10 本当によかった
「コレンズ殿ではありませんな。どなたですか」
近衛の制服を着た兵士が、任務に忠実な顔をして見覚えのない魔術師を見ている。王子は少し安心した。
「俺だ」
ぱっとフードをはね除ければ、近衛兵の目はしばたたかれ、それからその顔色が傍目にも判るほど青くなる。
「ヴェルフレスト殿下!」
「よい。大げさに帰還を騒ぎ立てられる前に父上に会いにきただけだ。見分けなかったからと言って叱責はせぬ」
それどころか見知らぬ魔術師にちゃんと誰何をしたのはお前が初めてだ、と彼は褒め、慌てて最高級の礼をする兵士に手を振った。
「父上は」
「は、その……」
「よい。だいたいの事情は聞いている。いまは起きておいでか」
「は、今日はだいぶお元気でいらっしゃいまして、執務につくと仰るのをローデン閣下がおとめになりました」
「成程」
ヴェルフレストは安堵して、兵に合図した。兵は敬礼をして、王子の代わりに戸を叩き、なかの使用人を呼ぶ。思いがけない第三王子の姿――それも、黒ローブ姿――に使用人も目を丸くしたが、そこは訓練を受けた彼らである。何事もないように彼に礼を尽くし、正しい形で王子を案内した。
ヴェルフレストは、まだ自分の帰還を誰にも告げぬように厳命し、さっと室内へ入った。
カトライの私室に入ったことはあまりない。
彼が父親と顔を合わせるのは家族の食卓か、たまに出席する会議くらいで、父親は息子に用事があればたいてい執務室に呼んだ。
エディスンの王の部屋ともなればたいそうに贅沢かと言えば、そうでもない。
このあたりは王個人の好みが入り、代が替われば部屋の様子もずいぶん変わると聞く。カトライは、業務や外交としては見栄も必要だと思っているようだが、個人的には派手なものを好まないようで、その広さに似合わず、部屋には必要最低限のものしか置かれていなかった。
家具も小物もさすがに最上級のものが置かれてはいるが、それは見る者が見れば判るという類で、判り易くも宝石がちりばめられていたりはしない。
もう少し飾り気があってもいいのではないか、とその三番目の息子は考えた。
「陛下、よろしいでしょうか」
使用人が先触れをする。
「その……ヴェルフレスト王子殿下がお見えになりました」
「ヴェルフレストだと?」
意外そうな声がする。いつも張りのある声は少し弱く、息子はどきりとした。
「戻ったのか。ローデンめ、何も言わなかったぞ」
「ほんの一カイほど前に戻りました、父上。ローデンとはまだ顔を合わせておりません」
そう言うとヴェルフレストは寝台に起き上がっているエディスン王に向けて臣下の礼をした。
「ヴェルフレスト」
カトライは目にした息子が本物であるか確認しようとでも言うように、じろじろと彼を見た。
「何だ、その格好は」
「帰還を騒がれ、父上にお会いするまでの時間を取られたくありませんでしたから。目立たないようにいたしました」
「それは」
カトライはふっと笑った。
「それで目立つと思うがな」
「そうですね」
息子は同意した。
「それでも、ここにくるまで、怪しい奴ととどめられることはありませんでした。この場合は役立ちましたが、警備体制は見直した方がよろしいかと」
先に思っていたことを口にし、彼は父を笑わせた。
「具合は。いかがなのです」
「誰に聞いた」
「私についていた魔術師です」
「アロダと言ったか」
「いえ、ヒサラの方で」
「ヒサラ?……死んだのでは、なかったのか」
「冥界から蘇ったそうですよ」
気軽に言いながら彼は、おそらくローデンが多用しているであろう、寝台の横に置かれている椅子に腰掛けた。
「父上」
ヴェルフレストは父親を見た。このところずっと王を見ているローデンならば、今日は顔色がいいと言うだろう。だが、瀕死の状態を知らぬ息子には、父親の様子はずいぶんと弱って見えた。
「本当なのですか。火に……襲われたというのは」
息子がその話をはじめると、王は使用人に合図をした。使用人は礼をして出て行く。寝室は父と息子のふたりだけになった。
「そうだ」
苦々しくカトライは言った。
「奇妙な音がしたかと思うと、熱が感じられた。すぐに、炎が私の周辺を覆いつくした。何事か、業火の神官の仕業か、などと思う間もなかったな。まず消し止めようと必死になり、無理だ、それよりは馬車から逃げ出すべきだ、と思い至ったときは遅かったようだ。煙のために意識を失ったらしい。気づけば、ローデンが泣きそうな顔で俺を見ていた」
そう言うとカトライは唇を歪めた。エイファム・ローデンの泣きそうな顔というのはヴェルフレストには想像がつかなかった。
「ご無事で……本当によかった」
ヴェルフレストは息を吐いて、カトライの手を取ろうとし、躊躇った。包帯の巻かれている両の手は、触れれば痛むだろうか。それをそっと動かして、大丈夫だというように先に息子の手を取ったのは、父だった。息子はまた、安堵の息を吐く。
「父上、お伺いしたいことがあります」
それから彼はそう言った。何だ、とカトライが促す。
「そのように突然、火に見舞われたと言うのなら」
ヴェルフレストはのどに引っかかるものを覚えたが、それを飲み下して続けた。
「――誰が術を使ったのかは、お判りになりませんでしょうか」
「誰、だと。誰であれ、リグリスの手下だろう」
「ローデンがそう言いましたか」
「何?」
息子が何を問うているのかよく判らないように、王は眉をひそめた。
「何も言わぬが……それ以外にあのような術を私に施す者がいるとなれば、思っている以上に深い恨みを買っているということに」
言いかけてカトライは言葉をとめた。
「ほかにも、私を恨む者はいるな」
「何ですって」
今度は息子が返した。
「誰です」
「……その辺りは聞いていないのか」
「何についてですか」
「サラターラのことだ」
「母上ですか?」
思いがけない名前にヴェルフレストは瞬きをする。
「まさか王と王妃が派手な夫婦喧嘩をして、その果てに母上が父上の馬車に火を放った、などと馬鹿げたことは言わないでくださいよ」
それはいささか性質の悪い冗談だったが、一部では真実をついていた。王は嘆息する。
「サラターラから王妃の任を解かねばならぬやもしれん」
「……何を仰っているのですか?」
それはつまり、王である父とその妃である母が離婚すると言うことで、王家としては重大な話であり、一家族としても重大だ。




