08 落ち着かれましたか
兄は、本当に死んだのだろうか。
火の魔女は、本当に風食みの司を殺すことができたのだろうか?
考えれば考えるほど、ティルドの心はその疑い――希望に動いていった。
ユファスは〈風食みの腕輪〉を継いだ。
意味は相変わらずよく判らないが、とにかく彼らは酒場の炎を消した。そしてティルドがメギルの術を受けても火に包まれなかった、それと同じ力を兄は持っている。
腕輪をその手に持っていなければ、力が一切発動されない? あれは、そんな弱い結びつきであろうか? 風食みの司が炎で焼け死ぬようなことが、あるだろうか?
死者を冥界に導く精霊ラファランは、ユファスの唯一の身内たるティルドに何も知らせていない。
気づかなかったのか。兄に何かあれば絶対に判ると、そう思っていたのに。
血縁の結びつきだけではない。いまでは、風具と呼ばれる不思議な道具も彼らふたりの間を結ぶのだ。
ティルドは首を振った。悩んでも、答えは出ない。
代わりに出てくるのは、希望。
ユファスは、生きているのではないか。
その考えは正しい情報を持たない彼にとってただの儚い空夢であったかもしれないが、ティルド・ムールを完全なる絶望から救うのには大いに役立った。
もしその思いが打ち砕かれれば、少年は希望の顔をした悪魔に長年、悪夢を運ばれることになっただろう。幸いなことに、少年の感性は見事なまでに正確だったが、彼はそれを知らない。
それどころか、少年の理性はそれが希望に過ぎないことを少年の感情に諭していた。
生きているのではないかと思う、それに根拠はない。あるのは、思わせぶりな態度を取る魔女の言葉だけ。
彼の知る魔女であれば、ユファスの死に衝撃を受ける少年に対して、冷笑のひとつも浮かべるだろう。
公正なところを言えば、ティルドはメギルを「知っている」と言うよりこういう女だと「思っている」ところが多分にある。だが、兄を殺したと言いながらのこのこと弟の前に現れて、馬鹿にするでも嘲笑するでもない。
あまつさえ、休んでおけ、にはじまり、アロダが気づいているだの、いまはいないだの、じっとしていろだの魔除けを持っていろだのいるなだの──魔女が結局どっちを意図しているのか少年には判らなかった──、忠告めいた台詞を寄越す。
考えることを苦手とするティルドにはいささか迷図のようなメギルの言葉をひとつずつ紐解いて、縒り直してみれば、「メギルはユファスを生かしており、神官たちには死んだと思わせている」と、正しい解釈ができた。
アロダはメギルの嘘を知る、または疑っているが、いまはいないから問題ではない。ユファスは逃げようとして殺された「ことになっている」から、同じことはするな。魔除けは、アロダの術──とメギルのものも入るだろう──には効き、神官たちの術にも効く可能性はあるが、リグリスとサーヌイには効かぬから過信するな。
あとで――助けにくる。
いや、まさか魔女が彼を直接助けるということはないだろう。だが、何か打開策を持ってくる。
メギルの言葉がそう言うものだったと考えると、ばらばらだったはめ絵が完成する。
だがそれもまた、儚い希望だ。魔女がそのようなことをする理由がどこにある?
まさか本当に、兄に惚れたのでもなければ。
それはやっぱり、冗談ではない、と言いたくなることだった。
しかし、リグリスの怒りを買ったというユファスが、逃げだそうとしてメギルに殺されたなどという作り話――だとすれば――を魔女がする理由が思い浮かばない。
ピラータで出会い、レギスで協力をした――のかされたのかよく判らない――砂漠の青年ならば、その魔女には得の勘定があるのだと言うだろうか。
だとしたら、それはいったい?
「だあっ、判るかーっ!」
彼はどうにも考えづらかった。メギルが兄を助けて匿っているなどと言う思いつき自体──当たりであるにも関わらず──得心がいくことではなかったが、ましてや無償奉仕であるはずもない。
メギル自身が答えを見つけられていないことを年若い少年に判るはずもなく、彼はそれについて考えることはすぐに放棄した。
(あいつが兄貴を助けるなんて、考えられない)
(でも)
(そうであってくれれば)
ティルドに黙って殴られたことは、どうだろう。
魔女が彼の拳をまるで謝罪のように受け入れたために、ティルドはユファスの死を信じかけた。
そのためにこうして捕まった。
だが、そうでなければアロダにラタン、サーヌイを相手に立ち回りを演じ、大怪我でもした末に──やはり捕まっただろう。
そうあれば、メギルは彼を救ったことになる。
苦いものがこみ上げる。
アーリを殺した女に、救われた?
少し前までなら、ティルドはそんな自分に怒り心頭、もちろんメギルにも呪いの言葉をあらん限り投げつけただろう。
(俺、変だ)
いや、と思い直した。
(変なのは向こうだ。何だか急に違う顔を見せてきて)
(そうだ)
(ガルとの再会以来、だな)
「冷血の魔女」が「ひとりの女」の顔を見せた夜。
化け物ででもあればいいのに、あれは人間なのだ。
過去を持ち、現在を持ち、未来を持つ。
(未来)
(アーリには、ない)
それを思えば、たとえ兄を救っても自分が救われても、メギルを許し、感謝することなどできるはずもなかった。
もし、これが全て的外れだったら、少年は自分の頭の働きを生涯呪うことになったろう。
だがこれまで、彼が周辺を戸惑わせてきた直感は見事に的の中心を射ていた。アロダの件は筆頭だ。
あの魔術師を思い出せば腹が立つ。やっぱりどこかで一発ぶん殴っておくべきだったと少年は考えた。
戸が叩かれたとき、ティルドはまるでそこにアロダがいるかのようにきつく睨みつけ、だがそうではなかったので――魔女の言を信じるという馬鹿げたことをするならば、あの魔術師はエディスンだ――一瞬反応に迷う。
そして、迷う必要はなかったと気づくと、現れたサーヌイを同じ鋭さで睨めつけた。
「いかがです、落ち着かれましたか」
にっこりと神官は言った。
「んな訳あるかっ」
ほとんど反射的に怒鳴り返す。
「いけませんね、心が乱れていては」
サーヌイは首を振ると、そうだ、と両手を合わせた。
「香茶をお持ちします。いい葉があるんですよ」
「要るかっ」
「お嫌いですか? ですがあまり強いものも薦められません」
「茶も酒も要らねえよ、お前らの館で呑気に飲み食いなんかするかってんだよ!」
「毒なんか盛りませんよ」
「んなのを疑ってるんじゃ」
叫び返しかけたティルドはふと違和感を覚えた。
何だろう、と思う。
見逃すな。何か重要なことが――。
ティルドははっとした。
「毒など入れない」などサーヌイらしくない。この純真神官から出てくる言葉はいつも、怖ろしくも真摯に彼を案じるものだ。むしろティルドの方で「毒でも盛られたらたまらない」と言っては神官の叱責を受けそうなものである。
そんなことを思ってサーヌイを見たティルドはどきりとした。
危惧ばかりが浮かんでいたその気弱そうな顔にあるのは、笑みだった。それは、怖ろしいほどに優しい。
「お兄さんは神の御許においでなのですから、あまり落胆されずに。惜しむらくはメギル様の火であったことですが、オブローンの神官に最後の祈りをもらったのですから、ちゃんと獄界に往けますよ」
「てめえ」
ティルドは低い声で言った。違和感があった。サーヌイの言葉には、これまでと同じように皮肉はない。だが、これまでなかったものがある。
それは、自信だったろうか。
不吉なものを感じた少年は、いつものように声高に怒鳴り立てることはしなかった。
「てめえ、誰だ」
その言葉に神官は首を傾げた。
「サーヌイ・モンドです。ちゃんと申し上げましたよ。あまり聞いていていただけなかったようですけれど」
少し困ったように肩を落とした姿は、ティルドの見慣れた――見慣れたくもないのだが――サーヌイである。
少年は、一瞬訪れた不気味な感覚は幻だったのかと思った。ここは敵の陣地だから、そんなふうに感じるのかと。
「お兄さんの遺品でもお返しすべきなのが筋かもしれませんが、まさか〈風食みの腕輪〉をお渡しする訳にいきませんし」
それは冗談なのか皮肉なのか、単なる本心なのか。
「そうそう、お話があるんですよ、ティルド殿」
サーヌイは口調を変えた。どこか、陽気なものだった。
「〈風謡い〉のことです」
「あれが、何だよ」
少年はぎくりとしたのを見せぬよう、言った。




