04 強き火種
またも腕に力が込められた。ティルドは叫び声こそ出さずに済んだが、その表情は悲鳴を上げたも同然だった。
少年は館の手前でアロダに対して同じようなことをやったが、本当に腕を折るようなことまではおそらくできなかっただろう。しかしリグリスは違う。
骨が音を立てそうだ。ティルドは痛みに涙さえ浮かべそうになりながら、必死で隙を探した。
リグリスは彼よりも長身で、完全に少年の背後を取ってはいるが、戦士ではない。ティルドはいくら小柄であっても職業兵士で、若いのだ。為す術がないなどとは、下手な命乞いよりも情けない。
少年は乱れた呼吸を意志の力で整えると、ぎりぎりと押さえつけられる腕が楽になる方向に行こうとする本能と戦った。逃げようとすることはリグリスの想定内だろう。そんなことをしても無駄だ。
「本物ではないと言う証拠でもあるか」
「証拠」
ティルドは心のなかで数を数えた。タイミングを計る。
「んなもん」
あまりに痛くて本当に涙が出てきそうだ。だがそれもまた情けない。
「ねえよっ」
叫ぶと少年は、思い切り床を蹴ってリグリスに体重を投げつけた。予期しなかった攻撃に司祭の身体がよろめき、腕が緩まる。この機会を逃してはそれこそ、どうしようもなく情けない。ティルドは今度こそ司祭の腕を振り切って、ばっと身を反転させると数歩を下がった。
「あー、痛え。人の腕だと思って好き勝手しやがって」
少年は息荒く、解放された右腕をさすった。痺れた感じがある。関節が外れる寸前、というところだったかもしれない。
「ティルド殿、おかしな真似は」
「あのなっ、言っとくが、おかしな真似されたのはこっちだっ」
右肘がじんじんする。この状態では、たとえ帯剣していたところで、剣を抜くことすらできない。
「あれが偽物だと?」
リグリスが憤懣やるかたないと言った顔で少年を見る。ティルドはにやりとして見せた。
「そうだよ。ざまあみろ」
言い捨てればサーヌイの顔色が青を通り越して白くなるが、当然、ティルドの知ったことではない。
「俺がお前らに風具を運んできてなんかやるかよ!」
本当のところを言えば結果的にそうなっただけであって、彼はあれが本物であっても同じことをしただろう。だが〈予期せぬ幸運は神の贈り物〉だ。この場合の神は幸運神であって、間違っても業火神ではない。
「レギス……偽物屋か」
リグリスは呟くようにした。
「恩を仇で返すとは。許してはおけぬ」
「何だか、知らねえが」
司祭の瞳に宿った「偽物屋」とやらへの怒りのことなどティルドは知らぬし、どうでもいい。
「人様のもん奪ってった盗人が何抜かしやがる。早いとこ〈風読みの冠〉を返してもらおうか。嫌だとは言わせねえ」
さすがのティルドも、我ながら丸腰でよく言うものだと思ったが、やはり当然リグリスも鼻で笑った。
「あれはエディスンのものではない。無論、ポージルのものでも」
「だからってお前のもんでもねえだろうがっ」
少しずつ痺れの治まってきた右腕は、しかしまだ痛みが残る。ティルドは腕を押さえたままで言った。
「あれが誰かのもんだってんなら、継承者のもんだろ。なら、何で俺かはともかく、俺のもんじゃねえか。判ったら返しやがれ」
「ティルド殿! そ、そのような口利きは」
「知るか。お前にはご主人様でも俺には盗賊にしか見えねえな!」
「小うるさい」
リグリスはすっと手を上げた。
「子犬だ」
瞬時、ティルドは気圧された。
リグリスが何か魔法を使ったというのではない。ただ、男が人生を重ねて培ってきた迫力に、十七歳の若者は押された。
「見境なく吠える犬には仕置きが要るな」
すいと男が一歩を進める。ティルドは後ずさりしたくなったが、壁際であった。
「――はっ」
迫力負けしたことなど認めたくない少年は、相手を睨みつける。
「やれるもんならやってみな。俺には火なんか通じない」
実感がある訳ではないのだが、そのはずである。
「火というのは」
リグリスは更にもう一歩を進めた。
「燃えさかる炎だけではない、子供」
そう言うと業火の司祭は両の手を合わせ、本か何かを開くような動作をした。すわ、そこから炎でも出てくるかと警戒をしたティルドは次の瞬間、目の前が爆発したような感覚に襲われた。
「な……っ」
それはまるで、後頭部を強く殴られたか、それとも酷い宿酔いの朝か、高熱を押して無理に起き上がりでもしたときのような。
色とりどりの激しい光の粒が少年の目の前を飛び盛る。
「や……やめろ!」
見えたのは光だけではない。
小さな診療所の火事。死んだ父、死んだ母。もういないのだと知ったときの虚無感。愛おしいと感じた少女。火の魔女。燃えさかる炎の柱のなかでくずおれていった、大切な少女。兄にすがって大泣きした小さな部屋。魔女に再会したときの怒り。届くと思った剣が戦士にとめられた驚愕。魔術師の技に倒れる兄。死んだと聞かされたときの――真っ白になった心。
それらがわずか一瞬のうちに少年のなかに蘇り、彼を襲った。
苦しみ。哀しみ。憤り。怒り。愛ですら。
身体ではなく、心を燃やす強き火種。
強烈すぎる思い出の数々は、癒した時間を取り払って、はじめてそれを知ったときの大きな力で少年を撃った。
光の粒が揺れる。
目が回る。
胸が痛い。
息ができない。
自分の両膝ががっくりと折れていくことにティルドは気づかなかった。
浅い呼吸に回した瞳が閉ざされる直前、獄界神の司祭の手が伸ばされてきたことにも。
それは傍から見れば、何とも皮肉なことに、まるで救いの御手のようであった。




