03 答えの出ない事々
サーヌイは、レギスの街へ行けと言った。
それはいささか、少年に奇妙な感慨をもたらす地名であった。
ほんの半年も前ではない。「〈風読みの冠〉を受け取りにレギスへ行け」とそう言われたのは。
レギスとエディスンの一往復、首尾よく冠を持って戻れば近衛兵になって、リーケルと――どうなると言うのでもないが、ただの軍兵よりは伯爵令嬢に近寄ることができるように思えた。
初めてのひとり旅には戸惑いもあったけれど、王兵の軍服に人々は親切で、彼は難なくその町にたどり着いた。
そこからは、「難」の連続だ。
レギス。
〈風読みの冠〉が在り、そして失われた町。
アーリと出会った町。
少女が命を落としたのは西の街アーレイドであるけれど、アーリが眠っているのはレギスであるように思った。
その荷を埋めた丘を思い出す。
あの丘にもう一度、立ち寄ってみようか。そう考えた少年は忘れていたことを思い出した。
耳飾り。
アーリが求め、リエスが持っていた〈風聞きの耳飾り〉ではない。
ティルドが、彼女の思い出に持っていたいと言って、彼女の荷からもらい受けた小さな青い石の耳飾り。
彼女がこれを身につけていた姿は見たことがない。
青い石がアーリの耳元を飾る様子を想像してみたティルドは、心に浮かんだ少女が髪をひとつに束ねた紺色の帽子をかぶる姿ではなく、髪を下ろした姿であったことにどきりとした。
アーリが髪を下ろしていたところを見たことがない訳ではない。一夜の愛を交わした夜は、少女の髪は肩に落ちていた。
だが、ティルドがアーリを思い浮かべるときは、いつも少女は髪をしばっている。
そうでないのは、リエスだ。
彼は自分自身に向けて呪いの言葉を吐いた。
思い出そうとしないと、アーリを思い出さなくなっている。
息がとまるほどだったつらい記憶を忘れることは無論なく、胸はいまでも苦しくなる。だがそれでも、目の前がちかちかして呼吸できなくなり、倒れそうになるほどの激烈な感覚は彼を訪れない。
それでよいのだ、と誰もが言うだろう。ずっとそれほど強い感情に支配されていたら日常生活に差し障りがあるし、身体だって悪くしてしまう。
しかしティルドはそんなふうに理性的には考えられなかった。
自分はやがて忘れていってしまうのか?
あの衝撃を。
理不尽に殺された少女のことを。
「顔色がよくないようですが」
「うるせえ、黙れ」
「食事か睡眠か、どちらかが足りないんじゃありませんか?」
「黙れっつってんだろ」
何が怖ろしいと言って、セイ――ではない、サーヌイがあくまでも誠実であることだ。まるで、本当の神官か神父のよう。
ティルドは教会や神殿の類に通ったことはなかったけれど、軍には告解を聞きにくる神官がいた。それがどの神に仕えている神官かも知らないくらい少年は興味がなかったけれど、言葉を交わしたことはある。
その人物は「穏やかで誠実」という、絵に描いたような神官の印象のままだった。
神官と魔術師は、当人たちの希望はどうあれ、比較される運命にある。神官が「穏やかで誠実」なら、魔術師が一般に抱かれている印象は「陰気」だの「忌まわしい」だの、そういった感じだ。
だが実際には、いろいろいる。
ティルドが出会って言葉を交わしたのはエディスンのローデン、アーレイドで知り合ったエイル、その師匠オルエン、あまり数えたくないがメギルにアロダ、あとは協会で用を聞いてくれた名前も知らない魔術師などであったが、みな違う印象を持っている。当たり前と言えば当たり前だ。
しかし一方で神官というのは「優しい」「真摯」と言った印象と異なることは、まずない。
ラタンなどは偽神官である――とティルドは思っており、少なくとも八大神殿と分ければ確かに別ものだ――から数に入れないとしても、サーヌイはその「優しくて真摯」の枠に入るように見える。カリ=スの腕に火を放ったところを見ていなければ、八大神殿に仕えている神官が騙されてでもいるのではないかなどと思ってしまいそうだ。
演技ならば一流の芸人と言えそうだが、怖ろしいのは、どうやらこれが間違いなく真の姿であることである。
サーヌイはあれやこれやとティルドに世話を焼こうとし、そのたびに少年に怒鳴りつけられて身をすくませていたけれど、まるでそれが彼の使命であるとでも言うように「神官のふり」をやめなかった。
当人に言わせれば「ふり」ではなく神官だということになるのだけれど、獄界神などを崇める男をどうやったら聖職者と呼べるのだ?
「早く町へ行って、寝台で休まれた方がいいですね」
「いい加減にしろ」
こともあろうに心配そうな顔で言うサーヌイに、ティルドは苛々と言った。
「てめえは、俺が首飾りを手にするかどうかだけ気にしてればいいんだ。俺の健康なんて考えるな」
「ですが」
「ですがじゃねえ、黙れよっ」
全くもって、苛ついた。
ラタンのように冷酷さでも見せてくれた方が余程、気が楽だ。怒り続けることは変わらないとしても、少なくとも「自分が善人に対して怒鳴り散らしているのではないか」という錯覚を感じずに済む。
「何でしたら、何か温かいお料理でもお持ちして」
「消えろっ」
料理人たる兄もいなければ、食事は携帯食料しかない旅路である。魔法でぽんぽん跳んで温かい食べ物を持ってきてくれるというのは魅力的な話であったけれど、何を盛られるか判ったものではないし、そもそもこの青年神官と一緒にお食事なども冗談ではない。ティルドの機嫌は悪化の一途をたどった。
そのあたりの見極めは上手になってきたらしいサーヌイ青年は、これは拙いとばかりに慌てて姿を消した。数秒ほど神官のいたところを睨みつけ、本当に「消えた」らしいと見て取ると、ティルドは鼻を鳴らす。
ひとりの旅路は少し寂しいが、腹立ち通しよりはましだ。
――しかし、苛つく存在が消えると、急に静寂が耳につく。そうなると考えても仕方のないことばかり考えてしまう。
考えても答えの出ない事々。
ユファスのこと。アーリのこと。メギルのこと。リエスのこと。
考えれば腹立たしいばかりの事々。
アロダのこと。サーヌイを含む、神官たちのこと。場合によってはローデンのこと。それからヴェルフレストのこともだ。
ガルシランについては、よく判らない。不思議な吟遊詩人リーンのことも。
何にしても、考えて何か実になることでもない。
ティルドは言われた通りに――することもまた、腹立たしかったが――ただ、レギスを目指した。
暦は冬の盛りを越え、寒さは少年の身に沁みた。
或いは、心に。




