03 見込んだ通り
少年はそのいまだ短い生涯の内、そうたくさんの人間と接した訳ではない。
このたいへんな旅に出てからは出会いに次ぐ出会い、そして再会ということになっていたが、それより前。
レーン小隊長のもとで訓練に励んでいた間は、周囲の顔に代わり映えはなかった。なかで最も刺激的だったのはリーケル・スタイレン伯爵令嬢との語らいと、それに伴うヴェルフレスト王子殿下のご訪問であり、それ以上の事件は少年を訪れなかった。
彼が兵士の道を選んだ理由のひとつは、金銭的にいち早く自立するためであった。正規兵となれば衣食住が保障される。
幸いにして試験に受かれば、そこは規律もしっかりしていて、真面目にやっていれば裏ごととは縁がなかった。ある程度、酸いも甘いも噛み分けてから入隊していればまた話は違ったろうが、成人と同時に軍兵となったティルドをそうそう裏道に引き込もうとする「先輩」もおらず、彼は非常に真っ当な兵士であった。
だから、知らない。
自分の利益のために平気で他者を陥れ、ささやかな金のために人を殺し、人々の上に立って好きなように力を振るいたいと考える人間が、何も獄界神を崇めるものでなくても、数多くいること。
頭では、知っている。
エディスンのような大都市では様々な事件が起こるし、悪い噂だって〈蝗の群れのよう〉に存在する。レギスでは盗賊や情報屋などという裏に生きる「知人」もできた。
だが知らない。
自身の欲望のために、どんなことをも躊躇わず、正当化して良心の呵責も覚えない人間がいること。彼ら兄弟を迷惑に思って邪険にした親戚だって、最低限の世話はしたものだ。
だから知らない。いや、知らなかった。
このとき、ドレンタル・リグリスという男を目の前にしたとき、ティルド・ムールの内に浮かんだのは、判ったという思いだった。
この男は、業火の司祭だから邪なのではない。暗い心を抱くから、その道を進んだ。
そこに至るどんな事情や、過去や、絶望があったのかは知らない。苦労はあっても乗り越えることができたティルドでは思いも寄らない不遇があったのかもしれない。
だが、そうであったとしても。
この男を目の前にした少年は、骨まで冷たくなった気持ちがした。
サーヌイはその純粋なる信仰心から風を業火に与え、エディスンを「浄化」すると言う。
それは十二分に狂気だが、「狂気であるという理解」が可能だ。もちろん納得などはするはずもないが、「そういう信仰心を抱いているのだ」と考えること自体は難しくない。
だが、リグリスにはそれが感じられない。
エディスンのような大都市の王であれ神殿長であれ、そうした存在になることを望むのであれば、全てを焼くなど馬鹿げた考えのはずだ。手段や可能性はどうあれ、そのまま乗っ取るのであればともかく、灰燼に帰してどうなる?
この男はそれを望んでいるのだと言う。
まるでただ、「そうしたいから」と言うように。
少年は、ぞっとした。リグリスが「もうひとりのサーヌイ」であれば、それはそれで怖ろしい話だが、やはり理解できる。
しかし、そうではない。この男の狂気は、裏に正気を持っている。
そのことが、ぞっとした。
「これを出歩かせてどうする。勝手なことをするな」
「申し訳ございません」
サーヌイは深々と礼をした。
「ですが、リグリス様の御為になることと」
リグリスは片眉を上げた。サーヌイ青年が「ですが」などと彼に反駁することは珍しかった。謝罪や弁解の響きのないそれは、初めてであったかもしれない。
「何をするつもりでいる?」
「まずはティルド殿に風読みを継いでいただき、それから神の御許にお送りしようかと」
彼らがそう言うつもりであることは知っている。だからと言って、当人の目前で、当人がいないかの如く、殺すつもりですなどと簡単に言わないでほしい、とティルドは少し思った。
「まだ早い」
リグリスは、ティルドにとって有難いような、結局は殺すつもりなのだからどこも有難くないような返答をした。
「早い方が、よいのです」
サーヌイはまた反駁した。これはリグリスには相当、予想外のことだったらしい。司祭は眉をひそめて青年神官を見る。
「何か掴んだか。何かを見たのか」
「掴んだというのではないのですが」
サーヌイは視線をいったん床に落としてから、少しうなずいて司祭に目を戻した。
「まずは、私。それから、リグリス様。何故そのことに気づかなかったのか、自分で情けなく思っておりましたところです」
「何」
司祭はじっと神官を見た。だがリグリスがそこに、これまでと変わった色――不審や反感――を認めることはなかった。
「誰かに何か、吹き込まれたのか。スーランあたりか」
「スーラン殿? いいえ。彼はいろいろ話しますが、重要なことは決して言いません。気づかせてくれたのはラタン殿です。感謝を」
サーヌイは何の揶揄もない謝意の仕草をした。ティルドはその意味に気づいてますますぞくりとする。
若者はティルドを殺し、自らが継承者になり、そして殺されることを感謝しているのだ。
リグリスは計るようにサーヌイを見る。ティルドは、腕を掴まれたままであることに今更気づいたように、それを振り払おうとした。
「サーヌイ」
だが司祭は少年にそれをさせきらず、手首を掴み直すと背後にねじり上げた。ティルドは苦痛の呻きを洩らし、そんなものを洩らした自身を呪う。
「お前がそのつもりでいるのなら、それはオブローンの御心に適うことだ。よくぞ言った。私の見込んだ通りだな」
言われたサーヌイは嬉しそうに頬を赤くし、ティルドはそれに吐き気を覚えた。
「お前ら」
少年は声が震えなかったことに安堵し、リグリスを睨みつけられないことを残念に思いながら続けた。
「おかしいんじゃねえのか」
「リグリス様に何ということを」
神官は赤くした顔をさっと青くする。判りやすい。気味が悪い。
「だってそうだろう、こいつはお前を利用することしか考えてないのに、お前はそれを神への奉仕だと思ってる。野心と狂信にもほどがあるだろ、お前らはどっちもおかし」
「負け犬が。吠えるな」
取られた腕が更にねじられた。ティルドは悲鳴を上げそうになり、だが今度は懸命に堪える。
「サーヌイ、お前が風読みを継ぐつもりでいるのならば、そうだな。このようにうるさい子犬は早々に始末してしまう方がよかろう」
「ま、待てよ」
ティルドは焦った。リグリスがやれと言えば、サーヌイはいまこの瞬間にだって嬉々としてティルドを殺そうとするに決まってる。彼は火を避ける力があるかもしれないが、この狂人どもがほかにどんな力を持っているのか判らない。メギルは魔除けが効かないと言ったし、だいたい、刃でこられれば継承者の力も魔除けの力もあったものではないのだ。
「首飾り! そうだ、どうすんだあれは。俺を殺したら在処は」
命乞いはいささか情けなかったが、情けないからと言って殺される訳にもいかない。ティルドは慌てて叫んだ。
「何の話だ?」
「彼は、あれが偽物だと主張しています、リグリス様」
「偽物」
ティルドに見えない位置で、司祭の顔が不機嫌そうになった。
「私を謀ろうとしたと」




