それは俺の台詞だ」
ティルドは力が抜ける思いだった。
「道具を手に持たずとも力を持つか。よかろう、それが判っただけでもよい」
「そんなに、精霊師だと言われるのが嫌だとはね。それが判っただけでもいいよ」
「精霊師……いったい何です、それは」
リグリスの足元、倒れたメギルのもとにしゃがみ込んでいたサーヌイは、主を見上げるようにして言った。
「知らずともよい」
リグリスの即答に、ティルドは思い出すものがあった。
「どっかで聞いたことあるぞ。魔術師とは少し違う火を使うとか……」
「黙れと言っている」
司祭の声音は厳しくなり、その手が合わされ、本を開くような形に動いた。その動きには見覚えがあった。ティルドはぎくりとする。
またも爆発が起こる。
少年の内だけに。
胸を焼く思い出の数々が、彼の心を再び――いや、三度、焼く。
ティルドはふらりとよろめいた。
兄が弟の名を呼んで駆けてくるのが判った。
「駄目だ……くんな、ユファス……」
この術は風食みの力でも避けられない。同じものをユファスが受ければ、兄弟共倒れだ。
「……じゃねえ」
ティルドは歯を食いしばった。
「倒れねえぞ。二度も同じ手に、かかるもんか。俺は、簡単には負けな」
「足りぬなら、足してやろう」
リグリスが言うと、少年の記憶がより詳細になった。より、鮮明に。実際に見なかったものまで、浮かび上がる。見なかった母の死体、父の死体、アーリの――死体。現実には目にしていない。彼の心の内にだけ、あるものだ。なのに、それは酷く鮮やかで、まるでいまこの瞬間に目前にあるよう。
「母さん――父さん。アーリ! ちくしょう! ざけんな! 嘘だ!」
ティルドは闇雲に剣を振り回した。
「嘘だ! あの娘の身体は、残らなかった! 灰に、なっちまったんだ、俺は知ってる!」
がん、と衝撃があった。からん、と剣が床に転がる。痛々しい幻影の合間から現実をのぞけば、リグリスが拾い上げたメギルの杖で自身の剣を払ったのだと――判った。
「ならば」
杖の先が突きつけられた。焦点の合わぬ瞳でそれを見ようとすると、ぐいと肩から後ろに引かれる。ユファスがティルドをリグリスから引き離したのだった。
「次は本物を見せてやろう」
「……何だって?」
少しずつ消えゆく幻影に目をしばたたき、不覚にもこぼした涙を拭いながら、ティルドは言われたことを理解しようとしたが、意味が判らなかった。
「蓮華と名付けたのだったか。風聞きの娘。あれの死体を見せてやろうと言っている」
「リエ、ス?」
生意気な少女の顔が――アーリと同じ顔が活き活きと笑う姿が、ティルドの心に浮かんだ。
「……はっ、できるもんならやってみやがれ。リエスにはすげえ剣士がついてんだ。そう簡単には」
「知らぬのか。風聞きをなくしたあれが、風読みに吸い寄せられるように戻ってきていることを」
「何だって?」
「道具に引き寄せられるのか、それとも継承者に対してなのか、どちらであろうとかまわない。あれももはや不要な存在だが、もしやこの魔女と同じように、思わぬ作用を引き起こすのではないかな?」
「――っと、何すんのよ、痛いって言ってんでしょっ!」
廊下の方から聞き違えぬ高い声がした。ティルドはどきりとし、ユファスもまた同様だった。逃げ切れなかったのか、それともやはり逃げようとなどせず、乗り込もうとしたのか。
「サーヌイ」
「は、はい」
「風読みを」
「は」
青年神官は、天鵞絨の塊を恭しく司祭に差し出した。
「魔女を介抱したければしてもよい。蓮華の人形と一緒に役に立つことになりそうだ。何しろこの様子ならば」
リグリスは薄く笑った。
「この慈愛あふれる兄弟は、おとなしく私の言うことを聞きそうだからな」
〈風読みの冠〉を再び手にした業火の司祭は笑んだままでそう言い、兄弟のどちらもそれに反論することはできなかった。




