05 微かな希望
「サーヌイの話を聞いたわ。夜明けに叩き起こされたんですってね。疲れたでしょう、休んでおくといいわ」
「大きな世話だ」
「そう言わないで。体力が要ることだって、あるわ」
「――はっ」
少年は唇を歪めた。
「スーランはいま、いないの」
突然メギルはそんなことを言った。
「どこ、行ったんだよ」
話題がどう繋がるのか判らないままでティルドは返した。
「さあ。エディスンではないかしら。報告をしに」
「ローデン様に?」
ティルドは乾いた笑い声を立てた。わざわざ宮廷魔術師にご報告に伺うのがいまだに奴の義務――制約とか言ったか――なのだとしたら、ものすごい皮肉である。
魔術師同士はどうとか言い訳のようなことを言っていたが、のこのこと報告などに現れた裏切り者をローデンがにこやかに迎えるはずもない。
「ローデンのところとは思わないわ。報告は上げるでしょう、縛られたままだから。けれど、だからこそエディスンに行って、そこから術を使うのではないかしら。こちらの場所を特定させないためか」
魔女は肩をすくめた。
「違う理由かもしれないわね。あの男は必ずしもリグリス様の下僕じゃない」
「〈裏切り者の忠心〉てやつか」
少年は、決して信じられないことを表現する言い方を使った。メギルは首を振る。
「裏切った、というのとは少し違うでしょうね。あの男は最初から同じ相手に仕えているのだから」
騙した、謀ったという辺りね、と魔女は言った。
「とにかく、スーランはいない。そんなものを大事に持っていても無駄」
「何?」
どんなものを持っていると言われたのか、少年は判らなかった。
「以前に持っていたものとまた違うのね。魔除けの石よ」
「……ああ」
砂漠の若者になかば押し付けられた円盤状の石のことなど、忘れていた。
「それはあなたに害を為そうとする魔術を忌む。もしスーランがあなたを傷つけようとしていたら、彼の魔術は弱まったでしょうね」
「何が言いたいんだ」
ティルドは鋭く口を挟んだ。
「アロダがいなければ、何だってんだ。アロダ以外にも魔術師はいるじゃねえか」
「そうね、私がいるわ。でもあなたに手をかけるのは私じゃない。リグリス様ご自身か、サーヌイかしら」
「魔術師じゃない相手には役に立たないって?」
「オブローンに仕える神官が身につけた神術は魔術とよく似ている。だから、効くわ」
「……何が言いたいんだ」
彼は繰り返した。
「リグリス様とサーヌイは、魔術師とも神官とも違う力を持つ。――どうして気づかなかったのかしら」
「どんな力だろうと知るかよ! 相手が誰だろうが、俺には関係ねえ」
「魔除けを頼りにしている訳ではないのね」
「持ってるのなんか忘れてたくらいだ」
少年が正直に言うと、魔女は笑った。
「不思議。外見はよく似ているのに、言うことはユファスと全然違う」
「兄貴のことを口にするな」
「ごめんなさい」
素直な謝罪にティルドは口ごもった。
何か、おかしい。ちぐはぐだ。
奇妙なのはメギルか、自分か?
アーリを殺した女。
ユファスを――殺した。
本当に?
本当にそうなのなら、何故彼は、この女と呑気に言葉を交わしているのだろう。
剣がなくても、相手が魔女でも、何か手酷い魔術を食らう結果となっても、これまでの彼ならば前後の見境なく飛びかかっているはずだ。
火の魔女メギル。
年若い彼の、ほとんど全力に近い拳を腹に受けた――。
「……腹、平気か」
思わずティルドが言うと、メギルは少し笑った。
「おかしいわね、お兄さんの仇と殴りつけておいて、その具合を気にするの」
「俺は」
ティルドは唇を歪めた。
「……兄貴が、怒るさ。魔女だろうと何だろうと、女を殴るなんて」
「そうね。彼は私を斬るといって、結局、斬れないまま。優しい人ね。それは心弱いということにも、なるけれど」
「何だよ」
少年はむっとした。
「んな言い方あんのかよっ」
「人を傷つけたくないと言うのは優しいようで、やっぱり弱いのよ。自分が傷つきたくないと言うのと同じだから」
「それが悪いのかよ」
ティルドはメギルを睨んだ。
「誰も傷つかずに済むなら、それに越したことないだろ」
「そうね。でもそうはいかないものでしょう」
「……待てよ。いったい何の話、してんだ」
はたと気づいて少年は言った。そんな哲学めいたことを語り合いたいとは思っていない。メギルは少し笑うようにした。
「誰も傷つけたくなくてもやっぱり自分がいちばん可愛いものだ、という話よ」
「訳が判らねえぞ」
ティルドは唸った。
「そう? それじゃ判りやすくしましょうか。リグリス様はオブローンに仕えるために風読みの力を欲していらっしゃる。私はあの方のために、何でもするわ。それが私のよりどころだから」
「よりどころだって?」
「判らない? 心の支えとでも言い換えましょうか?」
「んな……そんなもんのために、殺したのか?」
理解できないとばかりにティルドは言った。
そんな曖昧なもののために多くの命を奪ったのか。
たくさんの人の命。彼が知るだけでもポージル一家、アーリ、それに、ユファスの。
いや――どうなのだ?
「それがないと崩れてしまうというような思いは、あなたに浮かんだことはないのね、きっと」
そう言ったメギルは答えを求めておらず、ティルドも答える気はなかった。
理解できない。
それは少年の若さ故か、それとも年を重ねても彼には思い至らぬ事柄か。
「何で……黙って殴らせたんだよ」
彼はそれを問うた。気になっていたことだった。
「不満なの?」
メギルは少し笑うようにした。
「殴りたかったんでしょう。だから殴りかかって、そして殴れた。よかったじゃないの」
まるで他人事のようにメギルは言った。
「避けられただろうって言ってんだよ! 俺に魔術をかけることだって」
「スーランがいたから」
魔女は言った。それが答えのようだったが、少年にはよく判らなかった。
「何で、あいつがいると殴られんだ?」
「彼はね。私がユファスに惹かれたのだと思っている」
「おい、つまんねえ冗談言うとまた殴るぞっ」
「スーランが思っているのよ、私ではないわ」
ティルドはメギルの言葉に何だかごまかされているような、いや、メギルは事実を言っているだけだと思うような、矛盾した思いを覚えた。
「ラタンだけの前ならば。あなたを嘲笑い、ユファスを貶めるようなことを言う方が、魔女らしかったでしょうね。でもスーランはそんなことをすれば演技だと……思う」
「ちょっと待てよ。それって、お前、やっぱ、まさか」
そんな予感がある。だが、まさか。それは予感よりも儚い、抱いた結果が絶望に変わることも有り得る、あまりにも微かな希望にすぎないのではないか?
この女は、彼の兄を殺したふりをしているとでも。
まさか!
「あなたの命は、長くてあと数日ね」
不意にメギルは言った。まるで、ティルドに脳裏に浮かんだものを追い払うかのように、冷たく。
「祈りたい神様がいるなら、聖印を持ってきてあげてもいいわよ」
「親切なこった。要らねえよ、神サマなんか知るか」
ティルドは吐き捨てるように言った。
「そう、それじゃ」
メギルは踵を返した。
「また、あとで」
――あと。
「メギル」
去ろうとする魔女の姿に、彼は呼びかけた。
「俺は……てめえを許したり、しねえからな」
「でしょうね」
短く答えるとメギルは扉を閉めた。閉ざされた扉をじっと見つめながら、ティルドは考える。
メギルは、何と言った?
いや、言わなかった。何も。
そして彼にも、言わせまいとした。
浮かんだ疑念も、その答えも。
あの魔女は本当に彼の兄を――風食みの司を炎で殺したのだろうか?




