09 お気に入りでしょう
「少しおやすみください。侍女に香り水でも持ってこさせて。ちょっと眠れば治りますよ、若いんですから」
「戸も開けずに戻ってきたことをどう言い訳しろと?」
「言い訳の必要なんかないでしょう、王子殿下にそんなことを詰問する侍女がいますか」
「筋の通らぬことは気に入らないのでな」
そう言う侍女がひとりいる、などとは言わず、ヴェルフレストは口の端を上げた。
「それじゃ、私がお連れしたと言っておきますよ。事実なんですし、魔術師に詰問する侍女もいないでしょう」
「はっ」
ヴェルフレストは笑った。
「堂々と王宮を歩き回る気か、裏切り術師」
「うろつき回りゃしません。報告に行くだけですって」
「本気で、ローデンのもとに?」
王子は目を見開いた。そのようなことを言ってはいたが、まさか本気とは思わない。ローデンがにこにことアロダを迎えるはずがないのだから。
「かけられた制限は弱くても、強制力は強いんですよ。この制約を解くにはローデン殿にやっていただくか、私か彼が死ぬしかありません。……そんな顔しなくても、魔術対決なんかしません。負けますから」
騒ぎになるのもご免です、などとアロダが呑気に言ったとき。
「殿下!」
戸を開けた侍女が目を丸くして立っていた。主は昨夜この寝室を使っていないにも関わらず、掃除にでもやってきたらしい。す、と魔術師は姿を隠す。
「も、申し訳ございません」
入室の許しも得なかったことへの詫びであろうが、いないと思っていたのだから許可など求めないのは当然である。形の上ではその無礼を叱責するべき立場のヴェルフレストだが、彼は間違って当然のことを咎める気にはならなかった。
「かまわぬ、仕事を続けろ」
「殿下、ですって?」
顔を青くした侍女の背後からひょいと顔をのぞかせ、きれいな顔を歪めたのはもちろんファーラ・メンディスである。
「またこっそり戻ってこられたのですか! ここの侍女はみなヴェル様の言うことを聞くのですから、私たちまで謀ろうとされなくても」
ファーラにしてみればこれは「当然の叱責」である。
「そうではない、事情があったのだ」
ヴェルフレストが手を振ってそう言えば、ファーラはじろじろと主を見る。
「ご事情。ええ、そうでしょうとも」
ファーラは両腰に手を当てた。
「どういうおつもりなんです。あんなふうに城を抜け出して、一日は戻られないと覚悟していましたのに、早いご帰還ですわね」
「早くてはいかんのか?」
「いいに決まってます。あんなお手伝いをしたのがばれればクビですから。ですけれど、こちらにはこちらで計画というものがございますのよ」
「計画」
ヴェルフレストは面白そうに繰り返したが、ふと、ほかにも面白そうな顔をしている人間がひとりいることに気づいた。
「こりゃ面白い侍女がいたもんですな。賭けてもいい、殿下のお気に入りでしょう」
再び姿を現したアロダは、どうと言うことのない口調で言った。侍女たちは突然その場に現れたように見える魔術師に驚愕したが、行儀よく口を閉ざし――そして王子は、首の後ろがちりちりとする感覚を味わった。
「ファーラ」
「何です」
「控えよ」
「は?」
「お前の言動は、目に余る。俺を誰だと思っているのだ。もう少し、王子への口利きを学び直すがよい」
瞬時、ファーラの表情が硬くなった。
「下がれ」
「申し訳ございません、ヴェルフレスト王子殿下」
侍女はすっと温度を下げた声で言うと、完璧な礼をして踵を返した。
「ほう、問題児という辺りですか」
アロダは顎に手を当てた。
「そうだ。少しばかり甘い顔をするとすぐにつけあがる」
「成程ね。ヴェル殿下」
魔術師は肩をすくめた。
「あなたは賢いが、馬鹿ですな」
「──何」
「さっき、〈白きアディ〉がやったのと同じことだって判ってます? あの魔女はトバイからあなたを隠したくて、あなたをけなし、遠ざけようとした。いまのあなたは侍女を私から隠そうとした。かなりの、気に入りですね」
「何を……訳の判らんことを」
「あのですね。殿下は賢くていらっしゃいますが、いかんせん経験が少ないです。私を騙すのは無理ですよ」
にこにこと魔術師は言った。
「ファーラ嬢ですか。彼女に何かあったら、お嫌でしょうねえ」
「――脅迫か」
「とんでもない。脅してどうするんです。そんなことしたって殿下のお気持ちは変わらんでしょう。苦いものを覚えたって、戦う気は失せない。それにトバイの望みは、殿下に無力感を覚えていただくことです。たとえばあの侍女の命と引き替えに指輪を取ってこいとか、そんな無粋なことは言いません」
「では」
ヴェルフレストは唇をなめた。「ではどうする気か」とは続けられなかった。聞きたくない言葉を──聞きそうで。
「『ではどうする気か』?」
しかしアロダはそれを先取った。
「彼女が死ねば、殿下は嘆かれるでしょうねえ。不要な渦に巻き込んだと自分を責めるでしょうか。何も殺さなくたって、あのきれいなお顔に傷でもついたら彼女はショックでしょうね。殿下はやっぱり、ご自身を責める。まあ、きれいな女性にはきれいなままでいただきたいですから、そんな底意地の悪い方法は採りたくないですね」
否定の形を取った言葉は、言い換えればつまり、ヴェルフレストがファーラを守れないことを教えるために彼女を傷つけるという意味になった。「無事と引き替えに何かをしろ」ではない。ヴェルフレストがトバイ・グルスからアドレアを取り戻す気でいる限り、彼の気に入りの侍女を傷つけるのだと。
「馬鹿なことを――言うな。俺の保護下にある侍女をおかしな目に遭わせれば、ただでは済まさぬ」
「おやおや」
アロダは楽しそうに言った。
「侍女全体を大事に思っていると、そう思わせるおつもりで? 彼女は何も特別ではないと? いやはや参った、そこまでいまの娘がお気に入りとは。これはよいものを見せていただきましたね」
「アロダ」
王子は強い声音で魔術師を制そうとしたが、当然と言おうか、アロダは歯牙にもかけなかった。
「アドレアにファーラ嬢。そうそう、スタイレン伯爵令嬢の噂も聞きましたよ。それからご婚約予定のライティア・ワーカス侯爵令嬢。いやあ、色男は守る女が山ほどいてつらいですな。幸い私にゃおりませんがね。あ、ひがんでるんじゃありませんよ」
魔術師は実ににこにこと言ったあと、ヴェルフレストが何か巧いことを言い返せないでいるうちに、思い出したように退出の礼をすると王子の私室をあとにした。魔術ではなく、ごく普通に足で部屋を去った魔術師の姿に侍女たちは困惑しただろうが、教育の行き届いた彼女らが悲鳴を上げて大騒ぎすることはなかった。
残されたヴェルフレストは、アロダのほのめかしたことに腹の辺りがぎゅっと重くなるのを感じていた。
アドレアの姿が脳裏に蘇る。トバイ・グルスに――抱き締められた。
心臓の辺りが痛くなる。
彼女が本当に解放されるなら、指輪だって冠だって惜しくはない。そう言ったのは、本音だ。アドレアやローデンがどれだけそう言わせまいとしたとしても、心から思っていようと口にしてはならぬと、言えば縛られると説明しても、彼はやはり言っただろう。
だが、指輪も冠も彼のものではない。
父王に帰したものを取り返すことなどできない。
冠の方はどこにあるとも彼には知れず、知っていたところでそれもまた父王か、或いは継承者であるティルドのものだ。
グルスは彼にどうさせたいのか。
指輪のために、いや、アドレアのために父親に剣を向ける? 馬鹿な、そのようなことはできない。決してしない。
ローデンならば何か上手い方策を思いつくだろうか?
いや、それがアロダの禁じたことだ。グルスと戦おうとすれば、ファーラやリーケル、ライティア――には親しみを覚えてはいないが、責任はある――を傷つけると言った。
グルスはやはり、ヴェルフレストとカトライを争わせたいのか?
「違う」
王子は呟いた。
そうとも言えるが、そうでは、ない。
グルスは、彼の苦しみを望んだ。
アドレアを所有し続け、その解放の条件として〈風見の指輪〉がいつかヴェルフレストのものとなったとき、それを寄越せと言うのだ。
その日まで、アドレアはあの男の隣にいる。
ならば、その日がくるのはいつか?
カトライがみまかり、ヴェルフレストが指輪を継ぐ日?
彼が継ぐとは限らない。指輪はヴェルフレストを認めたかもしれないが、形の上では兄のデルカードが継ぐのが自然だ。もしデルカードが継がずとも、二番目の王子ミラオレスもいる。それを飛ばしてヴェルフレストが継ぐというのは考えづらい。
ならば、ヴェルフレストが指輪を継ぐには?
王子は肌に粟が立つのを覚えた。
彼が愛する家族の死を願いながら愛しい女の苦しみを思う日々、それがグルスの――望みか?
「冗談ではない」
彼は苦々しく言ったが、その声はわずかに震えた。




