10 何もおかしくない
暑い土地の生まれでなければ、中心部付近の冬はそれなりだ。
寒いことは寒いが、大仰に言い立てるほどでもない。まして〈冬至祭〉は過ぎた。あとは暖かくなっていくだけである。
馬での疾走は風を切ることになるけれど、この獣の背に乗ることにだいぶ慣れてきたリエスは、カリ=スに抱えてもらわずとも、そのうしろにぴったり張り付くことができるようになっていた――即ち、それでも落ちる心配はないとカリ=スが判断をした――から、大きな男の身体が冷風を遮る。快適な旅路とは言えないけれど、いくらかは楽だ。
「調子はどうだ」
時折、カリ=スには必要ないであろう休憩を挟みながら、彼は必ずリエスに問うた。
「大丈夫みたい。あの耳鳴りみたいの、耳飾りのせいだったのね、きっと。カリ=スが壊してくれたんでしょ。ありがとね」
「礼を言われることになるか、まだ判らぬ」
砂漠の男は首を振った。
「あれはお前に属するものだった。あのときは躊躇いなどなかったが、いまにして思えば、お前に悪影響を与えることになるかもしれぬと考えるべきだった」
「あのとき」
思い出すようにリエスは言った。
「ティルドの声がしたの」
言いながらもリエスは、認めたくないというように顔をしかめた。
「あれが風聞きの力でも何でも、いまはよく判らないんだけど。聞こえないし」
「壊したためか」
「かもね。よく判んないわ。ただ、気持ち悪いのが治ったことも事実ね」
少女はあっけらかんとしたものだ。
「可愛い耳飾りだったとは思うけど、あたしにとってはそれ以上のもんじゃないのよ。もしカリ=スが躊躇って、あたしが耳飾りごとあのラタンの手に渡ってたら、いまごろ何されてるか判んないわ。そっちの方が問題」
「ヒサラがそうはさせなかっただろう」
「ああ、さっきのお兄さん。なかなかいい男よね。傷跡は目立つけど、前髪伸ばして隠しちゃえばさ、愁いを秘めた美青年って感じになるわ、きっと。ね?」
同意を求められても困るというもので、カリ=スは苦笑するにとどめた。
「あのお兄さんの薬は飲んでもいい訳」
「飲んだ方がよいだろう」
「でもほんと? ほら、アロダさんのこと。面白いおじさんだったのに。あいつらの仲間には見えなかったのになあ」
「あれが演技であれば大した役者だが」
「何でカリ=スは、あの人が怪しいって思った訳?」
「判らぬ」
砂漠の男の返答は短かった。その先に何か続くかとリエスは少し待ったが、続かないようだと気づくと頬を膨らませた。
「『判らぬ』で終わらせないでよ、『判らぬ』で。どこかおかしなとこがあったの? いつから疑ってた?」
「おかしなところは、特になかった」
カリ=スは答えた。
「重要なことは口にしなかったが、それをローデン閣下のご指示であるように感じさせた。実際、ご指示であったのやもしれぬ。意味のないことをよく喋ったが、それも何かを隠すためと言うよりは生来なのだろう。ラタンに感じ取ったような不吉なものも覚えなかった」
「だから、それなら何で、あの人の薬を飲まないように言ったのよ」
それを訊きたいの、とリエスは言った。
「『判らぬ』はなしよ」
「なしか」
カリ=スは笑った。
「もっとも気に入らなかった点は、あのときも言ったが、お前の症状も知らぬのに薬など作れるのかというところだった。魔術師には見て取れるものがあるのかもしれぬが、私の知る限りでは、どんな薬師も症状に併せて薬を作り、患者に渡す。以前に服用している薬があれば、それとの作用も考える。万病に効く薬などはないのだし、症状は似通っても人それぞれだ。賢く正しい薬師であればあるだけ、薬作りには慎重になる」
「ふうん」
リエスは判るような判らないような気分だった。
「誰か、薬師のお友達でもいるの?」
「友人だというのではないが、ひとり、恩人がいる。ああ、かの老人には薬師ではなく薬草師だと訂正されたな」
「同じじゃない?」
「薬師は医者の親戚で、薬草師は学者の親戚だそうだ」
「ふうん」
リエスは砂漠の男をじろじろと見た。
「カリ=スが薬を必要とする状況ってのがよく判んないわね。あ、自分のじゃなくて誰かのだ」
「そうだ。我が部族に蔓延った病のために薬を必要とした。私が暮らしていた土地はここと習慣が異なり、金というようなものもなかったから」
「お金がない?……いったい、どんな奥地が出身な訳」
「大砂漠と言われる場所だ」
「ロン・ディバルン!?」
嘘でしょ、と返しそうになったが、カリ=スがそんな嘘をつく人間でないことは承知である。
「東国、じゃなくて。更にその、東」
「そうなる」
出身を話して驚かれることには慣れていたから、カリ=スはただうなずいた。
「こことは文化も習慣も異なる。私は知らぬ土地で戸惑い、そこでカトライ様にお会いした」
「エディスンの王陛下ね」
「彼は外交のために東の町を訪れていた。そこで途方に暮れる私に手をさしのべ、薬師、いや、その薬草師を見つけることを手伝ってくださった。通貨の存在を知らぬ私を哀れんでくださったか……いや」
カリ=スは微かに笑った。
「いまならば判る。彼はヴェルの父君だ。面白がってくださったのだな」
「王様が、薬を買ってくれたの?」
「そのようなことだ。私は必ず恩を返すと彼に誓い、部族へ薬を届けたあとは砂漠を離れ、誓いを果たすためにエディスンへ向かった。そして彼の命じるままにヴェルと旅をし、いま、ここにいる」
「ふうん」
リエスは言ったが、これまでの「判らない」というような反応と異なり、その目は少し輝いていた。
「じゃあ王子様とだけじゃなくて、王様とも仲いいんだ?」
「カトライ様は、私のことをご記憶されていらっしゃらないようだった」
カリ=スは笑って否定した。
「さもあろう。彼は日々多くの人々と出会い、多くの言葉を交わす」
「訊いてみたの? 覚えてるかもしれないじゃない」
「一兵士が王陛下と言葉を交わすことはない、リエス」
「なら」
リエスは笑った。
「やっぱり、覚えてるかもね」
「どちらでもよいのだ」
砂漠の男は言った。
「私と民が覚えている。それだけでよい」
「へええ」
少女は感心したような声を出す。
「何だかすてきねえ……ロマンだわ」
少女のロマンは砂漠の男にはよく判らなかったが、彼は敢えて口を挟まなかった。
「ところでリエス。心は、変わらぬのか」
「えっ、何? ああ……まあね」
うっとりとしてた少女はその夢見がちな表情をやめて、唇を歪めた。
「だって、心配だもの。ティルドとユファス。アロダさんに見事に騙されちゃってさ」
「さんと言うのだな」
「え? ああ、うん。だってそんな感じしない? あの人、悪いことやっててもあの調子でにこにこしてるわ、きっと。……それって憎たらしいってことかしら」
「そうだな」
「『憎たらしい』が?」
「『悪いことやっててもあの調子』がだ。彼には彼の信義があるのだろう。ならば認めるというものでもないが、相容れぬ道に恨みをぶつけるのは筋違いというものだ」
「うん。そう、それ。さすがカリ=ス。いいこと言うわ。……でもひとつ、いい?」
リエスが言うと、何だというようにカリ=スは片眉を上げた。
「もし、騙されてヴェルが怪我でもさせられてたら、そんなふうに冷静じゃないでしょ?」
「冷静とは行かぬだろうが、騙され、ヴェルを守れなかったとしたらそれは私の失態で、やはり誰かを恨み罵ることではない」
「何だかカリ=スって」
リエスは眉をひそめる。
「神官みたい。ううん、それより」
少女は悪戯っぽく笑った。
「神様みたい」
超然としてるわ、とリエスは続けた。
「悩みごととか、ないでしょ」
「なければよいが、いくらかはある」
「でも答えを見つけるわ。いいなあ、私にもその能力分けて」
「分けられるものならば」
砂漠の男は真面目に答えた。
「では、リエス。お前は何を悩む」
「えっ?」
「そう言うからには、悩みがあるのだろう」
「別に……ないけど」
「ティルドのことか」
「なっ……何よそれ」
リエスは目をぱちぱちとさせた。
「何か誤解があるんじゃないでしょうね」
「誤解とは何だ」
カリ=スは肩をすくめた。リエスは奇妙な唸り声のようなものを発する。
「ティルドのことは確かに気になるわ。でもそれ自体が変なの」
リエスの言葉にカリ=スは首を傾げた。
「何故、変だ。誰かに惹かれることは何もおかしくない」
「でもさあ、あたし、ティルドのこと変態って思ったのよ」
リエスが思い出すようにしながら言うと、カリ=スは目をしばたたいた。
「だっていきなり街なかで人の腕掴んできたのよ。その次は、こっちが抵抗できないのをいいことに抱きかかえて」
それはたいそう語弊のある言い方であったが、リエスとしては正直に語っているつもりだった。




