07 人形でいればよいものを
何となく熱っぽいような気分があった。
たぶん、疲れているのだろうとリエスは思った。
カリ=スは最初のときよりも速度を落としたが、それでも少女には冗談にも心地よいと言えない旅路であることに変わりはない。
神官たちのもとにいたときよりはずっといい。でも、何事もなく快調であった日が懐かしいというものだ。
そのような日々があったかどうかも、よく覚えていないのだけれど。
砂漠の男はおそらく、わずかな眠りと食事のため――それもむしろ自分よりも馬のため――に少し休憩をする以外、町に入ったり宿を取ったりする必要はないに違いない。
そう思うとリエスは何だか申し訳なかった。
カリ=スはリエスが、それとも例の耳飾りが必要だと判断しているようだけれど、そのせいでエディスンにたどり着く日が遅くなるというのは、少しばかり気が引けた。
だから、彼女は我慢していた。
カリ=スがもう少し鈍い男だったら、目を回したように不意にぐったりとしたリエスを捕まえそこなって、落馬させていたかもしれない。
「リエス」
ラスルの男はずり落ちかける娘をしっかり抱え直し、巧みに手綱を操った。
「……少し熱いな」
彼はすっとリエスの首筋に手を触れると、そう判断をした。馬をとめると少女を抱え下ろし、木陰にリエスを座らせると自身の外套を羽織わせた。
「済まぬ、気づかなかった」
言われた少女は笑った。
「カリ=スだって万能じゃないでしょ」
「至らぬことは多い」
男は真顔でうなずいた。
「これって何もカリ=スの『急ぎの速度』のせいじゃないと思うのよね」
リエスは青い顔で言った。
「何か……ぼうっとするの。高熱出したときに似てるけど、頭痛や寒気はないみたい」
リエスは頭を押さえた。
「疲労か」
「ごめん、カリ=ス」
「謝るのならば私だ。無理をさせている」
砂漠の男の言葉はいつでも真摯であるから、リエスは却っておかしくなった。
「何かね、ずうっと音がしてるみたい。耳のなかで蜂が飛び回ってるみたいな」
言いながらリエスは耳を塞ぐようにしてみたが、何の役にも立たず、手を離すと首を振った。
「あたし、こんなに軟弱だったかなあ」
「術師の薬は」
「言われた通りにした」
「ならば、よいが」
言うとカリ=スは少女の隣に腰を下ろす。
「どうしてるかなあ。ヴェルに……ティルド」
それは問いではなく――当然、カリ=スが答えられるはずもない――ただの呟きであった。
「心配だなあ」
「彼らには彼らの道がある」
砂漠の男はそう言った。
「我らが案じても、何かが変わることはない」
「なら、案じたっていいでしょ」
リエスは言った。
「心配しても何にもならない。そうかもしれないけど、心配だもん」
「確かにな」
カリ=スは認めた。同意を得られるとは思っていなかったリエスは軽く目を瞠る。
「やっぱ、ヴェルのこと心配なんだ。悟ってるみたいだから、平気なのかと」
「追えるのならば、追いたい。もし彼が私の手を必要としたときに隣にいられないことがあれば、それは悔やむべきことだ。だが」
「悔やんでも何にもならない」
リエスは笑って言葉を先取った。そうだな、とカリ=スも少し笑う。
「そうだ。手と言えば、右手。大丈夫なの、カリ=ス」
「これか」
彼は神官に火を放たれた腕を軽く動かした。
「ほとんど、よいようだ。痕は残るやもしれぬが私の肌にはあまり目立たぬし、目立ったところで自らの戒めになるだけだ」
「傷は男の勲章ってやつね」
うんうんとリエスはうなずいて、顔をしかめた。
「どうした」
「いまちょっと、変な感じが……して」
言いながら少女は顔を歪め、両手で頭を挟み込んだ。
「気持ち……悪い」
「リエス」
砂漠の男は少女に羽織らせた外套を地面に敷くと、そこに横たわらせた。
「戻したければ、堪えるな。その方が楽だ」
「吐くものなんか、ないわよう」
少女は弱々しく答えた。
「違うの。吐き気とかじゃない。何か……」
(――ユファス!)
「ティルド!」
少女は叫び、男は戸惑った。
「いま、ティルドの声が……聞こえた、よ、ね?」
「いや」
カリ=スは正直に言った。
「私には聞こえなかったようだが」
「嘘」
「いや」
彼はまた素直に言った。
「それほど、あの少年が心配なのではないか」
「ちっ違うわよ」
リエスは即答した。
「ええと、心配だけど、それほどって訳じゃないわ」
カリ=スは少し面白そうな顔をした。
「好いた男を好きだと言うのに照れを見せる。西の人間というのは不思議だな」
「違うってば」
リエスは気分の悪さも忘れてぶんぶんと首を振り、結果として頭を押さえて唸った。
「西だろうと南だろうと関係ないと思うのよね! いまの声はさ……ちょっとした、気のせいよ」
幻聴だとしても少年が兄の名を叫ぶ声が聞こえた気がするなど奇妙とも言えたが、リエスは言い張った。
「気のせい」
カリ=スは繰り返す。
「そうそう。ちょっとした空耳ってとこ? 疲れてんのね、あたし」
「それにしては、ずいぶんと驚いた顔をしていたが」
「だって、いきなりそんな声がはっきり聞こえたら驚くでしょ、普通」
「気のせいとか空耳というのは、もう少しぼんやりしたものではないのか」
「そうかもしれないけど、聞こえたものは聞こえたんだし、でもティルドはいないし、あたしが『それほど』彼を心配して声を聞いたってのもあんまり楽しい話じゃないけど、もうっ。いいの、気のせいったら気のせい!」
「或いは」
少し離れたところから不意に聞こえた声に、ばっとカリ=スが立ち上がった。
「風司を継いだか」
「――ラタン」
砂漠の男は小さくその名を呼ぶと、何の躊躇いもなく剣を抜く。
「これはカリ=ス殿。殿下がいらっしゃらなくても守る対象がおありとは。お忙しいことで」
茶色いローブを身に纏った業火の神官は芝居がかった会釈などしてみせた。
「何の用だ」
「これまでと同じように、あなたには用はありませんよ」
「あたしも、ないけど」
リエスは身を起こしながら、カリ=スの影に隠れるようにする。
「お前の意志などは関係がない。お前が意志を持つこと自体、誤りだ」
「失礼ねっ」
「ただの人形でいればよいものを。もとの娘の心が強すぎるのか」
「――もと?」
「こい」
それには答えず、ラタンは短く命じた。
「イルサラを継いだのなら話は早い。まだ判断はつけ難いかもしれんが、どちらにしても同じ。風聞きが力を得たとき、風司との繋がりを強くする前に殺すだけ」
「させぬ」
カリ=スはラタンを睨んだ。
「冗談じゃないわ」
リエスは呟くように言った。
「殺すからこいって言われて、はいそうですかってついてく人間がいると思ってんのっ」
「逆らうつもりか」
「当たり前でしょっ」
〈狼と仲良くなった鼠〉のごとく、少女は砂漠の男の後ろにいれば安全だとばかりに、そこから神官に舌を突き出した。




