07 叶わないものだよ
「何を知る、〈媼〉」
「長年生きれば、知ることもあるさ。まあ、〈白きアディ〉に比べれば私なんか娘っこだけどね」
その名は王子の鼓動を軽く弾ませた。
「アドレアを知るか」
「直接は知らないよ。ただ話は聞く。何故だかエディスン王家の人間の前にちょくちょくと姿を見せる長命の魔女。契約を交わした主を持つが、その主は長年不在だったと見えて、誰かのために立ち働くという様子はなかった。ついこの前までね」
「――馬車に火を放ったと」
「そう。気に入らないようだね、殿下?」
「彼女がそんなことをするはずがない」
ヴェルフレストは言ったが、初めてそれを聞いたときにヒサラに返したような強い響きはそこになかった。
「するはずが、ないんだ」
彼の繰り返しに〈媼〉は少し笑った。
「子供が駄々をこねているようだよ」
それも、と老婆は続けた。
「どんなにわがままを言っても親が折れて望みを叶えてくれることはないと判っているのに、自分の思い通りにならぬことを気に入らず、駄々をこねるような」
「俺が子供だと言うか」
「子供だ」
カリ=スに言われてもアドレアに言われても腹立たしくは思わなかった。だがいま、彼はどこかむっとするものを覚えた。
それは言われた相手のためではない。
「王子よ、お前はいままで、思い通りにならぬことはなかっただろう。王子様のご希望は、たいていの人間が率先して叶える。仮に唯々諾々とではなく、多少苦言を呈する誠実な者がいたとしても同じさ。結局、叶える」
ヴェルフレストの脳裏には、何だかんだと言いつつ彼の隠れた外出を手伝ったファーラの顔が浮かんだ。
「全くなかったとは言わないよ。たまにはあっただろう、王子殿下の望みのままでないことがね。だが、珍しいことであれば、それは興味深い現象に思えるものだ」
ティルドの反発。カリ=スの反対。次はそれらが王子の心に蘇る。
「それが駄目だの間違っているのと言うつもりはないよ。ただ、世の中には思い通りにならぬことの方が多いもので、たいていの人間はそれを知っているけれど、享受しがたくて嘆いたり、憤ったりする。面白がりはしない、というような意味だが」
「ではお前が言うのはこうか、術師。俺にもっと、世の中を知れと」
「まさか。私はお前の親でもないんだから」
カトライならば言うだろうか、とヴェルフレストは思った。サラターラは言わなさそうだ。
「だがもしかしたらお前は、この先どんな困難に行き当たっても、それを面白いと思うかもしれないね。そういう人間もたまにはいるから。ただ、このことだけは、どうにも面白がれない」
「『このこと』」
「他人の心が思い通りにならぬのは、まあ、気に入らなくても仕方ない。けれど、自分の心が言うことを聞かないのは、どんな賢者にだって厄介ごとさ」
〈媼〉はすっと遠くを見る目つきをした。それは、自身の遠い過去を思い出すようでもあり、ヴェルフレストの背後を見るようでもあった。
「その道を行かせたくはないけれど」
「それはやはり」
ヴェルフレストは少し口を歪めた。
「とめにきたということではないか」
「行くことをとめるんじゃない。さまようことをとめにね」
〈媼〉は哲学的、或いは魔術的なことを言った。
「殿下は」
言いながらシアナラスはしわくちゃの手を上げて額にあてた。それは頭痛を堪えるか、それとも何か考え込むかのようだった。
「魔法の壁の向こうに、何をお求めか」
「ひとりの女を」
彼は即答した。
「成程。思い通りにならぬ心のため。全ての女を魔女にする自然の理のためだね」
「自然の理と魔術のそれは同じだと、アドレアは言ったが」
「少し違うね」
女魔術師は首を振った。
「魔術の理が自然のそれに従うのさ。多くの術は人が思うほど捻れてはいない。ただ、なかには確かに酷く歪めるものもある。だが歪みは術師当人に還るから、頭がついてればそれを避けるか、避ける方法を探す」
シアナラスは自身の額から手を離し、そのまま王子の背後を指さした。
「ちなみに、後者は闇だの黒いのと言われる術師に多い」
ヴェルフレストは背後を振り返ったが、そこには特に何もなかった。ないように見えた。
「決して白くない〈白きアディ〉に会いたいのかい、殿下」
「そのためにきた」
「お前が夢見ているような神秘的な女ではないよ」
「俺が思うことを知っていると言う訳か、術師」
ヴェルフレストの言葉は咎め立てではなかったが、シアナラスは謝罪の仕草などをした。
「俺はアドレアに会い、確かめねばならんことがある」
「父王を殺そうとしたか、と?」
「それは」
彼は唇を歪めた。
「彼女の意志ではない」
「エイファムは教えなかったか、魔女の意志などどうでもよいと」
「言った。だがどうでもよくなどない。アドレアには意志があり、俺にもある」
王子が言うと、老婆は少し笑んだ。
「力だね。若いと言うことは時に弱みだが、時に力だ。いまだ傷つくことを知らぬ心は、それを怖れない」
「傷つくだと? 俺が傷つくというのか? 何のために」
「ひとつ教えよう、若いの」
魔術師は言った。
「相手が魔女だからじゃない。初めての恋は、叶わないものだよ」
「――はっ」
彼は笑った。
「俺は、アドレアに惚れてもらおうとは思っておらぬ」
「どうかな」
彼女は首を振った。
「そんな台詞は、もう少し……そうだね、少なくとも十年以上経って、たくさんの恋を経験したあとにお言い」
恋多き王子などと言うのは、街には面倒かな、とシアナラスはつけ加えて笑った。
「魔術を使う者として。同時に女として。殿下、助言をしよう。お前の魔女はお前に会いたいとは思っていないどころか、避けたいと考えているよ」
「理由は」
「思い通りにならない心のため。だがお前とは違い、アラントの〈心の不可思議〉についてのものでないことは判ろうね?」
シアナラスは戯曲「アラントの恋」の一説を使って言った。愛を望んでいるのにそれが叶うとなれば怖れる、というような葛藤を謡ったものだ。
「思い通りにならないのは、契約のため、か」
「そう」
王子は短く問い、老婆も短く答えた。
「それで〈媼〉よ。助言というのは『アドレアが俺を避ける』ということか?」
「おや、あまり助言にはなっていないね。それではもうひとつ。会えばお前は悔やむだろう。そして生涯それを背負うことになる」
「脅しか呪いか、それとも予言かな。どれでもかまわぬが」
ヴェルフレストはその青い瞳をすっとシアナラスに合わせた。
「俺は行く」
「……いいだろう」
〈媼〉と呼ばれる女はうなずいた。
「エイファムならば固辞しようね。けれど私は、このように皺だらけでも、女だから」
シアナラスはにっと笑った。
「道を開いてやろうね。――若い恋のために」
静かに老婆は言った。




