05 どんな違いがある?
リグリスは答えなかった。無視したと言うよりは、まるで青年の声が耳に届いていないかのようだ。
「メギル」
「御前に」
背後にいた火の魔女がすっとユファスより前に進み出た。
「よくやった。あの魔術師は信が置けぬが、お前は頼りになる」
「嬉しいお言葉にございます、セラン」
メギルの表情はユファスから隠されていたが、その声を聞いたところでは、少女のように頬を赤らめているのではないかと思えた。
実際にはどうであったにしろ、ユファスはぞっとした。たくさんの罪なき命を奪い、彼を――おそらくは彼以外に幾人も――妖しい術にかけて楽しんだ女が、まるでただの娘のようだ。
リグリス様のためというのは「業火の司祭」のためではなく、愛しい男のため。
教義に惹かれて、或いは美味い汁を吸えると思って怖ろしい神に仕えるのであれば、理屈は判る。だがメギルはそうではない。リグリス当人に惹かれている。
メギルだけではないかもしれない。おそらくこの館にいるのであろう、オブローンを崇める何人もの者たちも、リグリスが引っ張ったからその位置にいるのではないか。司祭を名乗るリグリスにはそれだけ、人を――魔女を――惹き付ける魅力、それとも魔力があるのだ。
幸いにしてその魔法はユファスには感じられない。
ただ、正直に言って、怖ろしいとは思った。
未知なる力を持つ男。
ユファス自身が持つこととなった力が、リグリスにどれほど気に入らないか。
風食み。
風を遮ることは火の生きる道を閉ざす。これは自然の――。
「自然の理」
ぽつりと、ユファスの口から声が洩れた。
それは、白い魔女がエディスンの王子に言った言葉でもあった。無論、ユファスは王女と魔女のやり取りなど知らない。彼の脳裏に蘇ったのは、アロダが戯れに――だろう――彼に与えていった魔術学の本の一節だった。
魔術の理は何も特殊なものではない。それは、自然の法則にとてもよく似ているのだと。
青年がそう呟くと、司祭は初めてユファスを見た。
その姿かたちではなく、「ユファス・ムール」を。
「イルサラ」
リグリスの口の端が上がった。
それを見て鼓動を跳ねさせ上げたのは、ユファス青年ではない。
司祭の愛人である魔女は、何度も目にしているはずの冷たい目にこのとき、何故かどきりとさせられた。
「我が力を感じ取る者。お前が死ぬとき、どのような力が解放され、どのような力が我がものとなるか」
暗い色の瞳がすっと細められた。
「楽しみで、ならぬ」
「僕には、あなたを楽しませる義理はない」
道化師のつもりはないから、などと――別に皮肉でも強がりでも何でもなく、変わらぬ調子で――ユファスは続けた。
「あなたが僕を殺そうとすればそれはたやすいのかもしれないけれど、何でも思い通りにさせてやる気はないよ」
「ユファス」
メギルが、司祭にそのような口を利くことをやめさせようとでもいうように、青年の腕を引いた。
「よすのよ」
「何を?」
青年は魔女の方を見もしなかった。
「彼は僕の恭順なんか期待してないし、武器もないのに遠吠えをしていたって気にもとめないという訳だ。それに、隠してるつもりではいるけれど、彼は僕が彼を怖がっていることに気づいてご満足だよ。そうだろう、司祭殿」
「私は恐怖を食らって生きているのではない。魔物では、ないのだから」
ふっと微かに笑った様子にはたいそうな皮肉が込められていたが、それはユファスにもメギルにも向けられていないようだった。
「私を怖れるか、風食みの司よ。ならばお前はまだ、見切れていない。だがそれはどうでもいい。お前が風食みの力を操ろうと持て余そうと、道具は目覚めている」
リグリスはすっと腕輪をつまみあげるようにすると、その輪のなかに魔法のレンズでも仕込まれているかのように、それを通して青年を見た。
「私が持っているのが気に入らないか」
「気に入らない。でも」
ユファスは冷たいものが背中を流れるのを感じながら、しかし言った。
「どうでもいい。風具は、目覚めているから」
業火の司祭と風食みの司は同じことを言った。
我がものにするというリグリスの自信に対して、渡さぬという青年のこれはどのような思いなのだろう。
〈風食みの腕輪〉の力は彼を火から守る。
だがそれを頼みに、リグリスに対抗しようというのではない。
リグリスの火からは逃れても、メギルは火術以外の手段も持っているはずで――。
リグリスの、火。
ユファスはふと不審に思った。
業火の司祭が炎の使い手だと、誰かから聞いただろうか?
もちろん、オブローンを崇める以上はそれくらいの力を持っていてもおかしくない。だが、頭でそう考えたと言うよりは、前の前に男から力の気配を感じたことに気づいた。
魔術師には魔術師が判ると言う。もちろんユファスは魔術師ではない。彼に宿ったらしい特殊な力は、風司と呼ばれる者の能力だ。
その力が何かを感じさせるのか。しかしメギルやアロダの魔力を感じ取るようなことはない。では魔術師とは違うのか。それとも八大神殿と同じように、彼らは神に祈ることで業火の術を身につけられのか。
或いは。
「ケルエト」
「――何だと」
「あなたが魔術師だとは聞いていない。業火の神官だと言うけれど、オブローンとアイ・アラスの火にどんな違いがある?」
ユファスは呟くように続けた。
「魔術師ではなく、けれど、神に祈って身についた神術でもない。なのに、火の力を身に宿す。それを精霊師と」
「黙れ」
リグリスは腕輪を持ったままの手をすっと下ろして静かに言った。
「何も知らぬ、若造が」
確かにユファスは何も知らず、ふと感じたことを口にしていた。先に入れたばかりのにわか知識が、何月も前にアーレイドで聞いた言葉と一致した訳ではない。いや、一致していたのかもしれないが、少なくともユファス自身には自覚がなかった。
魔力、またはそれに似たものを操る存在には四種ある。
まずは魔術師。そして、神官。そのどちらとも異なる稀少な存在が精霊師。あとは、人外――魔物である。
魔術学の本にあったそんな文章が特に心を惹いたという訳ではなかったけれど、何となく覚えのある言葉のような気がして心に残った、それだけだ。
第二の故郷たる西の街から旅立った朝、友人である魔術師エイルの師匠と名乗った男が精霊師の話をしたことを思い出した訳ではなかった。ただ、記憶のどこかに引っ掛かっていただけ。
それがふいと青年の口をついて出た。まるで預言のように。
そしてそれはリグリスの気に入らなかった。
それだけの、こと。
「精霊師?」
繰り返したのはメギルだった。
「まさか。あれは、伝説のようなもので……」
「無論」
リグリスは言った。
「そのような存在は実在しない。我が力はオブローンに与えられしもの」
声の調子は変わらず、そこに感情はなかった。
戸惑ったような視線を投げるのは、魔女だ。
「下がらせろ」
業火の司祭はそれ以上、ユファスにもメギルにも言葉を許さずそう言った。
「見るべきものは見た。監視を厳しくしておけ。逃がすな」
「はい……リグリス様」
そのはっきりした命令に、メギルはただ礼をした。
ユファスは黙っていた。
司祭の様子には何も変わったところなど見えなかったが、それでも彼は見た。
ケルエトという、ユファスには何の意味もない一語が司祭を一瞬揺らしたこと。
それは何か重要な情報でありながら、同時に酷く危険な言葉であった。
ユファスは、もし自分が風具の定めと関わらなかったとしても、その単語を発したという理由で殺されるかもしれないと、そんな怖ろしい予感めいたものを覚えていた。




