06 与えてやってもよい
海からの風は潮の香りと湿気をはらみ、世辞にも爽やかだとは言えない。
それでも彼はそれを好いていた。
遠く南の地、中心部の空気は冷たく乾いていて肌を刺した。
爽やかではなくとも、エディスンの風は心地よい。
だがこのとき、ヴェルフレストは生まれて初めて、その風にまといつかれるような嫌な感じを味わった。
「アドレア」
彼は掠れる声で言った。
「こちらを向け」
それがアドレアでなければよい、というささやかなる希望が、しかしエディスンでは存在し得ぬ儚い淡雪のようなものであることは、最初から知っていた。
そこにいるのは〈白きアディ〉と呼ばれる長命の魔女で、彼が愛しく思っている女だ。
赤い瞳がゆっくりと、エディスンの王子を見た。
遠い昔、遠い遠い過去の日々、彼女がこの場所で愛を交わした恋人とよく似た姿が、そこに立っている。かつての恋人にさらさずに済んだ姿をその青い瞳におさめながら。
「――おかしなところを見られたようだ、王子」
魔女は掛け布を胸のところで押えながら身を起こしてそう言った。彼女の声は、掠れなかった。
「わざわざ、ここまできたのかい。物好きだね。だが、これで判っただろう」
魔女は一秒瞳を閉じ、そして開いた。
「さあ、最後の機会だ。前言を撤回おし、ヴェルフレスト」
その言葉の意味は王子に通じた。魔女など信用ならぬと言え。アドレアはそう言っている。
「黙れ」
男はヴェルフレストの方を向いたままで、すっと手を振り下ろす仕草をした。まるでその手に殴られたかのように、アドレアの身体が揺れる。
「アディ!」
ヴェルフレストは知らず、一歩を踏み進めた。
「くるな!」
魔力の乗せられた声、或いは、恋する女の厳しい声に、若者の足は止まる。
「このままきた道を引き返し、お前の宮殿へ戻れ。そして魔女に騙されそうになったことを呪うがいい。〈混沌の術師〉とともに、お前の父と母を救う方法でも考えるのだな」
「黙れと」
グルスは、先に振り下ろした手を逆になぞるように持ち上げた。
「言っている」
アドレアの顔が歪んだ。首を掴む見えぬ手を振り払おうとするかのように自身の首に伸ばされた両手は掛け布を離れ、白い上半身を露にした。ヴェルフレストにその凶手は見えない。だが見えようと見えまいと、彼の取るべき行動は同じだった。
「やめろ、グルス!」
さっと王子の白い手が左腰の細剣に伸びる。すらりと抜き放たれた王子の剣は、狭い小屋のなかで小さくかまえられた。と見るや否や、アドレアから再び制止の声がとんだ。
「おやめ、ヴェルフレスト。すぐにそれをしまってここから」
「アドレアがほしいか、王子よ?」
笑いを含んだグルスの声がアドレアの言葉にかぶせられた。
「我が魔女の力がほしいか? それとも身体。まさか、心などと楽しいことは言うまいが」
「俺の望みが何であるかなど、お前に関係はない。俺がお前に言うべきはこれだけだ」
王子はグルスと名乗る生き物をきっと睨んだ。
「アドレアからも母上からも離れて、二度とこのエディスンに近寄るな。従えば、特別に許してやってもよい」
「お許しくださると。これは可笑しい。王子殿下、私に権力などは通じぬよ」
グルスは言った通り、可笑しそうに笑った。
「母君はいささか退屈な女だ、王子よ。彼女の夫は誠実すぎると見えて、自らの妻にろくな技巧を仕込んでおらぬと見える」
「何――」
「一方で我が魔女は素晴らしいぞ。私が直々に教えたことをずっと忘れずに覚えておる。一度試してみるか、王子よ? お前が抱いたどのような熟練の春女よりもお前に快楽を与えようぞ」
「巫山戯るな!」
ヴェルフレストは怒鳴った。怒りが渦巻いた。このように感じたことはなかった。
彼の母親と彼が恋する女、どちらの身体も知るという目前の男。嫌悪、嫉妬、それらも王子のうちには浮かんだだろう。だがそれよりも強く若者を支配するは激怒と、憎悪。
「グルス、そこへなおれ!」
ヴェルフレストは古い木の床を蹴ると小さくかまえた細剣を横に引き、逃げようともしない神殿長を名乗る男に容赦なく刃を振るおうとした。
彼はいままで、訓練で兵士を相手取ったり、旅の途中でカリ=スが賊の類を追い払うのに協力した程度のことはあるが、現実に人間を斬ったことなどなかった。防衛のためではない、殺意を持って剣を振り上げたことも。
いや、殺意ではないやもしれぬ。
あとで冷静に考えてみれば、あれは殺意と言われるものだったのだろうかと思うこともあろうが、怒りのあまりの衝動的な行動は、グルスを殺してやろうだとか、そのような判断の上に生まれるものではない。
どのような論理的思考がその内にあったとしても。それともただの感情、まるでティルド少年が幾度も評された「直情」と言われる勢いに支配されたのだとしても。
ヴェルフレスト・ラエル・エディスンの振るった刃がそのとき、トバイ・グルス=リグリスに届いていれば、たとえそれが魔物であったところでその息の根はとまっただろう。最悪でも、抵抗力は奪ったはずだ。
だが、刃は届かない。
グルスが逃げたのでも防いだのでもない。
ヴェルフレストが直前で、その剣を引いたのだ。
その切っ先にいるのが白き髪をした魔女であると気づいた、瞬間に。
「――アドレア。馬鹿な真似をするな。お前を……斬るところだったでは、ないか!」
ヴェルフレストはほとんど悲鳴のような声を出す。〈白きアディ〉は、まるで黒ならぬ白ローブを身につけているかのように掛け布を裸身にまとったまま、彼の目前で手を印の形に結んでいた。
「そうだな、アドレア。少し無茶だ。王子が剣を止めきれねば、お前はいま、死んでおったやもしれぬぞ」
魔女が身を呈してかばうようにした男は、感心できないというように首を振った。
「お前は不老でも、不死ではない。血を流せば死ぬ。死ねば、魔女の魂などは獄界行き間違いなしだ。業火の神の慰みものになりたいか、我がアドレアよ?」
「生涯をあなたの慰みものになるよりはましね――トバイ」
「まだそのようなことを言うのか」
グルスは魔女の剥き出しの両肩を掴むとそのまま引き寄せるようにした。
「どれだけの月日が流れても愚かで可愛い女のままなのだな」
アドレアは抗うように身をよじった。それはとても、これまでヴェルフレストが目にしてきた不気味な魔女には見えなかった。男の力に怯えるひとりの若い娘のような。
ヴェルフレストはかっとなる自身を覚えた。
「アドレアを放せ」
王子は搾り出すような声音で言った。
「生憎だが、これは我が女にして下僕、私の作り上げた魔女だ。遠い過去に一度我が手を逃れ、愚かしくも逃げ切ったと思い込んでいた。我が〈風見の指輪〉を手放すなどと馬鹿げたこともしたが」
「お前のものではない」
ヴェルフレストは腹の底から声を出した。
「〈風見の指輪〉もアドレアも、お前のものではない!」
「はっ」
グルスは笑った。
「ではお前のものか、王子。欲食らいも顔負けの欲張りのようだな」
嘲弄するような声は、ヴェルフレストの頭に血を上らせる。
「何を――」
「ヴェルフレスト」
か細い声が、怒りの炎と化しかけた王子を瞬時に冷ます。
「挑発に乗るな。この男はお前の」
「お喋りは要らぬ、我が魔女」
グルスはどこかふざけるような――まるで恋人同士がじゃれ合っているかのような気軽い手つきで女の口を塞いだ。
「欲しいものを与えてやってもよい」
「何だと」
「但し、ひとつだけだ。エディスンの家宝か、それともお前の〈心の玉座〉に座している宝か?」
風見の指輪か。
アドレアか。
「巫山戯るな」
ヴェルフレストは低い声でまた言った。
「指輪もアドレアも、お前のものであったことなどないものを」




