08 叩き込んでおくがいい
あんまり苛めたら可哀相ですよ、というのは何とも緊張感のない台詞だった。
「トバイ、殿下は初めての恋に燃えてらっしゃるんですから。少し労って差し上げて下さいよ」
「──アロダ」
王子を幾度も面白がらせた魔術師の呑気な言葉は、しかしこのときヴェルフレストを戸惑わせただけだった。
「裏切ったと言うのは、では本当なのか」
「失敬な。裏切ってなんかいませんよ。私ゃ最初からトバイの有用になるように動いていただけです。ローデン閣下に雇われることを了承したのも、上手いこと指輪とアドレアに近づけそうだったからですよ。分の悪い賭けでしたが、とりあえずは私の勝利ですかね。ただ、彼女には殿下の方がずいぶんと近寄られたようですが」
「ごまかす気か」
王子は言ったが、詰問の意図はなかった。
「そりゃあ少しばかりごまかしたこともありますが」
そのあたりはお互い様じゃないですか、などと術師は続けた。
「俺が何をごまかしたと?」
「魔女への恋心ですよ」
アロダは平然と言った。
「得体の知れない女を追いかけて魔物と対峙するほど惚れてらっしゃるくせに、興味があるだけだなどと。ああ、ごまかした訳ではなく、自覚されてなかったんでしたね。いまは、されたようで」
「した」
何とも素直にヴェルフレストは認めた。どんな形であれ反論をされると予測していたか、アロダの顔に苦笑が浮かぶ。
「トバイ、〈媼〉が動くかもしれません」
魔術師はヴェルフレストの背後からすっと歩を進め、王子と横並びになるように立った。
「あの〈海神の妹〉か。エディスンの守り手。私には何の影響もないが、ドレンタルは嫌がるだろう」
「殺れとか言わないでくださいよ。あの女と魔術戦を繰り広げるくらいなら王子殿下を差し出した方がましですよ」
「……おい」
「おや、ご不満ですか。ああ、既に差し出されているとでも。誤解ですよ、殿下がまっすぐ、正面切って堂々と、乗り込んできたんじゃありませんか」
まるでティルド殿みたいです、と言われたヴェルフレストは少し唇を歪めた。
「私ゃそろそろローデン閣下にご報告行かないとならんので。できれば、トバイ、第三王子殿下を見殺しにしてきましたというような話はしたくないんで、そこは頼みますよ」
「ローデンに報告だと。まだ謀るつもりでいるのか」
少し驚いてヴェルフレストは言った。アロダは眉をひそめる。
「とんでもない。ローデン殿の目は節穴じゃないです。私がこれまで成功したのは、絶対に顔を見せなかったからでして。報告も決して、ごまかそうなどしませんでした。多少、連絡をうっかり後回しにしたことはありますがね」
「では、今度はうっかり、何をする」
「これからやるのは真摯な報告ですよ。たとえば、ユファス殿の命と引き替えにティルド殿が首飾りを探してきましたが時既に遅く、お兄さんはもう冥界行きですとか」
「何だと」
「冗談ですよ」
ヴェルフレストは顔を険しくしたが、アロダはあっさりと言った。どこまでが「冗談」なのか、事情を全く知らぬヴェルフレストには判断のしようがなかったが、魔術師自身は自分の「冗談」を気に入ったらしく、少し笑った。
「それで、お話はどんなふうにまとまったのですか」
「王子殿下はアドレアのために冠を手に入れてくださるそうだ」
グルスは笑いを含んだ声で言った。
「お前がアドレアを解放するなら、だ。契約とやらから、まとめて全部な」
ヴェルフレストがグルスを睨みつける。
「なかなかに強欲だ」
〈欲食らい〉は笑った。
「大胆なこと仰るもんですね、ヴェル殿下。ローデン閣下に怒られますよ」
「怒られる度合いならば、お前の方が上だろう」
「滅相もない。閣下は私のことなんか気にしませんよ」
アロダは大仰に肩をすくめた。
「あの方の頭には陛下とエディスンをお守りすることばかり。そう言う点でそこの魔女と似てますね」
アロダはグルスに抱かれたままの女を見た。
「おやおや、そうしているとまるでただの女だ。不気味な魔女と魔物でお似合いのはずなんですが。不思議なもんですね、トバイ。あなたはまるで小娘を人質にした大悪党に見えますよ」
ヴェルフレストにしてみればそちらの方がより真実に近かったが、彼以外にとっては相当の皮肉であった。言ったアロダは平然と、言われたグルスはわずかに口の端を上げ、アドレアは視線を落としたままだ。
「ではその大悪党の片棒を担ぐ小悪党としては、アロダ、やるべきことを判っているな?」
「魔女のお守りは嫌ですからね。それよりは殿下のお叱りの方がなんぼかましです」
「よかろう。では王子殿下をお連れしろ」
「そりゃよかった。それではヴェル殿下、宮殿へ戻りましょうか」
「お前たちに言われるまま、素直に戻る訳があるか」
ヴェルフレストは差し出されたアロダの手を完璧に無視した。
「俺はアドレアに会うためにここへきた」
「それなら叶ったでしょう。ささ、帰りましょう殿下」
「会えばよいというものでもない。俺は彼女に話があるのだ」
「話」
グルスが興味深そうに言った。
「我が魔女にどのような話があると? 聞いておこうか」
「お前に話すことなど何もない、偽りの神官めが」
「話など」
アドレアが声を出した。ヴェルフレストははっとする。その声は小さかったが、力強かった。
「話などない。お前のような愚かな若造に目をかけた私が間違っていた。エディスンの家宝を守ろうとする気概があると信じた私こそ、愚かだった」
「――そのようなことを言われれば、俺が落胆したり腹を立てたりして引くと思っているのならそれこそ間違いだ、アドレア。お前に馬鹿にされることには慣れているぞ」
「何とでも言うがいい。お前は業火の神官を取り逃がし、あまつさえ砂漠の男を疑って神官の口車に乗りかけ、私の言葉でようやく誤りに気づいたな。その不甲斐なさが私をエディスンへ連れ、お前の『保護者たち』に忠告をさせた。首飾りを追いきれず、手にした耳飾りもあとにして私についてきて、何の役にも立たぬまま、このようなところまで。全く、当てにならない。使えぬ子供だ」
アドレアが王子に反論の隙も許さず言えば、笑ったのは女を抱く男だった。
「何とも可愛らしい。王子に嫌われようと必死か、アドレア。先にも言ったろう、お前が何を言おうと、王子殿下はお前に惹かれている。言えばますます惹かれ、私に怒りを覚える。見て判らぬか? いまや王子はお前への想いで胸がいっぱいだ。そうして無力感に嘆く。私はたいそう、心地よい」
「黙れ」
ヴェルフレストは唸った。
「いちいち言われずとも、よく判っている。その言葉の通りだ。俺はますますアドレアに惚れるし、彼女を救いたくてたまらず、お前に怒りを燃やす。いや、違うな。無力感などは覚えぬ」
そう言うと王子は、だらりと下げたままだった抜き身の剣を片手ですっと構え直した。
「アドレアを放せ」
「それはあまり」
グルスは不満そうな声を出した。
「美味ではない。捻れた怒りは好物だが、愚か者のまっすぐなる思いはつまらない味しかしない。アロダ」
「何でしょう」
「早くそいつを連れて行け。そして、自分はアドレアのために何もできぬのだと叩き込んでおくがいい。王子が本当にそう思えるようになったら、先の約束を果たしてもらおう。それからの方が、稀有なる美食が味わえそうだ」
「出来たての料理は美味いが、熟成させた素材ならなおさらという訳ですな。判るような気もします。時間をおいて落ち着かせた乾果実入り焼菓子などは出来たてとは違う味わいが」
「アロダ」
「はいはい。私が混ぜっ返すとせっかくの美食が台無しになりますね。さあ、殿下」
「触るな」
ヴェルフレストは掴まれた腕を振り払おうとしたが、意外にもしっかりとした力で魔術師はそれをさせなかった。
「触らないとご一緒できないんですよ。ほら」
アロダはもう片方の手で印を切りはじめた。
「やめろ」
ヴェルフレストはそれをとめようと剣をアロダの方に向けかけた。だがそれが為される前に、視界がぐにゃりと歪んだ。
光が走る。
目の前が白くなる。
「やめろ!」
彼は叫んだ。
「アドレア!」
どさり、とヴェルフレストはやわらかいものの上に落ちた。ガン、と鈍い音を立てて剣が寝台から床に転がった。
「お帰りなさいませ」
瞬時に走るは、激痛と言っていいほどの頭の痛みである。王子はうめき声を上げて両手で頭を挟み込んだ。
「おやおや。気をつけて差し上げたんですが。近距離だし、問題ないだろうと思ったんですがね。魔術は体質的に苦手でいらっしゃるようだ。魔女とつき合うのは諦めた方がよいですよ」
「……いったい」
王子は自身の部屋の、主のいない間も上質な布団が丁寧に整えられていたやわらかな寝台の上に起き上がりながら、じろりと魔術師を見た。
「どの面を下げてそんなことを抜かすのかと思えば、変わらぬようだな」
「おかげさまで。私ゃ自分を偽るのはあんまり得意じゃありませんので」
アロダは平然と言った。
「嘘八百を並べ立てることもできますが、それよりも如何に真実を並べ立てて相手を煙に巻くか。この方が高等技術だと思いませんか。殿下もユファス殿も上手に勘違いしてくださいました。カリ=ス殿の慧眼には気をつけましたが、ティルド殿が反発してくるのは予想外でしたね。まあ、それを私への疑いではなく、魔術師嫌いと上手くすり替えられたから成功しましたが」
「俺よりムールの方が目がよいか。それはあまり面白くないな」
ヴェルフレストは嫌そうに頬を歪めたが、自分が疑いもしなかったことをティルドが見抜いていたかもしれないという不満のためではなく、頭痛のためだった。




