11 自然の理
「ひとつには、と言いましたね。ふたつめは何です」
ラタンは唇を歪めて問うた。
「だいたいあなたは、私の何が可笑しいと?」
「私を殺すようなことを言っておきながら、これまでに放った攻撃は幾つだ?」
カリ=スは指を折った。
「お前は口で言うほど、戦い慣れてはおらぬ」
「ああ、何て忌々しい」
神官は天を仰ぎ見るようにした。
「それも認めましょう。私は人殺しなら幾度となく執り行いましたが、戦いとなれば別だ。だが――それが何です?」
言いながらラタンはカリ=スを睨めつけた。
「エディスンが戦争をしていたという話も聞きません。剣の腕、魔法への耐性、どれだけ見事でも、あなただって実戦経験は少ないはずですよ。人を殺したことすら、ないのでは? ああ、賊の類ならあるかもしれませんね。剣を取ってあなたに向かってきた。ですが、こうして術に対する戦いなど、私が初めてのはず」
「それが、何だ」
カリ=スは同じように返した。
「どのような状況であろうと、戦うべき時に戦う。神の加護があるのはお前だけではない、神官」
「砂の神……ロールーと言いましたか。よいでしょう、あなたの神と業火神、どちらが力があるか、代理戦争と行きましょうか」
「不遜だな」
カリ=スは剣を握り直した。
「お前の神はそのようなことを信徒に望むのか。それはずいぶんと」
砂漠の男は笑った。
「弱い」
「その言葉」
ラタンは目を細めた。
「後悔めさるな」
神官はまたも何かを取り出した。またも何かが投げつけられるかと、カリ=スは軌跡を読むつもりでその手元を見た。だがラタンはその物体で放物線を描く代わりに、小さな棒状のそれをひねるように操作した。
カチリと音がすると同時にラタンは呪を唱え、次の瞬間には強い勢いの火柱が砂漠の男をめがけて一直線に飛んできた。
何が投げられたとしてもカリ=スの予測を上回る速度ではなかっただろう。
だが魔法の火となれば違う。
神官に向けて思い切り踏み込むつもりでいた砂漠の男の反応は、瞬時、遅れた。前方に向けてかけた体重を脇に逸らし、思い切り右へ跳んだ。ラタンが真正直にカリ=スの身体全体を撃とうとしたのであれば、それはかろうじて避けられただろう。しかし神官はカリ=スが避けることを見越したか、いちばん最後まで残る場所――足部に向けてそれを撃っていた。
カリ=スの左足、深靴から膝にかけて、炎が走る。火を消す能力を持つ〈風食みの腕輪〉の使い手は、ここにはいない。
「砂神に祈ったらどうです!」
ラタンの笑い声がした。
「ロールーはオブローンの火を消しますか? ああ、神様は一信徒になんて関わっていられませんね、お忙しいという訳だ」
燃えさかる炎の熱、足が焼ける痛みに襲われれば、常人ならば叫び声を上げて転がり回り、気の狂ったように火を消そうとするだろう。
カチリ、とまた音がした。火を消そうと試みてその場にとどまれば、次は間違いなく炎が身体を包む。
カリ=スは火を消すために思い浮かんだ幾つかの方法を一瞬で切り捨て、その場にとどまることの次に危険なことをした。錆びた剣を振りかぶり、神官に向かって、炎が腿まで届こうとする左足を抱えたまま、走ったのだ。
「無茶なことを。お忘れですか、風は火を煽る。新たな火を撃たなくとも、あなたが火に包まれるのは時間の問題」
風を切って走り込んだ砂漠の男を襲う火は、神官の言葉通り勢いを増し、いまやその腰にまで届こうとしている。刃こぼれた剣が神官に届くかどうかという直前で――。
カリ=スは、愛用の曲刀を取り落とし、そして地面に――くずおれた。
ラタンは笑う。
声を出して、満足そうに。
「ここまでですね、カリ=ス殿。ああ……ようやくいい気分になれる。いや、いま少し」
神官は歩を進めた。
「ここまできたら、苦痛の叫びや悲鳴が聞きたいものだ」
暗い悦びが声に宿った。
「役に立たぬ呪いの言葉、恨み言、何かないのか、カリ=ス。あの人形や殿下へ伝えたいことや詫び言でもあるなら言ってみろ。気が向いたら、託されてやっても――」
その続きを神官ラタンは発することができなかった。
「何……」
苦しげな呻きは、ラタンの口から洩れた。
剣を落とした砂漠の男は、二本目の刀子をその手に握っていたが、もはやそれを投げる必要はなかった。
素早く放った一本目のそれが、狙い過たず、ラタンの心の臓を貫いていたからである。
どう、と音を立てて神官が前方に倒れ伏す。カリ=スはしかし、それをじっと見守ることはしなかった。
彼は熱と痛みに遠くなりそうな意識を懸命にとどめながら、地面に左半身を打ち付け、火に風を与えまいとした。焦る心を抑えながら上衣の留め具を外し、汗でわずかに湿ったそれで、火を叩いた。
耐え難い熱と苦しみ、右半身も食いものにしてやろうと手を伸ばしてくる火と戦うことに全力を傾けた。
乾いた空気に火は強い。上衣はすぐに火に包まれだした。カリ=スはそれを捨て、次に神官の死体からローブを奪うことを考えたが、すぐに燃えるであろうことでは彼の上衣と変わりない。カリ=スは激痛を堪えながら立ち上がると、火に風を与えることを承知で、走った。
先までいた小さな木小屋――その裏手にあったものを思い出したのだ。
ここで初めて、彼は砂の神に祈った。
それがまだ、機能しているようにと。
彼の努力で少し鎮まった炎は、やはり風の力を受けて再び燃えはじめる。砂漠の男が小屋の裏手にたどり着いたとき、火は彼の腹から胸、背をも喰らい出していた。
意識を保ち、いや、行動していられるのがもう奇跡のようなものだった。或いはそれは、大砂漠を離れても彼を見守る砂神の加護であったろうか。
気を失えば、終わりだ。カリ=スは錆び付いた蝶番に戦いを挑み、それをねじ伏せた。ぎぎっと抗議の声を上げて開いた木箱のなかには、恵みのものが湛えられていた。
使われていなかった見張り小屋の面倒を見る者などいるはずがなかったから、それは雨神の御恵みであっただろう。
カリ=スは火消し用の水槽である箱に左足を突っ込む。煙が立ち上り、水の女神は救いを与えんとした。
だがまだ消火し切れてはいない。彼は苦悶のうめきを滲ませた。
飛び込めるほどには、水槽は大きくない。ここで恐慌をきたせば、やはり、終わりであったろう。
だが、ラスル族の間で〈守りの長〉になるはずだった男は、まだ加護を得ていた。彼は水槽の脇に置かれている桶に気づくとそれをひっ掴み、水を大きく汲んで頭から何度もかぶった。
蒸気が上がる。
水神は、火神に勝利した。自然の理である。
カリ=スは深く息を吐くと、桶を投げ捨てた。足が震え、がくりと膝が折れる。
極度の緊張から逃れた安堵が、彼の目の前を暗くしていった。
しかしカリ=スはそのまま夜の女神の抱擁に身を委ねる訳にはいかない。
焼死を逃れるために水をかぶり、そのまま倒れ込めば――冬のビナレスの空気は、火の熱を逃れた彼の身体から必要な熱までも奪って、殺す。
カリ=スの脳裏に浮かんだのは、神官からローブでもはぎ取ればそれで水滴を拭けるだろうか、というようなことだった。
男はほとんど這うようにして、先の場所へ戻ろうと試みた。
焼けた肌、常人であればとうに気を失う広範囲の火傷が、熱とは違う激痛をもたらす。
限界まで張りつめた気は、尋常ならざる精神を持った男の体力を最後まで搾り取っていた。
ここで気を失えば、今度こそ。
そう判っていても、どうしようもないこともあった。
業火の神官を刀子で下し、神官がもたらした火を逃れたラスルの男は、想像を絶する痛みのなか、急激に冷えていく身体を意識しながらそこで遂に――目を回した。




