12 その対象に入ってない
ぶわりと吹いた風に両目を細くして、薄目の向こうから町を見た。
空気は不思議冷たくない。冬至祭を越えたとは言え、季節はまだ冬の盛りである。
それだと言うのに、北に生まれた少年の肌にすら厳しくない風は、せいぜい秋口の頃――このあたりでは、の話で、エディスンであれば厳寒だが――のようだった。
ぐいと背を押され、ティルドは内心でラタンを罵倒した。
冗談ではない。
レギスの町で〈風謡いの首飾り〉を手にし、夜が更けてきたから朝になったらすぐ発とうと最低限の休息を試みれば、いちばん眠りの深い時間帯にこのクソ神官がサーヌイとともに現れて、彼をここまで連れたのである。
ティルドがここを訪れるのは初めてだ。
――コルスト。
憎きアロダとメギルによれば、ここがリグリスを筆頭とする業火の神官たちの本拠地、だ。
「さっさと歩け」
立派そうな館の入り口に向けて、ラタンはまたティルドを押す。少年は腹を立てて振り返った。
「俺はあんたの虜じゃないぜ」
「ラタン殿は気が立っておいでですから、従った方がよろしいですよ、ティルド殿」
「てめえは黙れ!」
少年が叫ぶとサーヌイは首をすくめた。
「サーヌイ、判っているな」
言ったのはラタンである。
「はい、ラタン殿の思うようにどうぞ」
「ふん」
何だか知らないが思い通りになると言うのに不機嫌なことだ、とティルドは思ったが、特に口にはしなかった。確かに、ここで下手なことを言うのは〈蜂の巣の下で踊る〉というものだが、少年の気質としては蜂を怖れたというよりも、単に「こいつらの事情なんざ俺が知るか」という辺りである。
「歩きたくないならそれでもいい。ただ風謡いを渡してもらおう」
「ふざけんな。はいそうですかと渡す訳ないだろう。そっちこそ、ユファスとメギルを連れてこいよ」
ティルドが言うとラタンは少し面白そうな顔をした。
「兄は判るが、メギル? お前まであの女に惚れたのか」
「この世でいちばん面白くない冗談を言うんじゃねえ! 俺はあいつと約束してんだ、いいから呼んでこいよっ」
「忘れっぽい方ですな、ティルド殿。あなたは私と約束したんですよ、お兄さんの救命と引き替えに。魔女との約束なんか、消えてなくなってます」
「アロダ、てめえっ」
玄関から現れた太めの魔術師を見れば、ティルドの目が燃えた。彼はほとんど反射的に剣を抜く。
「やれやれ、少しは学習をしてもらいたいもんですが」
アロダがぱちんと指を弾くと、剣が突然、有り得ぬほどに重くなった。少年の両手は地面に引っ張られ、武器を手放すか、そのまま無様に膝をつくかという二者択一を決めかねたまま、結果として彼は後者を選んだと同然になった。
「おや。大丈夫ですか」
「てんめえ……絶対、ぶち殺す!」
「物騒です」
アロダは肩をすくめた。
「殺すの何のと簡単に言うものじゃありませんよ。エディスンの兵士は野蛮だと思われてもいいんですか」
「てめえに言われたかねえよっ」
「そうですかねえ、私だっていまでも、カトライ王とローデン閣下にお仕えしてるんですよ。多少、さぼり気味ですがね」
「ローデン様には報せたからな、ざまあみろ」
「うーん、あなたにそれだけの判断力と実行力があるとは思いませんでした。馬と魔除けを売り払って金を作るとは大した生存力と言いましょうか。確かに甘く見ていましたが、でも大した問題じゃないですよ。閣下は別に、私を罰しないでしょうし」
「そんな訳があるかっ」
「魔術師同士にはね、いろいろあるんです。まあ、町なかでの施術は拙かったようですが」
アロダは他人事のように言った。
「ちょっとやりすぎたが脅すつもりで傷つける気はなかったということで、軽い罰金くらいで済む訳です。お兄さんは死ななかったし、死なせないように手を打ったのも私ですからね。魔術師協会って鷹揚なんですよ」
「そう言うのは、いい加減って言うんじゃないのか」
皮肉めいた口調でラタンが言った。
「スーラン、遊んでる暇はない。ガキと風謡いを連れて、リグリス様のところに」
「何時だと思ってるんです。司祭殿はおやすみ中ですよ。傍らには金髪の美女。羨ましいもんですね。魔女でなければですけど」
「メギル様が……リグリス様と?」
ぽかんとしてサーヌイが言った。
「どうしてですか?」
「どうしてって」
アロダは肩をすくめた。
「リグリス様はあなたに性教育を怠ったんでしょうねえ。だいたい、よい年の青年が一度も欲情の経験がないなんていけません。不健康です。間違ってます。ロウィルにはいちばん厳しいフィディアル神官だって、そんなのいませんよ、普通。ねえ、ティルド殿」
「俺に同意を求めるな!……何だって、魔女が? あんの女狐、リグリスの愛人の立場で人の兄貴に手ぇ出しやがったのかあっ」
「ほら」
アロダは両手を拡げた。
「普通はこれで、通じるもんです。ねえ、ラタン殿」
「同意を求めるな。……スーラン、お前少しいつもと違うな」
「そうですか? 別に演技してたつもりはないですけどね、どちらかっていうと素の私はこちらですよ。あなた方神官をからかっても面白くないですけど、ティルド殿を苛めるのは楽しくてねえ」
ああ、サーヌイ殿をからかうのもけっこう楽しいです、などと魔術師は言った。
「そんな訳で、司祭殿も魔女ももう少し日が昇るまで寝室から出てこないでしょう。もしかしたら、いま頃は朝の一発……いや、下品ですね、やめましょう」
「なら、このガキをどこかに放り込んでおけ」
「俺は捕らえられにきた訳じゃねえって言ってんだろ」
「その気がなくたって同じさ。捕まろうと思って捕まる人間もいない」
「そうですね、良心の呵責に耐えかねた盗賊くらいです」
「てめえ、初めからそのつもりかっ」
「決まってるじゃありませんか。ご丁寧に風謡いを手に入れてくれたそうで。〈油をかぶって火に飛び込む〉と申しますか、それともこの場合〈調理人に拾われた迷い羊〉ですか」
「馬鹿にするのかっ」
「違いますよ。苛めてるだけです。楽しいので」
愛情表現ですよ、とまで魔術師は言った。
「まあ、ローデン殿の制約は活きてますから、私がいる間は簡単にあなたを殺させはしませんよ。ご安心を」
「兄貴は。兄貴も同じだろ。無事なんだろうな」
「おや、ご自身よりも兄上ですか。よいですね、美しい兄弟愛です」
「てめえが言うなっ」
「ご存知ですか、ティルド殿。ローデン閣下の制約は、ものすごく穴があるんです。まあ、そうでないと我々が受けないとお考えでしたし、協会にだけ責があったヒサラには十二分でしたけれど」
「どういう、意味だよ」
ティルドはどきりとした。
何か、不吉なことが言われようとしている。
そんな気がした。
「風具とその継承者を守ること。判ります? 風司はその対象に入ってないんですよ」
「――てめえ、まさか」
心臓が、跳ねた。
「ユファスは。どこだ。連れてこいよ」
黒いものがティルドの心を覆う。これは、不安。
「契約だろ、そういう約束だろうが。早く兄貴をここに連れてこいっ」
「できません」
アロダはゆっくりと首を振った。
「何だって。ふざけたこと」
「はっきり言わなければ、お判りいただけませんか」
魔術師は、少年の言葉にかぶせるようにする。
「何を……だよ」
黒いものが――心を覆う。
ティルドは自身の声が掠れるのを聞いた。
まさか。そんな、馬鹿な。
少年の心の黒雲に気づくのか気づかないのか、アロダはかすかに首を振って、続けた。
「ティルド殿、たいへんに申し上げづらいのですが。――お兄さんは亡くなられました」
お気の毒に、と魔術師は言った。
冬の風が吹いた。
暗い茶色の髪を巻き上げる突風は、北に生まれた少年の肌にすら厳しくなかった。
だが彼の全身には鳥肌が立った。
アロダの言葉が理解できなかったため。
それとも、理解できたため。




